カフォンの薄い唇が、ゆっくりと、まるで世界の終焉を告げるかのように開かれる。
私はゴクリと息を呑み、その声に、この場の……いや、もしかしたら世界の命運が懸かっているんじゃないかという、馬鹿げた想像をしながら聞き入った。
そして、彼は言った。
「姉さま。そんなところに立って、どうしたんです?」
……いつも通りだった。
あんなに禍々しいオーラをだだ漏れさせていたのが嘘のように……彼はいつもの天使のような笑顔と、私が知っている優しいあの明るい声を、私に向けてきている。
あの可愛らしい少年の表情で、天使のような微笑みを浮かべながら。
普段と同じように、何事もなかったかのように。
いつも通りの笑顔。
いつも通りの声色。
それを聞いて、見て、私は思った。
──どうして、こんな状況で、普通に喋れるのだろうか?
どうして、周囲が血の海と化し、使用人たちがただの屍のように転がっている中で、こんなに自然な、天使のような笑顔を作れるのだろう?
さっきまで「余」だの「貴様」だの、何千年を生きた魔王みたいな口調で喋っていたくせに、なんでいきなり「姉さま」なんて、いつもの甘えた声で言い出すのだろうか?
「カフォン……」
言葉に詰まってしまう私。何を言えばいいのだろう?
「さっきまで魔王みたいだったね、どうしたの?」とか、「一人称が『余』になってたけど、キャラ設定でも変えた?」とか、「どうしてみんな倒れてるの?寝てるだけ?」とか、そんな質問がこの場に、この状況に適切なんだろうか。
いや、どれもこれもトンチンカンな質問にしか聞こえない。
質問の途中で口ごもる私を見て、カフォンはさらにコテリと首を傾げた。その仕草があまりにも自然で、あまりにも可愛らしくて、私は一層の戸惑いを覚える。
「姉さま?どうかしたんですか?」
彼の優しげな声が、不気味なほど赤い月夜に響く。幼い声だけれど、なぜだか妙に異質な響きを持った、不思議な声。
だけど、カフォンはその天使のような笑顔のままで、とんでもないことを口にしたのだ。
「エル姉さまがそこに立たれていると、あの薄汚い吸血鬼を殺せませんので……少しだけ道を譲っててはいただけませんか?」
「──」
天使のような、無邪気な笑みで、あまりにも残酷で、あまりにも常識外れなことを口にするカフォンに、私は思わず目を見開いた。
私の背筋を、冷たい何かがゾゾゾと這い上がっていく。それは恐怖か、絶望か、あるいは単なる生理的な悪寒か。たぶん全部だ。
無論、今までだってカフォンくんが不穏な、というか、もはや呪詛に近いような発言をすることもあった。だけど、こう真正面から、あまりにも無邪気な笑顔で残酷な言葉を聞かされるのは、想像以上にショックが大きかった。
私を見ていたはずの純真な紅い瞳が、この一瞬だけ、まるで知らない他人のように冷たく感じられる。
私には理解できない強大な魔力、その圧が、私の全身をねっとりと覆うような気配を確かに感じる。正直、今すぐにでも踵を返して一目散に逃げ出したい。
「……」
私は、私のすぐ後ろにいるカルネヴァーレ氏の、荒い息遣いを静かに聞いていた。正直、彼女を庇う理由なんて、これっぽっちもない。
息子を肉塊にするような母親だし、ヴァンパイアだし、今日初めて会った相手だし……。
──でも。
──庇わない理由もないのだ。だって、このままカフォンくんが好き勝手するのを黙って見ているのも、なんだか違う気がする。
だから、私は精一杯の皮肉を込めて言った。
「カフォン、どうしたのその手に持ってる物騒な魔法さんは?もしかして私たちのお見合いのために、サプライズで花火でも打ち上げようとしてくれてるのかな?でもちょっと派手すぎない?」
彼がいつも通りに言葉を発しているのだから──私も、この状況ではあまりにも場違いだけれど、せめて「いつも通り」を装うしかない。
私の皮肉に、カフォンくんの紅い瞳が、一瞬だけ、フッと細められた。
その表情は、私が知っている、甘えん坊の可愛い弟のものではなくて……まるで、私ごと、この場にいる全てを、なんの躊躇いもなく消し去ろうと逡巡するかのような、恐ろしい、冷たい瞳で……。
しかし、それは本当に一瞬のことだった。
カフォンはすぐに、にこりと年相応のあどけない笑顔を見せると、私に向かっていつものように言った。
「あはは、バレちゃいましたか、エル姉さま。実は、エル姉さまと王子のために、とびきり綺麗な花火を打ち上げようとしたら、ちょっと魔法が暴発しちゃいまして。テヘペロですね」
あぁ、なんて分かりやすい、嘘なんだろう。しかも「テヘペロですね」じゃないんだよ、この状況で。
でも……『嘘つきめ!』だなんて、とてもじゃないけれど口に出して言えるはずがない。この状況でカフォンくんにそんなことを言える奴なんて、よほどの馬鹿か、狂人だけだ。
「はぁ……?何言ってやがる、テメェ。嘘吐いてんじゃねぇぞカフォン……!」
私はそう思っていたのだが、すぐさま、お兄様が血塗れの体で立ち上がり、カフォンに食ってかかった。
まあ、彼はそういう狂人の類だから、しょうがないね。思ったことをそのまま口に出すのが彼の長所である。
なお、兄が吠えた、その直後。
「ぐはぁーっ!?」
カフォンくんの小さな掌から、凝縮された魔力が放たれ、兄、アイガイオンへと、一点の迷いもなく正確に、真っ直ぐに飛んでいった。
直撃した兄の身体は、赤い月の光を浴びて、一瞬だけ眩い光を放ったかと思うと、文字通り、大爆発を起こした。
「……」
残念ながらお兄様は肉片にはならなかったらしい。ヴァンパイアよりも頑丈なのか、あるいは魔法の加減でもしたのか、ボロボロの姿になりつつも、どうにか五体満足でそこにひれ伏している。
こういう場合、「あぁ、お兄様!大丈夫ですか!?あぁ!なんて酷い姿に!」とか言って駆け寄るのが「妹」としての正しい反応なのかもしれないけれど、私は華麗にスルーさせていただく。
お兄様から散々受けてきた狂気の一方通行の妹愛が、今、私の無関心という形で華開いた結果である。
おめでとう、お兄様。あなたの愛情は私をここまで強くしました。
「あはは、なんか変な声がしましたけど、気のせいですよね、エル姉さま?」
カフォンくんが、何事もなかったかのように私に問いかける。その笑顔は相変わらず天使のようだ。
「えぇ、そうね。多分、どこかの蚊が頑張って羽音を立てたか、妖精さんが全力で壁にぶつかった音じゃないかしら?気のせい気のせい」
私もまた、最高の笑顔と最高の嘘で返す。心の中では「お兄様が大爆発した音だよ!」と叫びたいが、そんな野暮なことはしない。
私と、カフォンくんは、血と埃が舞うこの場所で、にこやかに笑い合う。世界の片隅でティーパーティーでも開いているかのようだ。
だけど、いつ本性を現して私ごと全てを消し炭にするか分からない、爆弾のような弟を目の前に、私の心臓は警鐘のように高鳴り続け、背中には冷や汗が滝のように流れている。
「ところでエル姉さま。そろそろ席に座ったらどうです?美味しいお食事は姉さまを笑顔にしますよ?お姉さまの大好きなエルフパイ、まだ綺麗に残ってますよ」
カフォンくんが、あまりにも自然に、甘えた声でそう提案する。
「うふふ、カフォンったら悪い子ね。そんなに美味しいエルフパイを食べさせて、お姉ちゃんをまん丸に太らせたいの?それとも、美味しいもので釣って、お姉ちゃんを言うこと聞かせたいのかしら?」
欺瞞と虚偽の、仮面の会話。私たちは薄っぺらい笑みと、どこか毒を含んだ言葉を交わし続ける。
──でも、私には、こうして『話す』ことしかできない。
戦えるわけでもない、魔法も使えないこの私が、世界の理すら歪めるかのような邪悪な存在である弟に対して、一体何が出来るだろうか。
剣も魔法も通じないのなら、せめて言葉だけでも。たとえそれが、こんなにも空虚で、危うい、仮面舞踏会だとしても。
そうして、薄っぺらい、嘘まみれの会話を交わす私とカフォンくん。目の前にはボロボロの父と兄、そして倒れ伏すカルネヴァーレ氏がいるというのに、私たちは空虚な話を続ける──。
だけど、偽りの言葉は長くは続かない。次第に、言葉が途切れ途切れになり、私たちの間に気まずい沈黙が流れていく。ピエロのように笑みを貼り付けた私の顔は引きつり始め、カフォンくんの天使のような笑顔も、どこか貼り付けたように見えてくる。
この張り詰めた空気の中で、私の身体の震えが、どんどん大きくなっていくのを感じる。足先から始まった震えは、やがて全身に広がり、歯の根がカチカチと鳴りそうだ。
「……ふむ」
そんな、私の震えに気づいたのか、不意に、カフォンくんが小さく溜息を吐いた。
それは、まるで退屈な遊びに飽きた子供のような、あるいは、期待外れの出来事に肩を落とす老人のような、奇妙な溜息だった。
「はぁ……しょうがないか」
そして、彼は私──ではなく、背後にいるカルネヴァーレ氏と、ついでに地面で成り行きを見守っている父セーロスを、つまらなさそうな視線で一瞥し、言った。
「──まったく、興ざめだ。命拾いしたな、貴様ら。せいぜい、どこかの女神に感謝するがいい……」
その言葉は冷たく、価値のない石ころを捨てるかのような、感情の欠片もない声だった。
そして、彼は再び私に向き直ると、さっきよりもさらに、とびきりの、年相応の、愛らしい笑顔を見せてきた。
「エル姉さま。──そんなにブルブル震えなくても、大丈夫ですよ。この僕が、愛しいエル姉さまを傷付けることなんて、決してありませんからね」
そうして、カフォンくんは小さな身体を翻し、私に背を向けて、何事もなかったかのように、血と肉片が散乱するお見合い会場を後にした。
その小さな、けれど確かな歩みを、ボロボロになった父も兄も、そしてヴァンパイアの女王であるカルネヴァーレ氏も、誰も邪魔することなど出来やしない。
いや、邪魔できる状態じゃなかっただけかもしれないが。
彼の姿が完全に視界から消えた、その瞬間。
張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのように、私の全身からドバッと嫌な汗が噴き出した。
立っていることすらできなくなり、その場に力なくへたり込んでしまう。膝から崩れ落ち、血塗れのドレスが、庭園に散らばる血と埃にまみれる。もうどうでもいい。
「エルちゃん……」
「……」
そんな私の情けない姿を、父セーロスと、カルネヴァーレ氏が、それぞれの場所からじっと見ているのが分かった。ちなみに兄アイガイオンは、カフォンくんの魔法……いや、花火か?とにかく、とんでもない攻撃を受けたショックで、見るも無惨に、そして無様に気絶している。
残念ながら生きているようだ。そう、残念ながら。
「……」
二人の視線を受けて、私は……へたり込みながら、地面に両手をついて……。
──叫んだ。
「こ、怖かったぁぁーー!!!……なに!?今のなに!?もしかして今、私ピンチだった!?今さら言ってもしょうがないけどねぇっ!!」
私の、遅れてやってきた悲鳴とツッコミが、赤い月に照らされたお見合い会場の庭に、虚しく響き渡った。