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第74話

紅い月の悪夢が終わり、いつも通りにお日様が昇る……。

それは「昨日のカオスなんて、全部夢だったんじゃない?」と世界が私に囁きかけてくるようだった。


「う~ん……」


日の光を、窓から浴びて背伸びする私は爽やかな顔を浮かべる、爽やかなエルフのお姫様……。


──なんてことはなく。


絶賛寝不足で、目の下にクマまで出来ているエルフのお姫様である……。


「ね、眠い……」


その呟きは、王女としての威厳など微塵も感じられない、ただの疲れた少女のものだった。

昨日の「お見合い崩壊イベント」の後遺症は、どうやら私の脳にも、身体にも、そして尊厳にも深く刻まれているらしい。



──あの後。



お見合いという名のエルフvsヴァンパイア第百次戦争が終わった後、

カルネヴァーレ氏は呆れたような、しかし何か吹っ切れたような表情を浮かべて私にこう言ってきた。


『まぁ……こういうのも、悪くないわね。久しぶりに退屈とは無縁な時間を過ごしたわ』


ボロボロのドレスを身に纏う、これまた肉体もボロボロの女王カルネヴァーレはこともなげにそう言った。

彼女は謎の少年エルフに殺されかかっても、息子を他国の王に殴り飛ばされてもこうしてにこやかに、「悪くない」と言える器量の持ち主らしい。

それとも単に「人生に失望しすぎて何が起きても驚かなくなった」状態なのか?

そして、ヴァンパイアの従者たちも、何故か満足気な顔で、女王の言葉を礼賛するばかり。


『王子様が、とうとう自分の気持ちを素直に表現できました!』

『カルネヴァーレ様も、王子の雑魚さを受け入れて……!』


王子が殴られたのに、誰も仕返しをしようとしないあたり中々特殊な思考をお持ちのようだ。

……まぁ、そのお陰で本当の全面戦争にならなくてよかったけど……。

なお、その後始末は全て「勝利した側」である我々エルフに押し付けられた。ヴァンパイア側は「こちらは被害者なので~♪」とばかりに、王子を担いで颯爽と帰っていったのだ。

残されたのは、見渡す限りの血痕と謎の肉片。そして、後始末をさせられるエルフたち(私と父)。干からびた兄。それと多数の、未だに気絶しているエルフの従者たち。

城から出てきて手伝ってくれていたエルフたちの従者は顔を引きつらせ、私と父に何かを聞きたげにしていたが、何も聞いてはいけないという雰囲気を感じ取ったのだろう、無言で血まみれの庭園を片付けていた。

彼らの目は「質問すると死ぬ」という恐怖と、「でも知りたい」という好奇心の狭間で揺れ動き、皆がシンクロして黙々と謎の肉片を袋に詰めていく姿はなんとも奇妙だ……。


『はっ……姫様……?私めは、一体……?』


私がセルシル(役立たずの執事)の目を覚まさせようと、蹴り……ではなく、実に優しく起こしてあげた。

優しくの定義は人それぞれだが、少なくとも骨は折れていないので、エルフ貴族においては「極めて穏やか」なカテゴリに入るだろう。


『おはようセルシル。いい夢は見れましたか?私は悪夢を見ていましたけどね。でも安心してください、あなたは現実世界の悪夢をサボる特技をお持ちですから。国が滅んでも、あなただけは気絶していそうですね』


私の皮肉気な台詞に、セルシルは自分がいままで主を見捨てて気絶していたことを思い出して、顔を青ざめさせるが……。


『ピィ』

『ぎゃあ!化け物!?』


「化け物」こと巨大な蚊のヴァスカリスを見て再び気絶してしまった。どうやら彼の気絶芸はまだ続くらしい。

そうして、ようやく全てが元通りになったのは小鳥さんたちが朝の歌を歌う頃であった。


「ね、ね、眠い……」


──と、いう訳で絶賛寝不足中の私。こうして日光を浴びてなんとか目を覚まそうとしているのだが、焼け石に水のようだ。

今すぐ眠りという名の気絶をしてしまいそう……。セルシルのように自在に意識を失える能力があれば、今頃は夢の中でヴァンパイアとお見合いをしていないパラレルワールドを旅しているところだろうに。

そうして、私が窓辺で必死に眠気と死闘を繰り広げていると……。


コンコン──と。


部屋の扉が控えめにノックされた。

その音は小さいながらも、私の頭の中では巨人が山を叩くくらいの衝撃波となって響き渡る。寝不足の脳みそというのは、本当に繊細なものだ。


「?」


どうせまたセルシルだろう。彼は、お見合いの最中殆ど眠っていたようなので充分睡眠がとれたに違いない。

エルフ国最高の気絶術師は死んだフリをしながら給料をもらえる、なんて素晴らしい職業だろう。


「どうぞ、セルシル。入ってきていいわよ。貴方と違って私は寝不足だから、少しお姫様らしくない顔になってるけどね」


かちゃり、と扉が開き、廊下の光が部屋の中に差し込む。

その光の中に、誰かのシルエットが浮かび上がった。しかし、次に帰ってきたのはセルシルの声色ではなかった。


「残念ながら姫様、私はお爺様ではございません。ちなみに、お爺様は今自分のベッドの上で、巨大な蚊の悪夢にうなされておりますよ。『ピィ』という声が聞こえるだけで、寝汗を流して目を覚ますそうです。エルフの長い歴史の中でも、蚊に精神的外傷を負った初めての執事として、記録に残るかもしれませんね」


少年の声。

私はその声にハッとし、振り向くとそこには白銀の髪を煌めかせるエルフの少年執事……カルタが佇んでいた。


「あら、カルタ……」


見ると、彼は台車にティーセットを積んで優雅に歩いてくる。その足取りは宮廷舞踏会の主役のように軽やかで、しかし一つの動作一つの動作に無駄がない。

そして、テーブルの上にティーセットを配置し、優雅に紅茶を注ぐ。黄金色の液体が白磁のカップに注がれる様は、朝日が湖面に映るような美しさだ。


「ありがとうカルタ。執事としての腕前はセルシルをもう超えたわね。まあ、セルシルの『気絶芸』さえ習得すれば、彼の存在意義は完全に消滅するでしょうけど」

「それは恐悦至極。お爺様に姫様の言葉を伝えておきます。きっと、お爺様は涙を流して喜ぶことでしょう。『私を捨てないでくださいまし』とか言いそうですが、その前に気絶するでしょうから、実際に聞くことはないかと。お爺様の『気絶ポイント』は日に日に下がっていますからね。そろそろ『おはよう』と挨拶しただけで気絶する日も近そうです」


いつものカルタの毒舌を聞いて、私は彼の注いでくれた紅茶を、席に座って飲む。

その香りは華やかでありながらも落ち着きがあり、まるで森の朝露のような清々しさが感じられた。



彼が注いでくれた紅茶を飲んでいると、昨晩の恐ろしい記憶も薄れ、なんだか安心してくる……。

そう朝の光が部屋に差し込み、テーブルクロスの上に揺らめく木漏れ日が、森の中の小川のように流れていく。


──何故だろう、彼と一緒にこうしていると、何か懐かしいような、どこか昔、こうしていたような……そんな感じが心の奥底で広がっていく。

忘れていた思い出の欠片が、少しずつ形を取り戻していくような、不思議な親近感だった。


「ピィ」


私が、そんな感傷に耽っていると、噂の巨大な蚊であるヴァスカリス氏がテーブルの上に着地してきた。

──この蚊は、王子から私への『友好』の証として送られたものだ。つまり、彼(彼女?)は永遠にこのエルフの国で暮らすこととなる……。


「おっとヴァスカリス様。失礼いたしました、こちらをどうぞ。王国の賓客にふさわしいお飲み物をご用意いたしました」


ヴァスカリスの前に、華麗にティーカップを差し出し、血の色の液体を優雅に注ぐカルタ。その所作は宮廷画家が描きたくなるほど美しく、しかも彼の表情には一片の嫌悪感も見られない。

貴族に給仕するかのように、この巨大な蚊に対して完璧なもてなしをする姿は、正真正銘の一流執事そのものだった。


「ピィピィ……」


一方、ヴァスカリス氏は当たり前のように、ティーカップに注がれた赤い液体を口吻を伸ばし、チューチューと吸っている。

そこはかとなく、「うむ、苦しゅうない」と言っているような気もするが、私は蚊の言葉や気持ちなんて分からないので気のせいだろう。


「姫様」


私が、ポケーっとヴァスカリスの吸血光景を見つめていると、不意にカルタが話しかけてきた。

彼はにこにこと、いつも通り柔和な笑みを浮かべている。そよく見ると、彼の瞳の中には、言葉にできない何かが宿っているようだった。


「ヴァンパイアとのお見合いは、如何でしたか?」


その言葉に、私は溜息を吐いた。それはまるで「人生の全てのありえない出来事」を一気に詰め込んだような、重く深い溜息だった。


「そうね……最悪なんて言葉が陳腐に思えるくらい、最悪……というか、もはや『破滅』とか『大惨事』とか『歴史に刻まれるレベルの外交事故』とか、そういうカテゴリの……」


そう言おうとして、私は言葉を中断した。


私の脳裏に、お見合いの時間が蘇る。それは鮮やかな絵巻物のように、一場面ずつ鮮明に浮かび上がってくる。


──王子と手を握った時の、彼の掌の暖かさ。意外なほど温もりを感じる手のひらは、彼が生きている証だった。

──王子と踊った時の、一体感。音楽に身を任せ、二人で作り上げる調和の中に漂う感覚。

──そして、王子が最後に私を抱きしめた時の……あの感覚──心臓の鼓動が重なり合い、時間が止まったような、そんな瞬間。


「……っは!」


ふと、我に返る私。頬が熱くなり、心臓が少し早く打っている感覚がする。カップを握る指先にも、微かな震えが走る。

目の前には、ニコニコと変わらず微笑んでいるカルタ。その笑顔は穏やかでありながら、どこか計算されたような鋭さも感じさせる。まるで私の心の中を全て見通しているかのような、そんな微笑み。


「なるほどなるほど」


カルタはくすりと微笑んだ。その笑みは森の奥から覗く月明かりのように、優しげでありながらどこか意地悪な輝きを湛えている。

彼の銀髪が光を受けて、妖精の粉を纏ったように煌めいた。


「つまり、スピラーレ王子は『悪くなかった』ということでございますね。お見合いが『最悪』だったにも関わらず、姫様の頬が紅く染まり、瞳が遠い場所を見つめる様子は……何とも興味深い現象です。エルフ医学の教科書にも載っていない症状かもしれませんね。『王子病』とでも名付けましょうか?」

「……え?……はあっ!?」


私は紅茶を取り落としそうになり、慌ててカップを掴み直した。しかし、その動きはエルフの優雅さとは程遠い。


「な、何言ってるの!?私は単に──単に──いや、確かに手は温かかったけど、それは生物として当然で、別にドキドキしたわけじゃ──いえ、ドキドキはしたけど、それは恐怖からで、空の踊りは楽しかったけど、それは新鮮味があっただけで、抱きしめられた時は……ああもう、何を言わせるのよ!?」


言葉が口から溢れ出す。まるで堰を切ったような勢いで、支離滅裂な言い訳と批判が混じり合って、私自身がどこへ向かっているのかさえ分からなくなってきた。


「彼が、彼が私を抱きしめたのは単なる……ノリだと思うの!だから『悪くない』なんて絶対に……」


言葉が滝のように溢れ出し、自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。

私の頭の中は、昨夜の記憶と、今の感情と、言い訳と、本音が入り乱れ、百年に一度のエルフ祭りのように混沌としていた。

カルタの笑みはさらに深まり、まるで蜂蜜を舐めた猫のような満足気な表情になった。彼の瞳には「捕まえた」という勝利の光が、輝いていた。


「ピィ?」


テーブルの上のヴァスカリスまでもが、首を傾げて私を見ているような気がする。ちくしょうめ……!

カルタは手際よく新しい紅茶を注ぎ、湯気の立つカップを優雅に私に差し出した。紅茶の液面が一滴も揺れないという完璧さだった。


「姫様、お静まりください。エルフの姫様がヴァンパイアの名前を口にするたびに、こんなにも心臓が高鳴るとは。城中に響き渡りそうな鼓動ですね。お爺様のみならず、エルフ従者全員が気絶してしまうかもしれません」


黄金色の紅茶から立ち上る芳醇な香りが、私の鼻孔をくすぐり、混乱した思考を少しずつ整理していく。

それは森の朝露のような清々しさがあり、心を落ち着かせる魔法のようだった。ゆっくりと肺に香りを取り込み、私は自分の中の嵐が静まるのを感じた。


「と、取り乱しちゃったわね。ごめんなさい、カルタ」


深く息を吐き出した私の声は、ようやく王女らしい落ち着きを取り戻していた。火照った頬も、少しずつ本来の色に戻っていく。

その言葉に、カルタはにこりと微笑んだ。その笑顔は表面上は執事の礼節を保っているのに、瞳の奥には黒猫のような悪戯心が宿っていた。


「いえいえ、お気になさらず。姫様の取り乱しぶりを見られるのは、執事冥利に尽きる特権ですので」


そして、そのまま……更に笑みを深め、まるで毒を含んだ蜜を垂らすように言い放った。


「次のお見合い相手が竜人の王子様ということをお伝えした後に予想される狼狽ぷりよりも、今の取り乱しの方がまだマシだと思いますので。竜人の王子様は、ヴァンパイアと違いまして、姫様を『食べる』という選択肢も十分に検討されるでしょうから。その時の姫様の反応は、今回の比ではないでしょうね。おそらく城の屋根が吹き飛ぶほどの悲鳴があがるかと」


…………。


……。


…。


静寂が部屋を包み込んだ。まるで森が息を潜めたような、時間さえも止まったような静けさだった。

朝の光は変わらず部屋を照らし、テーブルクロスの上の木漏れ日は相変わらず揺れ動いているのに、音だけが消え去ったかのようだ。


そして、その静寂の中で、私は──









「はぁ~~~~~~っ!?!?」


叫び声は城全体を揺るがし、窓辺に止まっていた小鳥たちが一斉に飛び立った。おそらくは隣国まで響き渡ったであろう悲鳴。

そして、カップを持つ手が震え、テーブルの上の紅茶がこぼれる中、カルタはまるで何事もなかったかのように、にこやかな笑顔を浮かべ続けていた。


──かくして、エルフのお姫様(私)の平和な朝は、新たな災厄の予感と共に幕を閉じたのであった。


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