「うーん……今日もいい天気……」
ベッドから目覚める私。窓から差し込む朝日は、いつものように容赦なく私の顔を照らす。
しかし今日は特別だ。今日こそは、この太陽という名の無慈悲な目覚ましに負けないと決めている。
「あと五分……いや、五年……」
私は欠伸を漏らしながら、そう呟いた。だが、体は一向にベッドから出る気配を見せない。むしろ、より深く羽毛布団の海に沈み込んでいく。
今日は珍しく公務も無ければ、兄の狂気に付き合う予定も、カフォンの危険な魔法に巻き込まれる心配もない。
完璧に何もない一日。そんな貴重な日を、布団の外で過ごすなんて、ハイエルフの姫としての美学に反する行為だろう。
私は贅沢なシーツの中で、キャラメルのように体をくねらせ、猫のように丸まってみたり、ヒトデのように手足を広げてみたり。
この「何もしない」という贅沢を、存分に味わっていた。
そうして、ベッドでもぞもぞしていると……。
「そろそろさぁ、起きた方がいいと思うんだよね。なんつーか……そう、お姫様らしくなっていうかぁ。そこら辺の村娘なら俺も分かるよ?でも、そうじゃないじゃん。あぁいや、中身は村娘以下なのは分かってるけどさぁ……王族なら、せめて太陽が頭上に来る前に起床する程度の矜持は持ってほしいもんだね。このままじゃ、城の掃除婦たちの間で『姫様はモグラの血を引いているのでは』って噂が広まっちゃうよ?まぁ、そんな噂、とっくに広まってるかもしれないけど」
「……」
私の安眠を妨害する、謎の石……。
──お兄様から貰った呪いの石である。
彼(彼女?)は、ゆっくりと、確実に流暢に喋れるようになっている。いや、しまっている……。
最初は「お、起き、ろ……」程度のカタコトだったのに、今や小説の朗読会でも開けそうな流暢さだ。
おまけに語彙も豊富になり、皮肉の一つや二つは朝飯前。石ころのくせに、私の人格を攻撃する技術だけは日進月歩で向上している。
これが兄様からの「愛」なのだとしたら、私は愛など要らない。むしろ憎しみの方がよっぽど静かで平和だ。
(うるさいうるさい!なんでこんな石に説教食らわないといけないのよ!私は寝るんだ!絶対に二度寝するの!)
私は聞こえないふりをして、シーツの中でさらに深く丸まる。耳を塞ぎ、目を閉じ、このまま意識が眠り状態になることを祈る。
頼む、このまま私を寝かせておくれ、呪いの石よ、そしておそらくは兄の狂気が生み出した何かよ。
お前の説教なんて聞きたくないんだ。お姫様だって寝坊する権利があるんだ。たぶん。
だが、私の願いは虚しく散る。石は無視をしてもぺちゃくちゃと、私の安眠を妨害し続ける。その声は、脳に直接響いてくるようで、耳を塞いでも全く効果がない。
私は最終手段として、無理やり毛布を頭からすっぽりかぶり、外界との接触を完全に遮断する。
──これでどうだ!文句は言わせないぞ!
……しかし、その瞬間。
ブン、ブン、という、あの独特の、不快な羽音が聞こえてくる。次の瞬間、私の身体を覆っていた毛布が、グイッと引っ張られた。抵抗虚しく、毛布はズルズルと剥がされていく。
「……!」
見ると、私の毛布を器用に掴んで引っ張っているのは、吸血鬼の王子からの素敵な贈り物(厄介なペット)、ヴァスカリスだった。
あの巨大な蚊が、飼い主に反抗する犬のように、私の安眠ツールを強奪していったのだ。
「……」
ヴァスカリスは、私の毛布をくるくると丸めると、まるで不要なゴミでも捨てるかのように、私の手の届かない部屋の端の方へと、ぽいっと投げ捨ててしまう。
それを見た石は、勝ち誇ったかのように言う。
『ほら言わんこっちゃないだろ。蚊に起こされるとか姫として失格だ。そんなことしてると嫁に行けなくなるぞ誰も貰ってくれないぞ。いいのか?』
石のカタコト混じりの皮肉と、ヴァスカリスの羽音、そして遠くに追いやられた毛布。この状況で、私はベッドの上で凍り付くしかなかった。
「さあ、起きろ!そして現実と向き合え!」と、この世界の理不尽さが私に迫っている。
しかもその使い走りが、呪いの石と巨大蚊というあたり、なんとも私らしいというか、この世界らしいというか。
「あーもう!分かった!分かりましたよ!起きればいいんでしょうが!はいはい、起きました!満足ですか!?この説教石と巨大蚊様はっ!?」
もうやけくそになって、私はベッドから飛び起きる。
半ば逆ギレだ。このまま布団に籠城しても、この二匹(?)が容赦なく安眠を妨害し続けるのは目に見えている。
それを見て、石は満足げにカタコトで何かを呟いているし、ヴァスカリスもブンブンと羽音を立てながら、どこか勝ち誇ったように見える。
どうなってるんだ、私の人生は。石と蚊に生活リズムを管理されるお姫様とか、世界広しと言えど、いや、歴史広しと言えど、私しかいないだろう。
一体これは何かの呪いか、それとも新しい刑罰だろうか。
そんなことを考えながら、ベッドサイドに立ち尽くし、石とヴァスカリスを睨んでいると、不意に部屋の扉がコンコンと、控えめな音を立てて響く。
「姫様、お着換えの時間でございますよ」
声の主は、私の御付きのメイドさん、エスカテリーナ女史である。
いつもの如く、彼女は可愛らしく、しかし品格を失わずに、優雅な足取りで私に歩み寄ってくる……。
「おいおい、来るの遅いじゃないかエスカテリーナさんよぉ。もしかして、エルミア姫の寝起きがクソゴミだから、俺たちが起こしてくれるのを待ってたのか?あのさぁ、だらしない主を起こすのも侍従の役目ってこと忘れてないのかね?まったく、給料泥棒かお前は」
説教石が、完全に流暢になった口調でエスカテリーナに捲し立てる。しかも、私の寝起きを「クソゴミ」呼ばわりだ。酷すぎる。
「姫様、本日はとてもお天気でございますよ。お窓を開けましょうか?朝の新鮮な空気は、一日の活力を満たしてくれますわ。如何です?散歩でもなされては」
しかし、エスカテリーナは石の声など聞こえていないかのように、優雅な微笑みをたたえたまま、私に話しかける。
彼女の視線は私に固定されており、石が置いてあるベッドサイドには一切向けられていない。石など最初から存在しないかのような完璧な無視っぷりだ。
「聞いてんのか年齢不詳メイド!お前最近、俺のこと無視してるだろ?いいのか?今度はお前のベッドに潜り込んで一晩中ずっと説教してやるぞ?確かお前も独身だったよな?」
石はエスカテリーナの反応に、ますますヒートアップして捲し立てるが、エスカテリーナは涼しい顔だ。彼女は私の髪に触れ、優雅に梳かし始める。
どうやら、彼女はこの呪いの石の存在を、物理的にも精神的にも完全にないことにしているようだ。流石は私のお付きのメイドさん、この狂った王宮で長年培われたスルースキルは、私に勝るとも劣らない。いや、むしろ私以上かもしれない。私はまだ内心でツッコミを入れたりするけれど、彼女はそんな余計な思考すら挟んでいないように見える。
「ありがとう、エスカテリーナ。本当に、今日はいい天気ね」
私も彼女を見習って、この異常事態を完璧にスルーする能力(この世界で生き残るには必須のスキル)を発揮しようではないか。
私はエスカテリーナに促されるまま、ベッドサイドから降りて、着付けを始める。
途中、ヴァスカリスが私の化粧水を口吻を伸ばして吸い取ったり、私の髪を羽で梳かそうとしたり(善意なのか悪意なのか判断に迷う)していたが、それすらも完全にスルー。
なんということだ、私たち二人は化け物に囲まれても不動の精神を保てる能力が、無駄に開花してしまったようだ。この能力、もっと他に使い道があっただろうに。
「エスカテリーナさんよぉ、知ってるぜ。アンタ実は出会い系葉っぱマッチングを密かにしてるけど、一回会っただけで、大抵の場合そこから進まないって嘆いてたじゃねぇか。フッ、顔だけ良くても中身がねぇっつーか?多分当たり障りのない話しかしないから、会話がクソつまんねぇんだろうな。天気の話を持ち出す辺り、話が思いつかないつまんねー女って相手も分かっちまうんだろうなぁ」
石の、容赦のない皮肉が飛んでくる。しかも、まさかのエスカテリーナのプライベートまで暴露だ。
エスカテリーナの白い指が、私のドレスのボタンを留める手を、ピクリと震えさせた。しかし、彼女は一切視線を石に向けることなく、完全に無視を貫く。
私の着付けは完璧そのもので、寸分の乱れもない。だけど、鏡越しに見える彼女の顔は、完全に引き攣っており、今にも悲鳴を上げそうなのを必死に堪えているのが分かる。
その顔には「この石ころ、なんてこと言うの!?」という動揺と怒り、そして羞恥が入り混じっていた。
ていうか、出会い系葉っぱマッチングってなに?エスカテリーナちゃん、そんなことしてたん?
しかも石ころにプライベートを筒抜けにされて嘆いてるとか、情報量過多で私の脳味噌がショートしそうなんですけど。
そして、エスカテリーナは私の着付けをようやく終えた。寸分の乱れもなく、完璧な仕上がりだ。
彼女は満足げに、私ににこりと微笑んで見せると、優雅な足取りで部屋の扉へと向かう。
「では姫様。ごきげんよう。今日も一日、頑張りましょう」
流石エスカテリーナ、あの石ころにプライベートを暴露され、罵倒されながらも、メイドとしての責務を全うするその平静さは、もしかしたらエルフ界一かもしれない……。
きっと彼女の体内には、ストレスを即座に無効化する特殊な器官が備わっているに違いない。
そして、扉がパタリと静かに閉められ、彼女の姿が見えなくなった、その直後──
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーっ!!!』
扉を貫通して、脳に直接響くかのような、恐ろしい奇声が聞こえてきた。断末魔にも似た、悲痛な叫びだ。
それを聞いて、私は真顔になる。なるほど、平静を装っていただけで、内心は凄まじい嵐が吹き荒れていたようだ。まぁそうでしょうね。
そして、ベッドサイドの石が、呆れたように呟いた。
「まったく……エルミア姫の周りには、変なのが多いよな。朝っぱらから奇声あげるなんてさ。まぁ、エルミア姫自体が変なのの筆頭だから、類は友を呼ぶってやつなのかもなぁ。そりゃ変なのが集まってくるわけだ」
変なのの極致が、今ここでぺちゃくちゃ喋ってるお前だぞ。
(──あぁ、今日も変な世界が始まる……)
私は、心の中で盛大に溜息を吐いたのであった。