妖精さんがキラキラと光る粉を撒き散らしながら、王城のあちこちへと散らばっていくのを見届けた私は、無言でその場を後にした。
もう、この後何が起きるか考えるだけでも胃が痛い。だが、知らぬが仏という言葉もあるように、私は何も知らない、見てない、聞いてない。
──そうだ、何かが起こっても私のせいじゃない。多分。
私の記憶から、妖精たちとの遭遇は完全に消去されるべきだ。
「ふぅ……」
そうして、この現実から目を逸らすように、深々と溜息をついていると、不意に廊下の先から、小さな影がのんびりと歩いてくるのが見えた。
「!」
その人物を見た瞬間、私は思わず身体を硬直させた。全身の筋肉が意思とは関係なく固まっていく。
いつもなら、「おはよう」の一言が私の口から流れるように出るはずの、その人物。それは……。
「あ、エル姉さま。おはようございます」
可愛らしい、天使のような表情で私に挨拶をしてきたのは、我が愛しの弟、カフォンくんであった。
「あ、カ、カフォン……」
カフォンの姿を見た瞬間、私の脳裏にあのヴァンパイアとのお見合いの光景が、走馬灯のように次々とフラッシュバックしていく。
カフォンの底知れぬ、そして異様な雰囲気 。ヴァンパイアの女王を躊躇いもなく抹殺しようとした、あの小さな掌に浮かんでいた魔法の光 。
そして──私を見つめた時の、感情の欠片もない、あの冷たい瞳 ──。
様々な光景が、高速で、そして恐ろしいほど鮮明に脳裏を駆け巡る。
何を言えばいいのか分からない私だったが、そんな狼狽する私を見て、カフォンはにこりと、無邪気に笑うと、言った。
「ふふ、変な姉さまですね。悪夢でも見たんですか?お姉さま、顔色が悪いですよ」
カフォンはそう言いながら、私の手を優しく握る。私は自然と、その温かい手を受け入れていた。
それも当然だ。愛しい弟が、心配そうに手を握りたいというのを拒否する姉が、この世に存在するだろうか。
いや、普通はしない。たとえ、その弟が魔王みたいな空気をまとっていたとしてもだ。
「あ……そ、そうね?お姉ちゃん、ちょっと寝不足かも……あはは……」
あぁ、なんて空虚な台詞だろうか。
血を分けた弟と姉が、こんな中身のない、それでいて演技めいた言葉を交わさねばならないなんて、私たちが背負う宿命は、なんて皮肉に満ちているのだろう。
「ところで姉さま。次のお見合い相手のお話を聞きましたか?」
カフォンくんが、満面の笑みで、世間話でもするかのように、しかし私にとっては最恐の爆弾を投下する。
「え?あ……お見合いね……。聞いているわ。竜でしょ?」
恐ろしいカフォンくんの口から、これまた恐ろしいお見合いの話が出るだなんて、私の精神はもう限界だ。
どこかで私の心のキャパシティを測るメーターが、赤ランプを振り切ってバグり散らかしている音が聞こえる。
しかし、もしかしたら今回こそはカフォンくんの魔法使いとしての、あのラスボス級の力が、必要になるかもしれない。
──なにせ相手は竜だ……。
食われるか焼かれるかは分からないけど、私は自分が死ぬくらいなら、迷わずカフォンくんの力を解放(?)させて世界を滅亡させてやるぞ。
私の人生はどこへ向かっているのだろう。まさか、世界を救うどころか、世界を滅ぼす側に回る日が来るとは。これも運命か。
「そう、竜です」
そう言うと、カフォンは私の手を握ったまま、空いている指を一つ立てる。
その小さな指の先からは、夜を凝縮したかのような漆黒の炎が、ゆらりと揺らめき始めた。
「彼らはとても凶暴で、凶悪で……そして、遥か昔の大戦で、猛威を振るった種族の一つ……」
そして、彼は指を廊下の壁へと向けると、指先から強烈な魔法の炎を、高性能な火炎放射器のように噴射させた。
炎は廊下の大理石の壁をジュワジュワと音を立てて瞬く間に溶かし、そのまま外へと放射される。壁には、巨大な怪物が引っ掻いたような、不気味な黒い穴が空いていた。
「──」
え、なにしてるん?どうして廊下の壁を溶かしたの?
もしかしてドラゴンさんの真似とか?なんで真似を?真似したところで意味あるの?
この穴、誰が直すの?父が「破壊はアートだ」とか言って放置するのか?いや、むしろ褒めるのか?そしてこの修理費用はどこから出るの?税金かな。
そんなツッコミの奔流が私の脳内をぐるぐると回っていると、カフォンくんは満足げに、そして天使のような無垢な笑みを浮かべて、私を見上げて言った。
「このように、彼らは無慈悲に命を焼き殺していったのですよ。面白いですよね」
正直、何が面白いのか私には皆目見当もつかないのだが、しかしこの世界に慣れつつあるこのエルミア姫様は、カフォンの魔法と行動に動じることなく、にこりと微笑んで言った。
「そうね、面白いわね」
面白いのは、こう言うしかない私の状況だろうな。いや、全然面白くないけど。
次はなんだ?「エル姉も同じように焼き殺してあげましょうね」とか言われるのかな?
もう何言われても驚かねぇよ。私の「驚く」という感情の引き出しは、とっくの昔に壊れ果てているから。
カフォンくんは、私の空虚な相槌に満足したのか、にこりと笑みを深めると、そのまま竜の生態についての講義を始めた。
「彼らはとても傲慢で、自分以外の種族を塵芥のようにしか見ていないのですよ。特に、逆らう者に対しては、一切の慈悲を与えません」
そう言うと、カフォンくんは空いている方の手で、廊下の天井を指差した。その指先から漆黒の魔法が噴出し、廊下の装飾が施された天井の一部が、腐ったチーズのようにドロドロと溶け落ちていく。
ボタボタと滴り落ちる液体が床に小さな焦げ跡を作り、焦げ臭い匂いが鼻をつく。
「ソウナンダ。スゴイネ」
私がドン引きして、カタコトしか話せなくなるが、カフォンくんは涼しい顔で講義を続ける。
「そして、彼らの価値観は我々とは大きく異なります。彼らにとって価値のあるものは、力や富、そして……支配することだけ。命など、彼らにとっては取るに足らないものなのです」
次の瞬間、カフォンくんの足元に、地獄の業火のような黒い炎がメラメラと燃え上がった。
炎は周囲の豪華な絨毯を瞬時に焦がし、その熱は私の頬をヒリヒリと焼く。しかし、炎は絨毯を完全に焼き尽くすことはせず、不気味な焦げ跡だけを残して消え去った。
(わぁ、すごい。絨毯がもったいない。これ、城中の絨毯、全部焦げちゃうんじゃない?ていうか、命が取るに足らないって、この炎で私を焼いてもなんとも思わないってこと?もしかして、私の命もこの焦げ跡と同じ扱いなわけ?やだなぁ、そんなの。私の命、もうちょっと価値のあるものにしてほしいなぁ。ていうか一番価値観が違うのはカフォンくんのような気がするなぁ)
私は内心で恐怖に慄きながらも、表面上はにこやかな笑顔を保つ。
そして、カフォンくんの講義は、クライマックスへと向かう。
「彼らが最も楽しむのは、絶望に打ちひしがれた獲物の断末魔。その声を聞くことに、彼らは至上の喜びを感じるのですよ」
そう言うと、カフォンは私の手を握る力を少し強めた。彼の紅い瞳が、私の目をまっすぐに捉える。その瞳の奥には、一瞬だけ、ゾッとするような冷酷な光が宿った。
そして、カフォンは私の手を握りながら、しかし私を見ずに、今しがた溶かした廊下の壁から見える外の風景をぼんやりと眺めて、ポツリと呟いた。
「でも安心してください、姉さま。竜の数はかなり少ないので。普通に暮らしていれば、寿命で死ぬまで一回見ることが出来ればいい方です」
「え?そうなの?」
ファンタジーな世界だから、てっきり空を覆い尽くすほどのドラゴンがいるかと思っていたけれど、まさかそんな絶滅危惧種みたいな扱いだなんて。
もしかして天然記念物的な扱いなのかな?だとしたら、なんだかお見合いどころか、そっとしておいて、保護しなくちゃいけないような気も……?
そんなことを考えていると、カフォンくんは、どこか遠い目をしてポツリと呟いた。
「──昔、邪悪な魔法使いたちがこぞって竜を殺戮したのでね。流行ったんですよ、『竜狩り』。懐かしいですねぇ」
その言葉に、私の全身から冷や汗がドバッ、と噴水のように溢れ出てきた。
──邪悪な魔法使いがこぞって竜を殺戮した?
その『邪悪な魔法使い』にカフォンくんは入ってないよな?いや、彼は私よりも年下なんだ。大昔の戦争の時に生まれているわけがない。
私が生まれる前のことだ。彼が生まれる前なのは確定事項だ。彼は見た目も、中身も、幼い。
きっと、彼は「アリさんの巣に水をかけて巣を全滅させた」そんな子供らしい記憶と、大昔の竜狩りの話を混同しちゃってるんだろうな。
うん、きっとそうだ。そうでなければ困る。
「そっかぁ。それは大変ねぇ」
私はそう言うのが精一杯だった。
「えぇ、大変でしたよ。あのトカゲ共は、しぶといのなんの。魔法領域を展開してるのに、そのまま突っ込んで力ずくで魔法使いを噛み殺そうとしてくるのでね。並の魔法使いなら、そのまま噛み砕かれて絶命するでしょうけど」
ペラペラと、昨日の出来事を語るかのように喋り続けるカフォンくん。
おかしいねぇ、自分が体験したかのような台詞だねぇ。どうして彼の口から、そんなに「僕が体験した」感満載の言葉が出てくるのだろうか。彼は子供なのに。
でも、それを突っ込むことは絶対にしない。突っ込んだ瞬間、彼の「魔王」のスイッチが入って、この王城どころか世界が崩壊する可能性が割とマジで存在しそうだから。
「カフォンは物知りなのねぇ。すごいわ」
だから私は、こうして姉の仮面を被って、空虚な笑みを浮かべ、カフォンにこういうしかないのだ。これが、この狂った世界で私が生き延びる唯一の術だから。
「姉さま、安心してください。姉さまがこの世界が嫌いになった瞬間──僕は全てを破壊してあげますからね」
ニコリと微笑むカフォンくんの笑顔は、天使……のはずだが、完全に悪魔か魔王のようなことを行ってしまっているこの矛盾。
その可愛らしい唇から紡がれる言葉は、世界を滅ぼすに足る呪文のようだった。
「ただ一言……『壊せ』って言ってくれたら。それだけで、僕が望みを叶えてあげますので」
彼は子供らしく、無邪気な顔でそう言った。
その笑顔を見て、私は絶対に『壊せ』という単語は言わないことを誓う。いや、誓わざるを得ない。
──だって、この子、マジでやりそうだから。
カフォンは私の手から、蝶々が花から離れるようにそっと手を離すと、くるくると舞うように、子供らしくはしゃぐようにして、廊下の先へ先に言ってしまう。
「そう、僕は姉さまの願いを叶えるために存在するのです。だから、遠慮しないでくださいね」
そして、廊下の曲がり角を曲がって、カフォンくんの小さな姿は完全に視界から消え去った。
「……」
──ドン引きした。本気でドン引きした。
何が「壊せ」なんだろう。何が「遠慮しないで」なんだろう。
お前は魔王か?いや、魔王だったなそういえば。
なぜ私は今、魔王に世界の破壊を提案されて、しかもそれを断るために顔面蒼白になっているんだろうか?
なぜ私の人生はこんなにもハードモードなんだ?
「だ……誰か私にチート能力をください……」
廊下の穴から見える空には、数匹の妖精さんが、何やらキラキラと光る粉を撒き散らしながら、忙しそうに行ったり来たりしているのが見えた。
きっとあれは、妖精防衛隊の最終作戦会議か、あるいは既に始まっている「ドラゴン対策」の狼煙だろう。
私の呟きは、廊下に空いた巨大な、そして誰が直すのか皆目見当もつかない穴へと吸い込まれるようにして、虚しく消えていった。