「ああ……なんて素晴らしい日」
私は王城の中庭、いつもの特等席で優雅にティーカップを傾けていた。
淹れたてのハーブティーからは、森の朝露と、ほんの少しの諦めが混じったような香りが立ち上る。
「今日は本当に、いい天気ね、セルシル」
「はっ。左様でございますな、姫様。雲一つない、まさにエルフ日和でございます」
私の隣では、背筋をペンギンのように伸ばしたセルシルが、完璧な所作で注ぎ足してくれる。
彼の声はいつも通り落ち着いているが、その瞳の奥には前回のヴァンパイアとのお見合いで経験した恐怖が微かに揺らめいているのが見て取れた。
そう、今日は本当に、本当にいい日だ。
──何故って?
まず、あの忌々しい説教石が消えた。ヴァスカリスに転がされてどこかへ行ってしまったのかもしれない。素晴らしい。
そして、ヴァスカリスの羽音も聞こえない。きっと誰かの血を吸いまくって、満腹でどこかで寝ているのだろう。実に結構。
さらに、カフォンの世界を滅ぼしかねない邪悪な波動も感じない。日は壁を溶かす気分ではないらしい。ありがたいことだ。
極めつけに、お兄様のあの視界に入るだけで精神汚染を引き起こすキモい姿も見えない。 最高だ。
これだけ「ない」ものが揃えば、それはもう「いい日」と呼ぶしかないだろう。私のエルフ生における「最も平和な日トップ3」にランクインするかもしれない。
「本当にいい日過ぎて、逆に物足りないくらいだわ」
「物足りない、でございますか」
「こんなに平和だと、セルシル、貴方の十八番である『恐怖のあまり白目を剥いて卒倒する芸』が見られないじゃない。それはそれで、観客としては少しばかり残念なのよ。貴方、もしかして、最近スランプ?」
私の意地悪な囁きに、セルシルの肩がビクリと跳ねた。
彼の顔からサッと血の気が引き、ティーポットを持つ手がカタカタと震え始める。
「ひ、姫様……!わ、私めは、決してそのような芸など……!いついかなる時も、姫様をお守りする盾となる所存で……!」
あぁ、始まった。いつもの狼狽っぷり。
これが見られるなら、彼の気絶芸が見られなくても我慢できるかもしれない。
「冗談よ、セルシル。そんなに震えないで。お茶がこぼれてしまうから」
私はくすりと笑いながら、彼を宥める。 平和な日には、このくらいの意地悪は許されるはずだ。……たぶん。
そうして私が中庭で、太陽の光を浴びつつ、セルシルと談話していると……。
「あぁ、忙しい忙しい!」
「ちょっとー!そこは場所が違うでしょ!」
大量の妖精さんが、蜂の巣をつついた時のように、城の上空をせわしなく飛行しているのが見えた。
……なんだ?なにか騒がしいが。
「セルシル、今日は妖精さんが沢山ね。もしかして、王城の備品を効率よく破壊する選手権でも開催されてる?」
「妖精のお祭りですか?それはなんとも……城の修繕費が国家予算を圧迫する未来しか見えませんなぁ」
私は、妖精さんのお祭りのイメージを頭の中で想像して、思わず笑ってしまう。
きっと、花の蜜を飲みすぎて千鳥足になった妖精たちが、王様の肖像画に落書きをし、それを咎めた騎士団長を魔法でカエルに変えてしまう……そんな光景だろう。
うん、平和だ。
だが……。
妖精たちが「姫さまのために!」「ドラゴンは怖くない!」「秘策があるの!」と囁き合っている断片的な会話が、私の無駄に長いエルフ耳に届いてしまう。
いつもより活発な妖精たちの羽音やひそひそ話に、嫌な予感が頭をよぎる。これから始まる大惨事の予告編を、強制的に聞かされているかのように……。
「……そろそろお部屋に戻るわ。いや、別に妖精さんが怖いわけじゃないわよ?ただ、外にいると私の寿命が縮むような気がして」
「そ、そうですな。それがようございますぞ。私も、急に持病の腰痛が悪化したような気がいたしますので」
私とセルシルは、背後からドラゴンに追われているかのように、そそくさと中庭を後にする。
こういう危険からの戦略的撤退の時だけは、私たちの息は驚くほどぴったりである。 敵前逃亡という一点において、これほどまでに完璧な主従関係が他にあるだろうか。いや、ないね。
そうして、私とセルシルは息を切らしながらも、なんとか自室の部屋の前にたどり着いた。
「今日はお部屋でゆっくりしようかな。世界が滅んでも、私は毛布の中で静かにその時を待つわ」
私の言葉に、セルシルが苦笑いしながら言う。
「姫様、本日の予定がないとはいえ、お昼寝をしすぎたら夜に寝れなくなりますぞ。それに、世界が滅ぶ前に姫様がやるべきことは山積みかと……」
セルシルはいつもこうだ。別に私はお昼寝をしようだなんて言っていないのに、お爺さんが孫に小言を言ってくるように、そんなことを言ってくる。
そして、当たり前のように私の破滅的な発言をスルーする。
「もう、私は子供じゃありませんから」
だが、今はそんなセルシルの言葉が何故かありがたかった。
これこそ、まさに普通のやり取り。この狂った世界で唯一の精神安定剤のような、会話をしているという事実だけで、私は嬉しさがこみあげてくるのだ。
そんな、どこかズレているけれど平和な会話をしながら、セルシルが部屋の扉を開けた。
──その時であった。
「ギエェェェーーーー!!!!」
先導し、部屋を先に見てしまったセルシルが、断末魔のような奇声をあげた。
「セ、セルシル!?どうしたの!?」
私が、いつもの調子で倒れたセルシルに呼びかける。
だが、次の瞬間、開かれた扉から、神が降臨したかのような、最終兵器が起動したかのような、とてつもなく眩い光が私の視界に暴力的に飛び込んできた。
「ぐっ……!?な、なにこの眩しさは!?」
どうやらセルシルは、この「視神経を焼き切るレベル」の光をまともに浴びてしまったらしい。
あぁ、彼の視力はもう戻らないかもしれない。
「い、一体なにが……!?」
私は意を決し、光の洪水が溢れ出す自室へと足を踏み入れた。目を細め、手で顔を覆いながら進むその姿は、聖域に足を踏み入れる罪人のようだ。
いや、クラブのVIPルームに入ろうとして、強烈なフラッシュに戸惑う田舎者か?まぁどっちでもいいか。
そして、目が慣れてきた先に広がっていたのは──カオス。
それも「キラキラ」という属性に特化した、究極のカオスだった。
「な、なんじゃこりゃあ!?」
姫様としてあるまじき叫びを発してしまったが、仕方ない。それくらい異常事態だから。
部屋中の壁という壁、天井という天井、家具という家具に、無数の宝石や鏡が、病的なコレクターの展示室のようにびっしりと飾り付けられている。
父の隠し財産であるはずのダイヤモンド、兄が毎朝自分の顔をうっとりと眺めているであろう巨大な姿見、どこからか持ち出されたシャンデリアの破片、そして……なぜか厨房にあったはずの銀食器まで。
それらが、朝日と、おそらくは妖精の魔法の光を受けて、乱反射、乱反射、また乱反射。部屋全体が、巨大な万華鏡の中に迷い込んだかのような、ディスコボールの内部に閉じ込められたかのような、凄まじい光景を呈していた。
「め……目が、目がぁぁ!!!」
そんな「キラキラ地獄」の中心で、当の犯人たち──そう、妖精さんである。
彼女たちは、キャッキャと楽しそうに宝石を磨いたり、鏡の角度を調整したりしている。
「よ、妖精さん……これは……一体、何の儀式!?」
私の震える声に、妖精の一人が振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「姫さま!見てください!すごいでしょ!」
「絵本で読んだ!竜はキラキラしたものが大好き……じゃなくて、眩しいものが苦手って!」
「そうそう、目をくらませればイチコロらしいよ!」
──どこの絵本で読んだんだ?タイトルは『ドラゴンを失明させる100の方法』か?それとも『光で倒せ!邪悪なトカゲ撃退マニュアル』か?
それに、イチコロになってしまったのは、部屋に入る前に光の洗礼を浴びたセルシルだが……。この光景を見たら、竜どころか、神様だって目を回すに違いない。
私は、もはやツッコミを入れる気力もなく、ただ呆然と、光り輝く自室と、誇らしげな妖精たちを見つめるしかなかった。
私の部屋は、もはや私の部屋ではなく、光害レベル5の危険地帯へと変貌を遂げていたのだ。
まともに部屋にいられない。 これでは、光アレルギーのヴァンパイアどころか、健康優良児の私ですら網膜が悲鳴を上げるレベルだ。
「サ、サングラス……!」
ファンタジー世界に似つかわしくない存在であるサングラスであるが、何故かこの世界にはサングラスが存在するらしい。
前にお兄様が「これで俺の輝きから目を守れ」と自慢気に持ってきて、私にくれたのがあったはずだ。
私は「お兄様のナルシシズムからは目を守りたいけど、サングラスは要らない」と心の中で悪態を吐きながら、一回もつけることなくお兄様から貰ったもの入れ(ゴミ箱ともいう)に収納したはず。
まさか、あの忌々しい兄からの贈り物が、こんな形で役に立つ日が来るとは……!
私はこの世界に転生してから、初めてお兄様に感謝した。いや、感謝するのは癪だから、せいぜい「見直してやった」くらいにしておこう。
「た、たしかここにサングラスが……」
眩しさに頭痛を覚えながらも、物入れを漁る。
「!?」
しかし、ようやく見つけたそのサングラスは、フレームというフレームに、これでもかというほど宝石がデコレーションされていた。
──妖精さん、どんだけ徹底的にやってんだよ!?これじゃサングラスの意味ねぇ!!サングラス自体が新たな光源となって、私の視力をさらに奪いに来ている!
「ぎ、ぎぇぇ……!!目がぁ……!!」
視界が七色の光で飽和し、もはや何が何だか分からない。私は床をのたうち回り、悲鳴を上げた。
あぁ、これが「目が潰れる」という感覚なのか。ハイエルフの優れた視力も、この光の暴力の前では無力……というか弱点か。
そんな、光の中で悶絶する私のもとへ、妖精さんたちが満面の笑みを浮かべて集まってくる。その姿は、獲物にとどめを刺しに来た小悪魔だ。
どうやら彼女たちの網膜は、我々エルフのそれとは構造が根本的に違うらしい。
もしかしたら、あの可愛らしい目は飾りで、コウモリみたいに超音波で周囲を認識しているのか……?だとしたら、このキラキラ地獄は、彼女たちにとっては「最高にクールな音響空間」くらいにしか感じていないのかもしれない。
「ねぇねぇ!これならドラゴンも帰るんじゃない!?」
「そ、そうねぇ……!!ドラゴンより先に私の視力がこの世からバイバイしそうだけどねぇ……!!」
私の悲痛な叫びは、妖精たちの「作戦成功!」という喜びの声にかき消される。
私は何とか壁伝いに立ち上がり、手探りで部屋からの脱出を試みる。しかし、壁に飾られた鏡がさらなる光を反射し、私の逃げ道を塞ぐ。
(ああ、もうダメだ……。私はこの光の牢獄で一生を終えるんだ。せめて、最後の晩餐はエルフパイが食べたかった……)
「姫さま、どうしたの?もしかして、感動して泣いてるの?」
「私たちのドラゴン対策、完璧でしょ!」
妖精たちの、あまりにもズレた、しかし悪意のない言葉が、私の鼓膜を……いや、もはや直接脳を揺さぶる。
涙は出ているが、それは感動からではなく、純粋な物理的ダメージと絶望からだ。
私が光の中で白目を剥きかけ、もはやハイエルフとしての尊厳すら失いかけていると、追い打ちをかけるように、妖精さんたちが更なる爆弾発言を投下してきた。
「ねぇねぇ!ドラゴン対策に、お城の中を全部改造したよ!」
「姫様、見て回って感想を聞かせて!」
キラキラとした瞳(たぶん)で、彼女たちは私にそう告げる。
その声は、子供が自分の作った泥団子を自慢するかのように無邪気だ。
だが言葉は、私の限界寸前だった脳味噌に、最後の一撃を与えた。
──お城の中を、全部……改造……?
視界から流れ込む暴力的な光の奔流と、これから起こるであろう更なるカオスへの絶望的な想像。
それらが混じり合い、私の精神的な許容量は、ついに限界点を突破した。
ぷつん、と。何かが切れる音が、頭の中で確かに聞こえた。
「だ、誰か助け……」
私の意識は、七色の光の向こう側へと、静かにフェードアウトしていった。