敵──すなわちヴァスカリスは果物屋の店先で、芸術的ともいえる手際でリンゴを次々と吸引していく……。
その音は、聞いているだけでこちらの水分まで奪われそうだ。
「く……流石は蚊ね……吸い取る力は凄まじいわ……」
私のよく分からないツッコミを他所に、ヴァスカリスはリンゴに飽きたのか、次なるターゲットへとその巨大な複眼を向けた。
──妖精印の、特製オレンジソーダ噴水である。
「ピィ!」
喜びの鳴き声と共に、ヴァスカリスは噴水へとダイブ。巨大な口吻を、甘ったるいオレンジの泉に突き刺し、「ブチュルルルル……」と、それはもう見事な音を立てて飲み始めた。
その姿は「町の破壊者」というより、ビュッフェで元を取ろうと必死になっている、ただの食いしん坊だ。
(やりたい放題だなお前!)
私は、その光景をただただ眺める。
私のペットが、町の備品を破壊し、商品を台無しにし、そして今大量の糖分を摂取して、おそらくはこの後、シュガーハイでさらに暴れまわるのだろう。
この責任は、一体誰が取るんだろう。
えぇ、私だろうね。知ってる。
「ピィ~」
オレンジソーダを飲み干し、満腹になったのであろうヴァスカリスは、おもむろに地面にゴロンと寝転がった。
そして、くねくねと巨大な芋虫のように、石畳の上を転がり始めたのだ。
その姿は、なんというか……可愛らしい、と言えなくもない。
「……なにしてるの?」
私がそう首を傾げていると、ふと前世の記憶が蘇る。
そうだ、犬だ。ご機嫌な時の犬が、よくこうして床に身体を擦り付けて喜びを表現していた。
つまりこの巨大な蚊は今、最高に「ご機見」で「ハッピー」な状態だということか……?
その事実に思い至った瞬間、一瞬だけ……本当にほんの一瞬だけ、この悍ましい巨大な蚊が、つぶらな瞳のチワワのように見えてしまった。
(──やべぇ!!)
私は自分の腕を力いっぱい、つねった。
じわりと広がる痛みが、私を正気に戻してくれる。
危ない、危ない。今の私はどうかしていた。
(私の脳味噌も、この世界の狂気に侵されつつある……!)
巨大な蚊を「可愛い」だなんて末期症状だ。
このままでは、兄のことも「妹思いの素敵なお兄様♡」とか思い始める日が来てしまうかもしれない。それだけは、絶対に、阻止しなくては。
「さぁ、貴方たち!これが最後のミッションよ!あの、果汁と糖分で満たされた巨大な厄災を捕縛して、すぐさま鉄の檻……じゃなくて鉄の馬車にぶち込むのよ!」
私の将軍にでもなったかのような勇ましい号令に、騎士たちは顔を見合わせた。
そして騎士たちが、おずおずと口を開く……。
「しかし姫様。妖精やセーロス王と比べると、アレはそんなに悪さをしていないような……」
「だよなぁ。そこらへんにあった果物を吸い取って、噴水のオレンジジュースを飲んだだけだし……」
「本能に従って食事をしていただけというか、むしろ、紐を付けてない飼い主が悪いというか……」
騎士たちのそこはかとなく正論であり、そして遠回しに私を批判するような言葉を聞いた私は必死になって、半ば逆ギレ気味に彼らを説得する。
「な、何を言っているの!?あれのどこが悪くないっていうのよ!?」
私は、ご機嫌で地面に寝転がっているヴァスカリスをビシッと指差す。
「いいこと!?妖精のいたずらは、まぁ、可愛げがあるから許しましょう!父の狼藉は、王族の気まぐれという美しい言葉でごまかせるわ!でも、あれはダメ!断じてダメなの!」
「はぁ……」
「それに、なによりも!あの見た目!あの巨大な複眼!あの針のようなおぞましい口!どう考えても、見た目がキモいでしょうが!よって、有罪!さあ、連行なさい!」
私の理不尽で、あまりにも個人的な感情に基づいた判決に屈強な騎士たちは、私から一歩後ずさった。
しかしすぐに、彼らは覚悟を決めたようだ。どうせハイエルフである私の「超越種権限」で、如何様にも命令できてしまうのだから、早々に諦めただけかもしれないが。
「仕方ない……行くぞ!」
「あぁ、気合を入れろ!相手は、あのロイヤルモスキートだ……!」
「油断するな!一瞬の隙が命取りになるぞ!」
次々と勇ましいことを言いながら、なぜか本気で気合を入れる騎士たち。
これから死地にでも赴くかのような、その悲壮感漂う様子に、私は思わず、またしても皮肉気なツッコミを心の中で入れてしまう。
(いや相手、蚊だよな?どうして王様をタックルするときより、気合を入れなくちゃならないの?私の父、蚊以下なん?)
そうして屈強な騎士たちは、伝説の魔獣にでも挑むかのように、じりじりと慎重な足取りで、地面でご機嫌に転がっているヴァスカリスへと向かって行くのだった。
その後ろ姿を見ながら私は魂の抜け殻のような溜息を吐きながら俯いた。
(これから、この町の住民たちへの補填と、言い訳を考えなくちゃ……。噴水の修理代、パン屋への賠償金、赤髪にされた彼への精神的慰謝料……。頭が、頭が痛くなる……)
そうして私が現実的な問題について、一人思考を巡らせていると……。
「姫様……」
弱々しい、呻くような声が聞こえてきた。
「あら、もう捕まえたの?意外と早かっ……て、え!?」
私が声に反応して顔をあげると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
──黒鎧の屈強な騎士たちが、折り重なるようにして倒れ、無様な「エルフの山」を築き上げている。
そして、その山の頂上に、戦利品の上に君臨する王者のようにヴァスカリスが、悠然と鎮座していたのだ。
「──」
私の頭の中は、真っ白になった。
複雑すぎる計算を命じられて、全ての機能を停止してしまった機械のように。
(……???)
そして数秒の静寂の後、私の脳はようやく再起動を果たす。
──え?なに?嘘でしょ?
見た目だけは無駄に強そうな、我が国が誇る精鋭騎士団が……。
蚊に……負けた……?
私は目の前の光景を何度も、何度も見返す。
しかし現実は変わらない。屈強な騎士たちが無様に積み重なり、その頂点には一匹の巨大な蚊が、君臨している。
「ピィピィ」
軍事力の頂点が、私のペットの蚊か。
素晴らしい……なんと素晴らしい国なんだ、エルフの国は。
竜の国に攻め込まれたら、一体どうなってしまうのか。いや、もはや考えるだけ無駄だろう。
私の心の中で何かが、ポキリと軽快な音を立てて折れた気がした。
そうして私が、我が国の軍事力のあまりの脆弱さに心底あきれ果てていると、不意に背後から声をかけられた。
「ロイヤルモスキートはな……『始祖』の眷属としての最上位種……つまり、超越種の一種なんだ」
「……え?」
私が驚いて振り向くと、そこには兄が、腕を組んで佇んでいた。彼は無様に積み重なる騎士たちを見て、呆れたような、愉快でたまらないといった笑いを堪えきれずにいるようだ。
つーか……超越種?嘘でしょ、あの蚊が?
「ちょうどエルフでいう、妖精のような存在なのさ。まぁ、あの蚊の方が遥かに有能で、役に立つがな」
兄の、あまりにも衝撃的な言葉に私の思考は再び停止する。
(よ、よよよ妖精ポジ!?あの巨大な蚊が、妖精さんと同じポジション!?)
私はエルフという種族に生まれてきたことを、心の底から神……いや、世界樹に感謝した。
もし、もしも!私がヴァンパイアに生まれていたら、あの、どう見ても悪夢の産物としか思えない巨大な蚊が、可愛らしい妖精さんのように、そこら中を飛び交っている世界で生活しなくてはならなかったのだろうから。
想像しただけで、鳥肌が立つ。
「だから、此奴らには荷が重いというわけだ……はっ!!」
兄が気合を入れるかのように短く叫んだ、その瞬間。彼の姿が、私の視界から掻き消えた。
「!?」
あまりの速さに、私は呆然と兄が立っていた場所を見つめることしかできない。
そして、次の瞬間には、兄は再び私の目の前に、何事もなかったかのように佇んでいた。その腕の中にはヴァスカリスが、大人しい猫のようにすっぽりと収まっている。
捕縛されたというのにヴァスカリスは特に暴れるわけでもなく、むしろ兄の腕の中でどこか満足げにしているようにさえ見えた。
「ほら、お前のペットだろう。ちゃんと見張っておけ」
そう言って兄はボールでも投げるかのように、軽々とヴァスカリスを私に向かって放り投げた。
思わず反射でキャッチしようと手を伸ばしかけたが、巨大なそしてどう考えても虫である物体を、素手で触るのは生理的に無理だと瞬時に判断し、さっと手を引っ込めた。
なお、投げられたヴァスカリスは、空中で器用に羽を広げ、体勢を整えて、ふわりと地面に着地したので大丈夫そうだ。
よかったね。
「お、お兄様……その……」
なんだかいつもと違い、独特のキモい雰囲気を醸し出さない兄に、私は強烈な違和感を覚えていた。 いつもなら、この混沌の元凶は九割九分、兄のはずなのに……。
私が兄の豹変ぶりに困惑していると、彼はどこか遠い目をして、静かに言った。
「楽しかったか?エルミア」
「えっ……」
楽しかった?この地獄絵図が?
兄の言葉の意図を理解できずに、私は一瞬、言葉に詰まる。
しかし今日一日を振り返ってみて……父の奇行も、兄の暴走(未遂)も、妖精のテロも、色々、本当にもう色々あったけれど……。
「……えーっと。まぁ、その……楽しかった……ような?」
こうして城の外で、自分の意思で動き回り問題を解決するのは、不思議と充実感があった。
そんな私の、か細い呟きに──
「そうか」
兄は、そう短く呟いた。そして私に背を向けると、何事もなかったかのように馬車へと歩いて行ってしまう。
「……?」
私はそんな兄の、もらしくない静かな背中に、言いようのない違和感を覚えながらも、ただその姿を見つめることしかできなかった。
「えーっと……どうしたんだろう?頭でも打ったのかな?」
「ピィ?」
私の独り言に、隣にいたヴァスカリスが、まるで「さぁ?」とでも言うように、不思議そうな鳴き声を発する。
兄のよく分からない行動を見守りながらも、仕方なくその後ろに付いていくことにした。
そして、その私たちの背後には……。
無様に積み重なり、ぴくりとも動かない我が国が誇る精鋭騎士団の山。
その光景を、ただただ唖然と見つめることしかできない、町の民たち。
このシュール光景だけが、静かに残されていたのであった。