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第90話

ドラゼア王国──。


その名の通り、この国の住人は竜人という古の種族を主としている。

竜人……それは普段は人の姿を借り、有事の際には雄々しきドラゴンの真の姿となって天を覆い、地を焼き尽くすまさしく「上位存在」とも呼べる至高の種族。


かつての大戦では圧倒的な力で、数多の国や種族を歴史の教科書から綺麗さっぱり消し去ったという、輝かしい実績をお持ちの種族である。

しかし、その強さは敵味方問わず、全ての者たちから「ちょっと、やりすぎじゃない?」とドン引きされる結果となった。

彼らの唯一の弱点は……そう、「強すぎた」こと。


指を一本動かせば、何千もの命が消し飛び。少し吐息を吹きかければ、何万もの命が燃え尽きる──。


その結果、当時世界を牛耳っていた魔法使いたちから「あのトカゲども、ちょっと調子に乗りすぎだ」と目をつけられ、実に手厚い集中砲火を浴びることとなる。

かくして、誇り高き種族である竜人は、その数を大きく減らしてしまった。

彼らは、その身をもって「出過ぎた杭は打たれる」という、この世界の普遍的な真理を学んだのだ。


──そんな国の王宮で物語は幕を開ける……。


「あぁ、胃が……。私の胃は、もはや胃としての機能を放棄し、ただのストレス感知器官と化しているのではないだろうか?」


黒曜石を磨き上げて作られた、広大で無骨な宮殿。その長い、長ーい廊下を一人の青年が、頭を抱えながら歩いていた。

繊細な銀縁の眼鏡をかけ、その佇まいは学者か神経質な文官を思わせる理知的な雰囲気を醸し出している。

しかし、額から天に向かって伸びる見事な二本の黒い角。そして、背に畳まれた、皮膜のある雄々しい翼が、彼がただの学者ではないことを雄弁に物語っていた。


「まったく……。一つの事象が解決したかと思えば、また新たな事象が、世界の必然であるかのように発生する。すなわち、私の胃痛に終わりはない、ということか」


青年──名を、イグニス・ドラコニールと言った。

彼こそは、このドラゼア王国の第一王子。類稀なる頭脳明晰さと、神が作り上げた彫刻と見紛うほどの見目麗しさを持ち合わせている聡明という言葉が人の形をとったような、存在である……。


──のだが。


「くっ……先日、父上が『実践的訓練』と称して、城下の一区画を更地にしたせいで発生した、想定外の補修費用……それに、我が姉と妹と弟……すなわち、思考という行為を筋肉に委託している、私以外の全員が日々の『鍛錬』で破壊した公共物の修繕費……。そのせいで、私が苦心して組み上げた国家予算案が、紙くずとなった……」


彼の家族は、父……つまり、王を筆頭に、妹も姉も弟も、全員が理性の「り」の字も知らないような、存在。

そんな、あまりにも理性が欠如した環境故に、彼は胃を痛めていた。というか、彼の胃は物心ついた時から常に痛いのが平常運転なのである。


「あぁ……なんと!なんということだ!彼らの頭蓋の中には、法治という概念が存在しないのか!?どうして!どうして、思考回路がそこまで見事に筋肉に侵食されているのだ!?いや、そもそも、あれは脳味噌ではなく、ただの巨大な脊髄反射器官なのでは!?」


王子イグニスは天を仰ぎ、祈るように大袈裟に美しい頭を抱えた。

それを見た竜人の侍女たちが、廊下の隅で、手で口元を隠しながらヒソヒソと囁き合う。


「あら、見て。イグニス王子ったら……また、あんな小難しいお芝居みたいに、くねくねと悩んでいらっしゃるわ」

「ほんと。そろそろ、ご家族の皆様のように、有り余る御力で宮殿の一つや二つ、派手に吹き飛ばしてくだされば気も晴れるでしょうに」


侍女たちの、そんな悪意も同情もない、ただただ純粋な、心無い言葉が、静かな廊下に響く……。

そう……このドラゼア龍王国は……竜人という種族は、力こそが全て。いや、力というよりも、ただひたすらに『強さ』。


兎にも角にも、強さ。

一に強さ。

二に強さ。

三に、とりあえず炎を吹いて。

四にやっぱり強さ……。


なのである。

そんな、一にも二にも「強さ」を是とする種族が、これほどまでに洗練された宮殿や、美しい街並みを建築できるのかと疑問に思うだろうが……もちろん、彼ら竜人自身が槌を振るって建てたわけではない。

かつての大戦の時に、捕虜として攫ってきたドワーフのような手先が器用な他種族に、強制的に建てさせただけである。

それでは、それ以前はどうしていたのかというと……?


──なんとこの火山地帯の洞窟で、火を囲んで暮らす原人のような生活をしていたらしい。


「──あぁ、この肉体に流れる、思考を放棄した原始の血よ……!いっそ、どこかの吸血鬼にでも、一滴残らず献上してしまいたいものだ……!そうすれば、この精神の苦痛からも解放されるだろうに!」


イグニスは、そんな粗野で野蛮な己の種族が大嫌いであった。

知性や理性ではなく、ただ力だけを信奉するその在り方を心の底から軽蔑していた。

大戦以前、原人のように洞窟で暮らしていたという事実も彼にとっては目を背けたい忌まわしい種族の歴史の汚点なのだ……。


「あぁ、悲しきかな、理性よ!汝は、この筋骨隆々の野蛮なる世界において、ただ孤独に苛まれるだけの存在だというのか!我思う故に、我、胃痛あり!なんと不条理なことか!」


イグニス王子が大袈裟な、悲劇の主人公もかくやというほどの身振り手振りで、自身の悲痛な胸中を表現していると……。

前方の長い廊下の先から、一つの小さな影が、こちらに迫ってくるのが見えた。

その影は瞬く間に、恐るべき速度で大きくなり……そして……。


「兄貴ぃー!」


元気で溌溂とした、しかしある種の破壊力を感じさせる少女の声が響き渡った、その瞬間。


「ごふぅ!」


岩と岩が衝突したかのような轟音と共に、イグニスの身体は木の葉のように軽々と宙を舞い、そのまま廊下の壁へと叩きつけられてしまった。

なんとも品のない音を立てて、イグニスの身体は黒曜石でできた宮殿の壁に、見事な人型のクレーターを刻み込んだ。


「……」


パラパラと、砕けた壁の破片が彼の髪に降り注ぐ。ひび割れた眼鏡のレンズを通して、彼はゆっくりと己を吹き飛ばした小さな襲撃者の姿を捉えた。


「我が愛しき妹よ。今日もまた、ペカルト的思惟を放棄し、純粋なる衝動のみを是として生きているのだな。その、自由な精神の発露……素晴らしい。まるで、我らが祖先が洞窟で火を囲んでいた、あの古き良き時代への回帰を体現しているかのようだ」


イグニスの皮肉に満ちた言葉の先には、一人の竜人の少女が悪びれる様子もなく、にこにこと立っていた。


「今日も何言ってるか分かりませんね、兄貴!頭大丈夫っスか!?」


彼女こそ、ドラゼア王国が誇る、王女フィアメッタ。

炎のような赤い髪をポニーテールに揺らし、大きな金色の瞳は好奇心に満ちてキラキラと輝いている。その姿はまさしく天真爛漫という言葉そのもの。


──ただし。


彼女が身にまとっている、王族特注の上質な絹で作られたはずのドレスは、今朝袖を通したばかりだというのに、既に肩や裾が豪快に破れ高貴なドレスというよりは薄汚れたタンクトップのような哀れな姿を晒している。

その可愛らしい笑顔と、野蛮極まりない服装のアンバランスさが彼女という存在を何よりも雄弁に物語っていた。


「フィアメッタ。君の頭蓋の中に、思考を司る器官……すなわち『脳』が、そもそも実在しているのか、私は常々、哲学的命題として考察しているのだが。どうだろう、君自身の見解は?」


そんな兄妹の会話を繰り広げながら、イグニスはめり込んだ壁から何事もなかったかのように、するりと脱出すると服についた瓦礫を優雅に、しかしどこか苛立たしげに払った。


「それと、その『兄貴』という、どこの盗賊団の首領を呼ぶかのような、粗野な呼称はやめたまえ。君は一応……まぁ、天地がひっくり返るような奇跡か、あるいは何かの手違いで割とマジで一応は『王女』という、社会的記号を与えられた存在なのだから」


あまりにも回りくどい言葉に、フィアメッタは心底どうでもよさそうに、こてんと首を傾げた。


「じゃあ、なんて呼べばいいんスか?」

「せめて、最低限の礼節と対外的なマナーとして、『お兄様』と呼ぶだけの知性は、残されていると信じたいのだが」

「まぁ、無理っスね。その呼び方、なんかキモいし」

「……」


イグニスはこめかみをピクピクと引きつらせながら、深く静かに溜息を吐き、襲い来る頭痛の波を必死で抑え込んだ。


「ところで、原始の血が騒ぎっぱなしの妹よ。私に何か用かね?切羽詰まった表情を見るに、よほどの緊急事態と見受けられるが」

「そうそう!なんか用なんスよ!大変なんスよ!」

「ほう。それは実に、大変なことだ。この国の一大事と見た。で、具体的には?世界の終焉でも始まったのかね?」


イグニスはフィアメッタの言う「大変」という言葉に、心底諦めきった表情を浮かべる。

この時、彼の脳裏にはこれまでの彼女が言う「大変」の歴史が、走馬灯のように駆け巡っていた。


──曰く、『うんこをしたら出過ぎてトイレが詰まったので、国を挙げてこの問題を解決してほしい』

──曰く、『今日のご飯が、肉じゃなくて野菜ばっかりだなんて、こんな屈辱は耐えられない』


など、聞いているだけでこちらの脳味噌が狂いそうになる、あまりにもしょうもない輝かしい伝説の数々を……。


「ふむ。待て、私の卓越した論理的思考で、君の『一大事』を推察してやろう。過去の事例……すなわち、君が引き起こした数々のしょうもない騒動の歴史を参照すると……答えは一つ。ずばり、『うっかり火を噴いたら、お気に入りのぬいぐるみが黒焦げになった』。どうだ、当たっているだろう?」


あまりにも人を馬鹿にしたような言葉に、フィアメッタは頬をぷくりと膨らませ、怒った表情を浮かべた。


「そんなわけないっス!兄貴、私をなんだと思ってるんスか!?」

「そうだな……分類としては、言語能力を奇跡的に獲得した直立二足歩行の、極めて衝動的な下等な爬虫類……あぁいや、なんでもない」


思わず本音が出そうになるイグニスだが、今のは彼の偽らざる本音である。


──自分以外の竜人は皆、高度な思考回路が存在しない蛮族なのだ。


決して、自惚れているわけではない。それが悲しいかな、純然たる事実であるということが本当に……本当に辛いのである!


「それで、君が主張するその『大変』な事態とは、一体何なのだ?有り余るその生命エネルギーは、私ではなく、同じく脳より筋肉が発達している姉上や弟たちと、存分にぶつけ合ってくればいいだろう。それとも、たまには趣向を変えて、私と共に『存在と無の形而上学的考察』でも読むか?君の脳細胞にとっては、火を噴くより難しいかもしれんが」

「兄貴と一緒に本なんか読んだら割とマジで脳味噌が爆発するからやめとくっス。……あぁいや、違うんスよ!そんな冗談言ってる場合じゃないんスよ!」

(……脳味噌が、存在したのか)


イグニスは、彼女の口から出た「脳味噌」という単語に一瞬心からの驚きを覚えた。

だが、この慌てぶりはいつものしょうもない「大変」とは少し様子が違うようだ。ただごとではないかもしれない。


「……はぁ。仕方あるまい。君がそこまで言うのなら、聞いてやろう。その国家を揺るがす一大事とやらを、簡潔にかつ論理的に説明してくれ」


イグニスが最大限の譲歩を見せると、フィアメッタは待ってましたとばかりに何かを叫ぼうとして、大きく息を吸い込み──


「あれ?なんだったっけ……」

「……」


ほら、ご覧のざまだ。

イグニスは一瞬でも彼女に真面目に耳を傾けようとしてしまった自分を、心の底から戒めた。妹に論理的思考を期待した自分が、愚かだったのだ。


「ふむ。すなわち、その程度の重要度の低い情報は自ら思考のゴミ箱へと投棄した、ということだ。実に結構」


イグニスは、ひび割れた眼鏡をクイッと中指で直し、もはやそこに存在しないかのように妹を一瞥することもなく、その場を去ろうと歩き始めた。


「これから私は、君や父上が、日々の鍛錬で破壊した建築物に対する、追加の補正予算案を考えなければならないのでね。では、失礼する」


イグニスの皮肉めいた言葉に反応することもなく、フィアメッタは「うーん、うーん」と、唸っているばかり。

どうせ大したことじゃないのにあんなにも真剣に悩むなんて、我が妹ながら本当に哀れである。


「あぁ……胃が痛い。本年度の修繕費は当初の予算を三百パーセント超過している。仕方あるまい……新たな財源は、父上が隠し持っている『趣味の骨董品(という名の、他国から奪ってきたガラクタ)』でも、勝手に売却するとしようか……」


イグニスが、ぶつぶつとそんな物騒なことを呟きながら、妹の存在など完全に忘れて廊下を歩いていた、その時である。


「あぁーっ!!思い出した!!」


背後から、鼓膜を突き破るかのような、フィアメッタの叫び声が聞こえてきた。


──今度はなんだ?ペットのトカゲでも脱走したのを、ようやく思い出したのか?


まぁ、どうでもいいことだ。

イグニスは背後で騒ぐ妹を、今度こそ完全に無視し立ち去ろうとしたが……。


「──エルフが、この国に攻めてきたんスよぉ!!!」


イグニスの優雅な歩みが、ピタリと止まった。

彼は人形のように、ギギギとゆっくりと振り向き、ひび割れた眼鏡の奥の瞳を鋭く煌めかせる。

そして、少し離れたところにいるフィアメッタに向かって、低い声で言った。








「お前は何を言っているんだ」


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