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第92話

「全員ぶっ殺して、そのままエルフの国に攻め入るってのは、どうだぁ?」


──素晴らしい……。


なんて一切の知性を感じさせない、意見なんだ……!


イグニスは、完璧なまでの父の脳筋理論に感銘すら覚えていた。


我々はここで、外交使節……いえ、ただの不法侵入者ではあるが一国の王と王子を惨殺し、高らかに宣戦を布告する。

そして、その勢いのまま何の補給計画も戦略的目標もなく敵国の本拠地へと攻め入る。

潔い原始の衝動に、ただただ忠実な作戦……。私の小賢しいだけの理性では到底たどり着けない、神の領域の戦術だ。


そして、イグニスは天井を仰ぎ見て……言った。


「皆、静粛に。今のはただの阿呆の戯言だ。よって全員、今の言葉は忘れるように。……そもそも、この私が父上に理性を期待したのが、全ての誤りだったのだ」


あぁ、自分が憎い!

どうせ山賊のような短絡的な発言しかしないことは分かり切っていたというのに、それでも万に一つの可能性を信じて、一抹の望みをかけてしまった自分が心の底から憎い!


「あら~いいですわね~。全員殺しましょうかぁ~」

「うーん、エルフってウェルダンの方が美味しいっスかねぇ?骨と皮ばっかりでなんかまずそうっスけど」


姉と妹の、実に知性的で心温まる会話が聞こえてくる。


(聞くに堪えない!この、あまりにも知性の欠片もない会話……!一体、どこの誰がこの思考が筋繊維でできている生物に『文明』などという高度な概念を与えてしまったのだ?)


神話によれば竜人は、慈悲深き女神から『知性』という名の祝福を授かったという。

だがそれは、壮大なる伝承の誤りか、女神による壮大な皮肉に違いない。何故ならイグニスは家族の中にその『知性』とやらが、ほんの微粒子レベルですら存在しているのを確認できたことが一度もないのだから。


そして、続いて発言するのは……。


「兄貴ぃ……」


ずももも……と小山が動くかのように、テーブルから身を乗り出してきたのは筋骨隆々、そして見事な髭をたくわえた巨大な男……。


──それも、二人。


彼らはイグニスの『弟』である、バサルトとオブシディアンの恐るべき双子コンビである。

明らかに数千年を生きたかのような貫録と、威圧感を醸し出している巨漢の竜人(おっさん)だが……驚くべきことに今年でようやく齢10歳になったばかりの、純粋な『少年』なのだ。


二人の弟(というには、あまりにも巨大すぎるが)は立派に編み込まれたヒゲを、無心にさすりながら言った。


「親父の言ってることは、なんで間違ってるんだ?」

「そうだぜ兄貴。理屈はよく分かんねぇけど、ぶっ殺せばいいんじゃねぇか」


純粋、だが物騒な二人の言葉。イグニスは頭を抱えながら口を開く。


「バサルト、オブシディアン。いいか、君たちのまだ形成されて間もない実にプリミティブな思考回路では『政治的配慮』という極めて高度な概念は、まだ……」


そこまで言いかけて、イグニスは口を閉ざした。


(……いや、やめよう。何を言っているんだ私は。目の前の巨大な赤ん坊たちに(見た目はおっさんだが)、政治を説こうなんて。我が父ですら『政治』を、ただの『殴り合い』の別名だとしか認識していないのだから……)


イグニスが世界の理不尽さに静かに絶望していると、兄の苦悩など微塵も理解していない弟たちが、純粋な瞳で実に素晴らしい提案をしてくれた。


「じゃあ、兄貴!俺が遠くから岩投げて、ぶっ壊してくるのはどうだ?そしたら、あいつら誰の仕業か分からないだろ?」

「いや、バサルト。それじゃ、つまんねぇ。俺があいつらのいる場所の地面を思いっきり殴って、でっかい穴開けて全員地の底に落としてやるよ。そしたら静かになる」


イグニスはもはや怒りを通り越し、どこか穏やかな悟りの境地のような表情を浮かべていた。

しかしその時……彼の脳裏に、とある恐ろしい考えが過る──


(……待て。おかしいのは、本当に彼らの方なのだろうか?この場において私ただ一人が孤立している。自分と意見の合う存在が、一人たりともいない。多数決の原理で言えば、狂っているのはむしろ……私……)


「い、いや、いかん!断じて違う!おかしいのは、この、思考を筋肉に支配された、この国の全員だ!私は、私は極めて正常なんだ!」


イグニスは自らの脳裏に浮かんだ恐ろしい思考をかき消すように叫んだ。


「兎にも角にも!第一に我々が遵守すべきは、論理的思考のプロセスである!すなわち、まず彼らの『動機』を解明すること!何故、あのエルフの王族が、わざわざ我らの領地へやって来たのか!その根本的な理由が解明されない限り、我々が何らかの行動を起こすのは、暗闇で剣を振り回すのと同じ……愚の骨頂だ!異論は認めん!」


イグニスの悲鳴に近い叫びに、再び議場は静まり返る。

静寂の中、玉座に座る父……国王ヴァルカインが心底不思議そうに首を傾げて言った。


「あれぇ?イグニス、言ってなかったかぁ?」


──言ってなかった?


──何を?


その時、イグニスに背骨を氷でなぞられたかのような悪寒が奔った。

それと同時に額から、背筋から冷たい汗がじわりと伝う。


「……父上。一つ、基本的な確認をさせていただきたい。まさかとは思いますが、何かしらの独断的な行動を、起こしてはおられませんでしょうね?」

「んあ?行動ってほどのもんじゃねぇよ」


ヴァルカインは面白い冗談でも思い出したかのように、がははと豪快に笑いながら言った。


「この間な、エルフのクソ野郎どもから、なんか手紙が来たんだよ。あれ?どこ行った、あの手紙?もう燃やしたっけか?それとも、ケツ拭くのに使ったんだったか?」

「あぁ、あの紙くずでございますか?確か何かの間違いで必要になるやもしれぬと、誰かが保管していたような気もしなくもありませんねぇ」

「おう、そうか!じゃあ、ちぃと持ってきてくれや!イグニスに見せてやれ」


不穏な会話を聞いて、イグニスは強烈な眩暈に襲われそうだった。


手紙?なんだ、それは?


私は、何も聞いていない。


聞いてない!


(まさか……。まさか、私のあずかり知らぬところで、何かが進んでいた?エルフのあまりにも不可解な行動……。そして父上の妙に落ち着き払った態度……。もしや、もしやこの全ての元凶は……)


イグニスはこれから起こるであろう、最悪の事態を予感し戦慄した。


(いっそこのまま第一王子という、重すぎる責務を全て放棄して、どこか遠い南の島で波の音を聞きながら、哲学書でも読んで暮らしたい……。ああ、なんと甘美な響きだろうか『責任からの逃亡』とは)


イグニスが現実逃避なことを考えていると、家臣の一人がよれよれの、そしてどこか不穏な匂いのする手紙らしきものを持って駆け寄ってきた。


「イグニス王子!幸い、例の手紙が発見できましたぞ!どうやら厠の紙として置かれていたようで、間一髪水に流される前に救出できました!」

「……」


もう突っ込む気にもならない……。

何も言わない方が、自分の精神衛生上きっと良いのだろう。そう判断したイグニスは、恐る恐る不遇な運命を辿った手紙を受け取り、読み始める。


その内容は、こうだ──


『ドラゼア王国の尊き王、ヴァルカイン陛下に、心からの敬意を。

世界樹の葉が銀の月の光に輝くこの良き季節。我らエルフの国と貴国との間に、長きにわたる氷の時代が続いていることを私は深く憂いております。

つきましては、過去の遺恨を水に流し新たなる調和の時代を築くべく、我が愛しき娘エルミア・アズルウッド姫と、貴国の誉れ高きご子息イグニス・ドラコニール王子とのお見合いの席を設けていただきたく、ここに書簡を認めた次第にございます。

どうか我らが未来のために、ご賢察いただけますことを心より願っております。


エルフの国王 セーロス・アズルウッド』


「……」


イグニスは初めて見る、初めて聞く手紙の存在にわなわなと震え始めた。


「いやぁ、後でお前に見せようかなぁ、なんて思ってたんだけどすっかり忘れちまっててなぁ!でもまぁ、いいだろ?見合いなんざ、大した問題じゃねぇしよぉ」


──見合い?見合いだって!?


これは……これは!極めて重要な、両国の未来を左右しかねない政治的な書簡ではないか。

イグニスのまばたきが高速で、尋常ならざる頻度で繰り返され始めた。


「……父上。この重要な書簡に対し、一体どのようなご返事を……?」


その問いに、父ヴァルカインは心底おかしいとでも言うように、腹を抱えてがははと豪快に笑いながら言った。


「そりゃおめぇ……『馬鹿言ってんじゃねぇぞクソ外道どもが。我らの土地に足を踏み入れた瞬間、黒焦げにしてやる。死ねバーカ』ってな感じで、返したに決まってるだろ!」


その言葉が、イグニスの鼓膜を揺らした瞬間。


「──」


彼の世界から、音が消えた。

視界がぐにゃりと歪み、身体が自分の物ではないかのようにふらつく。テーブルに、かろうじて手をつかなければそのまま床に崩れ落ちていただろう。

イグニスが父の愚かな行動に戦慄すら通り越して、魂が抜け殻になりかけていると、沈黙を破るかのように彼の優秀な姉や妹、弟たちが、口々に父を称賛し始めた。


「まぁ、父上!なんと王らしい、力強いお返事ですの~!外交なんて女々しいものじゃなくてぇ、ただ力で示す!それこそが、我がドラゼアの王の在り方ですわ~!」

「パパ、かっこいい!『黒焦げにしてやる』って、今度私も使っていいっスか!?友達とのケンカで!」

「素晴らしいな……流石は親父だぜ」

「あぁ……シンプルで、いい」


姉スコリアの恍惚とした表情、妹フィアメッタのキラキラとした眼差し、そして弟バサルトとオブシディアンの、心からの尊敬を込めた短い賛辞。

そんな意味不明な肯定と称賛の嵐を聞きながら、イグニスは何とか姿勢を保つ。


(……いや、待て。父上の返答が無礼千万で野蛮で思考の欠片もない、ただの獣の咆哮だというのは紛れもない事実だ。だが……!)


──だが、それにしても、だ。

殺害予告を受け取った相手が、なぜわざわざ、こうしてやって来る?罠か?我々の脅しなど、鼻で笑うほどの、絶対的な自信があるというのか?

あるいは……あるいは、彼らもまた、私の家族と同レベルの、論理的思考能力が欠如した、ただの……。

いや、考えるのはよそう!もう考えたくない!


「……こうしてはいられない!」


これ以上考えても答えの出ない不毛な思考を打ち切ると、彼は勢いよく立ち上がった。

そうだ、今すべきことは愚かな家族の愚かな行動の尻拭いである!


「全軍に通達!エルフの馬車に対して、決して!いかなる攻撃も仕掛けるな!威嚇行動も禁止だ!火を噴くのも禁止!咆哮もダメ!いいか、指一本でも触れてみろ、私が許さん!急ぎ伝えろ!」


イグニスが、謁見の間に響き渡るほどの声で、そう指示を飛ばす。

しかし、その時だった。

その場にいた兵士の一人が軽やかな足取りで、一歩前に進み出てきた。


「イグニス王子!」

「なんだ」

「はっ!つい先ほど、最終防衛ラインにて我が国の先遣部隊と侵入してきたエルフが、交戦状態に入ったとの連絡がございました!ただ、相手も相当な手練れのようで我が軍は苦戦している模様!つきましては、王族のどなたかを至急援軍として派遣していただきたいとのことです!」


にこり、と。

まるで「今日の昼食は、大変美味でございましたァ!」とでも報告するかのような、爽やかな一点の曇りもない笑みを浮かべて、兵士はそう言った。


「──」


その瞬間、イグニス以外の王族たちは、一斉に喜びの声を上げた。


「なんだって!?もう戦いが始まっているのか!?」

「ずるい!ずるいっスよ!私にも戦わせろー!」

「いえ、ここは長女である、わたくしが行くべきですわ~」

「俺も行きてぇよ!」

「いや、俺ここは俺に任せてくれよぉ!」


知性の欠片も感じさせない獣のような闘争本能に満ちた声が、議場に響き渡る。


そして──


「なん……だと……」


カシャン、と。

イグニスの顔から知性の象徴であるはずの眼鏡が力なく滑り落ち、床の上で虚しい音を立てた……。


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