たった1ヶ月の夏休みの間に俺は、放課後の過ごし方というのを忘れてしまっていたみたいだ。
丁度バイトの無い今日はとりあえずで美術室に向かっていたけれど、何をするわけでもなく、そこらへんに落ちていた筆を回しながら想い、更ける。けれど、それは俺だけではなかったみたいだ。
久しぶりに来た美術室は活気に溢れていて、けれど筆を持つのは周りを見ても俺くらいだった。
「っぱ、これくらいの広さがあるといいかもな。休憩場所も考えると丁度良いし」
「しかもほら、ここ1階だから気軽に来れるし外からもよく見えるし! 当日はお客さんいっぱいだね」
「しかも美術室のカフェなんてやっぱり、おしゃれじゃん?」
クラスメイトはくたびれた机を撫でながら、バランスの悪くなった椅子をギシリと軋ませながら、口々にこの部屋を褒めたたえる。
クラス展示は必ずしも自分たちの教室でやらなければいけない、という決まりは無いらしい。事前に申請を出して被らなければそれこそ屋上以外のどこを使っても不問となっているみたいで、うちのクラスは美術室を使うことにした。
「……割と、憩いの場所だったんだがな」
「まぁ、文化祭が終わったらどうせまた静かになるでしょ。わたし、こっちの雰囲気も結構好きだけど」
「雰囲気だけ言えばな。……集中できん」
白紙をシャーペンで突くだけで何もアイデアを出せない俺とは違って、海原は随分と気楽に言ってみせる。
クラスメイトの言う”でっかくてすごい絵”のアイデアをこいつはもう思いついているとでも言うのか?それなら早く俺にも教えてくれ。
「……女子、というか海原って結構カフェとか行くよな。そこに飾ってある絵とかって覚えてたりするか?」
「うーん……そもそも目的は飲み物だからあんまり気にしたことないけど……カフェに寄る?気がするかな。ほら、おしゃれーって言ってもひとくちでこれ! って感じじゃないじゃん?」
身振り手振りをしながら伝えようとはしてくれてるが、余計にわからない。だいぶ前に天野と行ったカフェはどうだっただろうか。たしかにおしゃれではあったけれど絵は……飾っているかどうかなんて覚えてないな。
「昔ながらのふるーいカフェとかだとさ、暗めな色を使って目立ち過ぎなくて、雰囲気に除け込んだみたいな絵が多いけど、文……あ、あの子ね。達が好きなとこだと逆で、青とか白とか明るいイメージで奇抜な……そう、映える! 絵とかが多い気がするよ」
「なら、俺達が描くべきは映える絵。みたいだな」
文化祭に来る外部の人間なんて他校の生徒――俺達と同世代の人間がほとんどだろう。顧客がわかっていれば目指すイメージを想像することは容易い。
ただ、それで言うとこの美術室がいわゆる映える絵と相性が良いかと言われると……疑問ではあるかもしれない。年季の入った机や椅子はどちらかと言えば古風なカフェにあるだろう。
「それなら大々的にリフォームでもしなきゃな。真っ白な壁紙でも張って、壁一面に描いてみるか?」
「それができれば一番良いだろうけど、現実的じゃないよね……絶対設営するとき汚す人出てくるし」
「それならやっぱり、小さいのを何枚かと目玉の”でっかくてすごい絵”1枚ってとこか?」
「そうはなりそうだけど、なんかこう……普通だよね」
苦い顔をする海原は気が進まなくとも、妥協するしかないと言わんばかりに首を曲げる。彼女の言葉を借りればそれは”面白くない”のだろう。
「どうせならお客さんも見たことないようなヤツでさ、わたしたちも今まで描いたことない絵とか、描いてみたいよね」
「俺達もやったことないこと……か」
単に海原が描いたことのない絵であればたくさんあるだろう。油絵やアクリル絵の具を使った絵画であったり、それこそ水墨画とか。そこに俺もという言葉が入っているのが実に厄介だ。
時間だけが過ぎて行く中、美術室の扉の先から風が吹く。横目に見ると立っていた”アイツ”はギョッと身を引き扉を閉めようとするが、諦めて音をたてぬよう、目立たぬように部屋に入り、こちらへ歩みを進める。
「なにこれ」
「よぅ。クラス展示でここ、使うことになったんだ」
「ふたりで画展でも開くの?」
「そんなんじゃないよ! って、言い切れないのもなんだかね。あははっ」
天野も美術室に来た今、やはり俺達は示し合わせてなくともここが居場所という認識があったみたいだ。天野、気持ちはわかるが顔に出すな。今日は俺達の方がアウェーなんだから。
「わたし達のクラスはカフェをやることになったんだけどね、わたしと朝風くんは雰囲気担当で絵を描くことになったの」
「雰囲気担当なんて言葉、初めて聞いたわね」
「お遊戯会でよくある木の役みたいなもんだ。んで、どうせなら客も俺達もやったことのない試みでもしてみようって話になったんだが、良い案が思いつかなくてな」
「木でいいのね……」
どうでも良いところに引っかかって来るなこいつは……思い付きでペンを走らせていた紙を天野が手に取り、見つめながらしばらく首をひねる。
油絵 済
水彩画 済
水墨画 済
描いたことのあるジャンルは大抵そこに記していて、後はどれだけ頭を捻っても出てくるこはなかったから、ある意味では天野が頼みの綱なのかもしれない。
「大体はやったことあるのね」
「そりゃあ10年以上やってきたらな。経験だけは人並み以上だ」
「となると……アプローチを変えてみたらいいんじゃないかしら。水彩画とか油絵とか、そういう技法的なものに縛る必要なんて無いと思うけど」
「あぷろーち……?グぬぬ……」
海原もようやく真剣に考えてくれたみたいで、聞いたことのない声を出しながら頭を悩ませる。それ、俺が集中して考えられないんだが。
「ま、遅くとも今週中に決められたらそれでいいか。んで、そういや天野はなんか用あって来たのか?」
「こんな賑やかな美術室には用なんてなかったのだけど……もうバレてしまっているのだから仕方ないわよね。お弁当、取りに来たのよ」
「あぁあれか、洗ってから返そうと思ってな」
「そしたら明日入れる容器がなくなるじゃない」
「え、明日も作ってくれるのか? マジで? 」
俺の言葉も聞かず手だけ出してくる彼女に空になった弁当箱を手渡すと、また彼女は大きなため息をつく。だから悪かったって。
それにしても、明日も作ってくれるという彼女の言葉は本当なんだろうか。今日も明日もその先も……なんて続けば要らぬ噂も立ちそうだが。
「それで、美味しかった?」
「あぁ、毎日食べたいくらいだ。ありがとな」
「そ、それなら良かった。それなら私今日はもう帰るから。明日は一回で出てきてよね」
ツンとした表情で素っ気ない彼女は箱だけ受け取ると美術室を去っていく。本当にそれだけの用で来たのかアイツは。
振り出しに戻った俺は机に向き直るが海原の手は止まったままで、未だに扉の先を見つめていた。こいつにも一応話しておくか。
「あの海原、これはだな……」
「何、天野さんと一緒のお弁当食べてる。ってこと?」
「まだ何も言ってないんだが」
「さ、流石に聞いてたらわかるよ!なんでこう知らない内に一緒に……一緒に……ん、一緒?」
相変わらず手は止まったままだが、彼女は次第に頬を緩めながら笑う。俺からペンをかっさらい、済とばかり書かれた紙に筆を走らせ、胸を張って俺に見せつける。
「ふっふーん。わたし、名案を思いつきました」
「先生、その心は」
「これだよ!これ!」
そこに書かれていた文字を読んでもピンとくることはなく、仕方なく”先生”にご教授いただくことにしてみる。
「これ、今俺達がやってることじゃないのか?」
「一枚の絵に対してそれをやったことってわたしたち、まだやったことないはずだよ」
「一枚、一枚。あぁ、そう言うことか」
「ね、おもしろそうでしょう? やりたくなってきたでしょ?」
推しが強い彼女の心はわからずとも、そのアイデアはたしかに俺達は今までに試したことのないものだった。俺が笑ってしまったのはそのアイデア故なのか、彼女故なのかはわからないけれど、それは確かに面白そうな案だ。
「決まりだな」
「うん。じゃあこれにしよ! きっと素敵で、お客さんだ達だけじゃなくてわたし達にとってもきっと、特別な絵になるよ!」
海原は俺のシャーペンで大きく書いたそれに丸をつける。花丸にまでする必要があったのかどうかはこの際に気にしないでいると、改めてその言葉を彼女は俺に告げる。
「朝風くん!」
――一緒に絵を描こう!