「麦茶くらいしか出せんからな」
「ありがとね」
「お構いなく」
「構ってもらいに来たのはお前だろ」
テーブルなんて御大層な名前を与えられないくらいに小さなちゃぶ台に天野持参の弁当箱とコップが3つ置かれる。足が折れてしまわないか心配だ。
その周りを囲むように座る3人。俺と、どこか肩をすぼめ、膝から手が離れずに緊張している海原、背筋を伸ばし堂々とした姿を見せる天野。
……どうして呼んでないヤツが一番居心地良さそうにしてるんだ?
「んで天野……今日はその、どした?」
「どしたってお弁当、持ってきただけだけど」
「知らなかったかもしれんが、土曜に学校なんて行かんぞ」
「あなた、何言ってるの?」
当たり前じゃない。とでも言いたげな視線が俺に刺さる。どうやら、こいつに俺の皮肉は効かないみたいだ。
「あなたが言ったんじゃない」
「えっ、俺がか? いつ?」
どうやら天野としては俺が呼んだということになっているらしい。その瞳と声色は少なくとも嘘を付いていることはないみたいで、それが余計に俺の頭を悩ませる。
休日にわざわざ同級生に弁当を持ってこさせるなんて今時不良でもやらないだろう。むしろそんなものより質が悪い。
「毎日食べたいって私に、言ってくれたじゃない」
「あー、そうだな。もうそれでいいや」
俯きながら話す彼女に言葉も出ない。たしかにそう言ったかもしれないが、それを本気にする人がまさか居るとは思ってもいなかった。いじらしくちゃぶ台に指を滑らせる彼女に世辞なんてことは言うことも出来ない。
海原は海原で一言も発さず、都会に出た田舎の学生さながらのように首をあちらにもこちらにも向けている。見せられないものでも見つかってしまったら、なんて事も考えたが、この部屋は見渡す程広くも無ければそもそも何もない。
ここの詳しい間取りなんてものは知らないが、この部屋はこんなに狭かっただろうか。今日だけはどうしてもそう感じてしまう。
「これ、全部朝風くんが描いたの? というか、描けたの?」
「ん、あぁ。やることなんてこれくらいしかないしな。幸い筆は鞄に入れてたし、仕送りと称して母さんからも忍び込ませてもらったしな」
「そっか、そうなんだね……」
乾いた絵具が乗るキャンバスを撫でる海原の声色は小さく沈む。そう思えばまた彼女はいつもの声色で俺に笑いかける。
「こ、これだけあったらもうカフェに飾る絵なんて実は必要ないんじゃない?」
「飾れるような絵はここにひとつもない。これじゃ、こんなのじゃダメだ」
絵画と向き合って描いてきたそれらを”こんなの”と切り捨てることは簡単に出来た。最初からそんな扱いをするような絵を描こうとなんて思ってもいないが、その背中を押したのはやはり、父の言葉だろう。
「ありきたりでつまらないこんなのじゃ、ダメなんだよ」
「そんなことないよ!」
「じゃあどこが面白いんだよ」
「ふたりとも、落ち着いて」
投げやりに吐いた言葉は簡単に人を傷つける。動揺する海原との間に入った天野の顔色には、変わらない冷たさがあった。
「大事なことではあるけれど、今日はそんな話をする日じゃないでしょ。朝風君はもっと自信を持つべきよ。だって、”私がサポートするあなた”なんだもの」
「……悪いな、天野。海原」
「ううん。わたしこそ、ごめん」
たしかに、今はそんな話をしている場合ではない。麦茶で冷やした頭は真っ白な画用紙に向けるべきだ。
「もともとが古めかしい美術室なんだ。それだったらアンティーク感のある絵で併せてやるのが良いだろうな。派手に明るい色は使わない、落ち着いた雰囲気を出すのが良さそうだ」
「アンティーク……古おしゃれってっことだよね? それだったらさ、いくつかは色褪せたような感じにしたり、ちょっとキズなんてつけたらもっとそれっぽくならない?」
「キズか、それは考えてなかったな」
「朝風くんにもなかった発想なんて、あるんだね」
「毎回驚かされてるよ。海原からはたくさん勉強させてもらってる」
海原の発想には時々驚かされるものがある。色合いや被写体だけでアンティーク感を出そうとする俺とは違い、彼女は絵画という枠組みを超えたアプローチをかける。
「色褪せた感じを出すのはさ、コーヒーで染みを作ってみたりとかすればイケると思うんだよね! あんまりやっていいことかどうかはわかんないけど……」
「コーヒーで染みを作ったってそれは立派な作品だ。絵にタブーなんてものは無いし、海原みたいな発想が良い作品ってのを作るんだよ」
「わたし、なんだかいけるような気がしてきたよ! 朝風くん、絶対”ふたりで成功させよう”ね!」
「あぁ、そうだな」
相当気合が入っているのか、力のこもった海原の声が部屋に響く。同時に天野の口元が引きつり、そのまま固まってしまったのはただの偶然なんだろうか。
小さく咳払いをした天野はやけに明るい笑顔で海原の肩を叩き、やさしく語り掛ける。
「心配しないで、海原さん。朝風君のサポートは”私がきっちり”するから、あなたはまず、あなたのやれることに全力を注いだ方が良いと思うわ。”三人で絶対に成功させましょう”」
「それはこっちのセリフだよ。わたしもだけど、生徒会の仕事もあるでしょ? 役員の天野さんなら尚更だし、それにそっちのクラス展示だってあるじゃん。心配してくれてありがとね、天野さん。こっちは”わたしと朝風くん”に任せてもらって問題ないよ!」
いつもとは違うふたりの笑顔には嫌な既視感がある。まだ暑くなる前の頃だったか、仲良し気に笑顔を振りまくふたりの間に俺は入らない方が良さそうだ。俺の部屋なんだがな。
ふたりの応酬を横目に空になったコップに麦茶を注ぐ。これが飲み終わるまでには収まってほしいという願いを込めてぎりぎりまで、タプタプに注ぐ。
……結局、ふたりが落ち着く頃にコップに注がれていたのは、水だった。
「キリも良いし、今日はここで終わらせても良いかもしれんな」
丁度空が真っ赤に燃えようとしている頃、一息付いた朝風君の言葉で今日は解散となった。
「また学校でね」
「あぁ」
「また明日」
「……流石に休日は何か作るから、弁当のことは気にしないでくれ」
「毎日食べたいって言ったクセに」
冗談交じりの言葉に戸惑う彼の顔に手を振りながら部屋を出る。それだけ困った顔されるなんて心外だわ。私だってお世辞くらいわかるわよ。
「天野さん。ちょっとだけ……いいかな」
「えぇ。ちょっとだけ、ね」
踏む度に音の出る階段を降りたところで呼び止めたのは海原さん。さっきまでしていた張り付いたような笑顔は無く、いつになく真剣で真っ直ぐ見つめる瞳に身構える。
「もしもわたしが一生に一度のお願いをしたいーって言ったら、天野さんはそれに応えてくれる?」
「内容による、としか言えないけど。私にも出来ることと出来ないことだってあるわ」
「大丈夫、簡単なことだよ。ほんとうに、簡単なこと」
念を押して言うということは少なくとも、簡単では無いのだろう。
「一体私はなにをさせられるの?」
「違うよ? 天野さん、あなたは何もしなくていいんだよ。わたしのお願いって言うのはね――」
そのお願いは確かに何をする必要も無くて、私にとって本当に簡単なことであり、難しくもある”お願い”だった。
首を振らずに居た私に彼女は言葉を続ける。それは強要でもあり懇願でもあり、決意の表明でもあった。
涙交じりの声は同情を誘ってのものではない。彼女の――海原 咲という人間の本心から出た言葉であって、留めていた気持ちであって、全てなんだろう。
私が答えを下した後、彼女はありがとう。と一言だけ告げる。
私にとっても海原さんにとっても、それは良い選択だったのかどうかはわからない。
「それじゃあ、約束だよ」
「えぇ。そうね」
それだけ言うと、彼女は夕焼けの中を駆ける。私はその背中が消えるまで、ゆっくりとその”一生のお願い”を心に刻みつけることにした。
――文化祭が終わるまで、わたしと朝風君をふたりきりにさせてほしい。
続けて告げた彼女の言葉はしばらくの間、私の胸を贄として燻り続けるだろう。
――後夜祭でわたし、朝風くんに告白する。好きって気持ちを、伝えることにしたから。