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第44話「あの日のきみに」

「……以上が文化祭での生徒会タスクとなります。当日までの準備が中々に多いですが、分担して進めていきましょう。役員以外は一旦、解散で」


 天野さんの言葉を聞き、生徒会室を出る。

 ”あの日”からの天野さんは自分の仕事量を増やし、生徒会室に籠ることが増えた。事務的な会話しかしていないけれど、彼女自身の態度が変わったりすることはなく、いつも通りの天野さんだった。それはわたしに対してのやさしさでもあり、プレッシャーでもあるんだろう。

 わたしもわたしで、変わらない。けれどどうして、今日は生徒会室から美術室に続く道を外れ、もう少しだけ歩くことにした。


「お前んとこ、何やんの?」

「あー、俺らのとこ外で焼きそば売ったりだな」

「いいじゃん、俺来た時だけ安く頼むわ」


「あぁ、俺は彼女の手を掴むことさえできないのか!」

「手を伸して受け入れる、あぁたったそれだけをしてくれるだけで良いのに!」


 廊下を抜け、体育館を横切る。

 水飲み場のバレー部は気だるげながらもその声は弾んでいて、チラリと見えたステージ上ではジャージ姿の王子様が迫真の演技で愛を嘆く。

 気の向くまま、気分転換にと歩いみたものの、やはり気は休まらなかったみたい。文化祭前の浮ついた校内はわたしまで浮かせようとしているみたいで、どこか地に足ついていないような感覚。


「えっ、マジ?」

「声でけぇって……でも俺、マジだから」


 靴棚では知らない男子達が秘密の話をしているようだ。隠そうとしているものこそ聞こえやすくて、わたしもついついそれに耳だけを傾けてしまう。


「んでいつ?」

「後夜祭、終わった後に俺、高槻さんにマジで告白するから」

「こ、告白!?」

「うわ、絶対誰かに聞かれたわ、あぁ、終わった……」


 思わず出てしまった言葉に遅く口を塞ぎ、すり足でさっさと靴棚を後にする。

 じわりと滲む油汗は拭っても拭っても湧き続け、干からびてしまわないか少しだけ、心配だ。

 扉を前に息を整え、二度頬を叩き、瞬きを4回。扉の取っ手は脂汗で滑り、ガタリとひとつ大きな音をたてる。


「お、おつかれさま」

「あ、海原さん!生徒会のお仕事終わったんだね。おつかれさま~」

「画伯来たやん!」


 労いの言葉を軽く流し、狭くなった美術室の隅――壁と画用紙とをにらめっこする彼の隣に立ち、いつも通りの仕草で、いつも通りの笑顔で、いつも通りの声で、彼との時間を始めることにした。


「今日から”も”よろしくね。朝風くん!」






 いつもより膨れた鞄から取り出してはそれを見比べ、また別の一枚を取り出しては見比べ、その度に俺から出るのは溜息だけだった。

 演習のプリントよりも多く詰め込んだ俺の絵の中で、使えるのはいくつあるだろう。抱えるほど詰まっていない頭を抱えていると聞こえていたのは彼女の声。


「あさかぜ……くん? 大丈夫? どっか打った?」

「いっそ一回くらい打った方が良いかもしれないな」

「どうしてそうなるの!?」


 秋雨の音が響く中でも彼女の声は晴れた日のような、カラッとした純粋な声色。

 その声があの雲も、俺の悩みさえも晴らしてくれたら。なんて願いは土交じりの水溜りに沈み、這い上がることはなかった。


「また、お悩み中?」

「この間ふたりに励ましてもらったばっかなんだけどな、やっぱダメみたいなんだ。これはやっぱり、つまらん」


 前の俺だったらどうしていただろう。諦めていただろうか。前も今も俺自身はさほど、変わらないか。

 吐き捨てるように、脱力した腕から画用紙がすり抜ける。しかしそれが床に触れる事は無く、ワックスの効き目が無くなってきた床をキュッと鳴らしながら彼女が手に取り、両手でそれを抱く。


「危なかったぁ」

「お、おい。海原……大丈夫か?」

「あぁえっとわたし? わたしは全然大丈夫だよ。ほら、こんなに身体柔らかいし」


 腰を大きく回したり、背中を曲げてみたりしながら彼女は言う。女子高生ならぬその不用心な動きに思わず笑ってしまうと、彼女もまた垂れた髪をそのままにおでこを出しながら、笑っていた。

 その間も彼女は、決して俺の絵を手放すことはない。


「今日はさ、ちょっとお話しようか」

「話?」

「うん。さ、座って座って」


 海原の引いた椅子に座わると、手狭になったとはいえ広い美術室で詰めるようにしながら俺の横に座る。抱えた絵は机に広げられていた。

 彼女の言うお話というのは、ただのお話というよりかは昔話だった。

 俺達が新入生だった頃の、丁度海原と知り合った頃の話を聞いていると、あの日の情景がうっすらと脳裏に浮かぶ。今はもう褪せた青写真ではあるけれど、当時の心境は良く覚えている。


「よくわからんやつが来たな。って思った」

「今は?」

「……さらに、よくわからんやつになった」

「えっと……理解してくれようとはしてるんだよね?」


 俺の描いた梅の花を桜と言った海原。

 初心者ながら最後まで描き切った海原。

 線もがたがたで、ムラのある塗り。けれど海原にしか描けない特別な、あの一枚。

 懐かしいな。

 その心は口にも出ていたようで、そうだね。と海原も懐かしむような声色で俺に応える。


「あの時の絵、わたしまだ覚えてるよ」

「あの梅の花をか?」

「うん。可愛いピンクのお花と、たくさんの花を支える固い幹に、すっごく広い空。見ててすごく楽しかったし、描いてるきみも――楽しそうだった」

「俺も、か」


 今の俺よりも上手くないし、想像力も創造力も乏しくて未熟なあの日の俺の絵を彼女は今も、楽しいと言う。

 俺も描いた絵の細かいところなんてものは覚えていない。そのキャンバスだって今はどこを探しても見つからないだろう。けれどひとつだけ、俺の中で見つかったものがあるかもしれない。


「そうだな。俺も楽しかった」

「だからさ、楽しく描いてみようよ。わたしはね、絵が好きなきみの描く絵が好きで、そんなきみと、一緒に描いてみたいの」


 彼女の笑顔で一瞬、視界が融ける。

 俺が俺自身にもたらした暗雲に差し込む光は強烈で、目は灼けてしまいそうになるけれど、手を伸ばす。

 固執し続けて悩ませた俺への答えは至ったシンプルで、ありふれた何も特別感もない言葉。

 なんて、なんて遠い、回り道だったんだろう。


「あっ、あとそうそう、これ渡そうと思ってたの」


 スカートのポケットから海原は何かを取り出して、俺に向ける。それは丁寧に包装された小さな箱で、赤いリボンで可愛く結ばれていた。

 訳も分からず箱を開けると、穢れひとつも無い新品の筆が2本。俺が良く描く水彩用の筆が2本、納められていた。


「心機一転! 新しい気持ちで一緒に描いていこう! って感じで。これはわたしからのプレゼントなのです」

「いい、のか?」

「うん。きみに受け取ってほしいな。それにね、ほら。わたしも買っちゃったの! 見て見て、おひげ」


 筆を唇の上辺りに重ねる海原に笑わされ、多分、救われた。


「俺も、好きかもしれないな」

「えっ!?」

「あの時お前が描いた絵、が」


 海原はなぜか知らんが驚きながら手から筆を滑らせる。あ、それは床に落としちゃっても良いのか。

 急にどしたのなんて言われてもな……最初に言ったのはお前だろう。

 ここ数週間の俺がバカバカしく思えてきて、また俺は笑う。今日は笑うことが多くて口が痛い。けれどなんだか、その痛みに覚えたのは嬉しさだった。


「海原」


 どぎまぎと落ち着かない彼女に声を掛け、聞こえていないようだけど俺は続ける。それくらいの方が気恥ずかしく無くて良い。


「ありがとな」


 やっぱり湧いてきた気恥ずかしさに逸らした目に映ったのは校庭。

 雨はもう、止んでいた。


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