「ミラ、しっかりしろ!」
どれくらいの時間気を失っていたのだろう。ミラが目を覚ました時、彼女の眼前にはジンの真剣な顔があって、不安げな表情を浮かべていたクロが今にも泣きそうな顔でミラに抱きついていた。
「ジン……、それに……クロ……。そっか私……」
上体を起しながら自分の手を見るミラ。彼女の手は元の人間の腕に変わっていてどこにも異常は無い。ジンとクロの二人も見た目には異常は無いようだった。
「どうやら無事みたいだな。ここで倒れているお前を見た時はゾッとしたぞ。呼んでも全く目を覚まさないからな」
「大袈裟ね。ちょっと魔力を使いすぎただけでしょ」
ジンの言葉に答えながら周囲を見る。しかし、ミラは周囲の光景に絶句する。それもその筈、彼女はどこともしれない廃墟にいたのだ。
「ここって……」
「どうやらこれが、本当のソーラム家らしい」
天井を見上げれば、青い空が見える程に崩れた屋敷。レンガ造りの壁は所々崩れており、苔や木の根が屋敷の中にまで浸食している。廃墟となったのは、昨日や今日の話では無さそうだった。
「昨日までは普通のお屋敷だったのに……」
「たぶん、幻覚を見せられていたんだろう。おそらくは屋敷の周囲を取り巻いていた霧を媒介にして、魔物が幻覚魔法を使っていたんだろうな。おかげで飯を随分食っていた筈なのに、全員腹ぺこだ」
ジンの言葉を証明するかのように、くぅ~っとお腹の音が鳴り響く。クロがちょっと悲しそうにお腹を撫でていた。
「幻覚だったって事は見れば分かるわ。でも……それじゃあ説明できないものもあるでしょ? シュタリットさんやダイアナさんは、あの屋敷に住んでいたんでしょう?」
意識を失う前の直前の光景がミラの脳裏によぎる。しかし返ってきた答えはミラの予想していない答えだった。
「シュタリットって……誰だ?」
訝しげな表情でミラに訊ねたのはジンだった。
「誰って……お屋敷の持ち主でしょ。シュタリット=ソーラムさん」
「いや……、そんな人はどこにもいない。それに、ダイアナさんの姿も見えない」
「そんなこと……ある筈……」
ジンの言葉にミラの背筋に悪寒が走る。だが、彼女の疑問は直後に解かれることになる。
「ジン、こっちにおかしなモノがあった!」
声を掛けられてミラが視線を向ければ、そこには傭兵兄妹の二人が立っていた。そして二人の傍らには、気弱そうな表情を浮かべたリックスも並んでいた。
「リックス君! あなた……」
「いや、今は大丈夫みたいだ。たぶん、誰よりも早くにリックスは操られていたんだろう。昨日までのことは殆ど覚えていないらしい」
ミラが警戒をしながら話を聞けば、どうやらリックスは屋敷に集まっていた誰よりも早くに屋敷に辿り着いていたらしい。しかし、屋敷に入る直前で出迎えてくれたメイドに見つめられて、意識を失ったと言うことだった。
「すみません。まさか僕が皆さんを陥れようとしていたなんて……」
とても信じられないと言った様子で語るリックス。
だが誰も彼の言葉を疑ってはいない。ジンやクロも、人形にされた誰もが人形状態でのことを覚えていなかったからだ。
「それよりも、あんたも見た方が良い。どうやら俺達はとんでもない経験をしていたらしい」
コクに促されてミラ達三人も屋敷の奥へと向かう。
やがて辿り着いたのは、かつては礼拝室として使われていたらしい部屋。壊れかけの懺悔室には、ミラも見覚えがある。
そして、その礼拝室跡の祭壇の前に、二つの白骨が並ぶように座っていたのだ。
「これって……」
「たぶん一つはダイアナさんなんだろうな」
ジンが断定できたのは、もう一人の白骨に抱かれるように座っていた白骨が、ボロボロのメイド服を着ていたからだ。
そしてもう一つの白骨はミラの見覚えのある、ドレスに近い貴族令嬢としての衣服を着ていた・
「これ……シュタリットさんだ……間違いない」
心臓がドクリと跳ねて、ミラが無意識のうちに胸に手を当てる。そこに至って、ミラは自分の胸元にペンダントが下げられていたことに気が付く。それはシュタリットが元々胸元に下げていたペンダントに間違いなかった。
「ミラ……それは?」
「シュタリットさんのモノだと思う……。でもどうして……」
ミラがペンダントに触れると、宝石のあしらわれたペンダントがカチッと音をたてて開く。ペンダントの中には、色褪せた一枚の写真が収められていて、そこにはダイアナとシュタリットが主従として、仲睦まじく並んでいた。
「……そうか。シュタリットさんは……もうとっくに……」
彼女に触れられた時のことを思い出す。
氷のように冷たい指先の感触、どこからともなく現れた彼女が姿を見せたのはミラと二人きりの時だけ。そしてその姿はおそらくミラにしか見えていなかったのだろう。
人形化を解くために食堂にミラが向かった時、「たった一人で」と口にしていたダイアナを思い返せば、彼女にもシュタリットの姿が見えていなかったのだと想像できた。
「なるほどな。つまりはその御嬢様は、どうしてもダイアナさんを救って欲しかったんじゃ無いか? ダイアナさんは魔物に操られていたんだろ?」
「そうね。だとしたらこれは……」
ミラの首にペンダントが下げられていたのは、もう亡くなっているシュタリットが唯一できたお礼だったのだろう。だが、ミラはこのペンダントを受け取る訳にはいかなかった。
「ジン、二人を埋葬しましょう」
ミラの指示の元、屋敷の跡地にクロが大穴を掘る。
二人を入れる棺は無かったが、二人をもう離れ離れにはしたくない。リックスやコクの協力の下に残っていた懺悔室の残骸を簡易的な棺にすると、その中に二人を横たえた。
「助けてくれてありがとう、シュタリットさん」
そしてミラは棺の中に二人の写真の入ったペンダントを入れて、彼女達の遺体は埋葬された。
………………。
埋葬から数時間後、霧の晴れた森の道を、屋敷に集まっていた人々はそれぞれに目的地へと向かって進み始める。
それはジン達三人も例外では無い。
「さて、それじゃあ先を急ぎましょうか」
ミラが疲れたと竜車の中に座り込み、ジンも再び黒竜となったクロに手綱を繋いで、屋敷の跡地を後にする。
「とりあえずは腹ごしらえだな。人形になっていた間は腹は減らなかったけど、丸二日程何も食べてないからな。どこかそのあたりで魔物でも出てこないか?」
「止してよ、縁起でも無い。もう魔物は懲り懲りよ」
竜車の上でジンの言葉に表情を引きつらせるミラ。とは言え、どうにも屋敷の料理を思い出すと、大して美味しくも無い携帯食を食べる気にもなれない。
「オ肉♪ オ肉ゥ~♪」
森の中に響くクロの調子のズレた鼻歌。それを耳にしながら、ミラはしばらくは屋敷も魔物も懲り懲りだと、深く溜息を吐いていたのだった。
だが一方でミラやジン、クロは残された悪意には気が付いていなかった。
「フォルン……。ミラ=フォルン……、アイツさえいなければ……」
漆黒の闇の中、傷ついた身体を引きずるように一匹の悪魔が這いずっていた。その悪魔は、ダイアナの心の闇に住みつき、彼女を意のままに操っていた悪魔だった。
そして今、その悪魔の敵意や害意は一人の貴族令嬢に向いている。ミラはまだそのことに気が付いていない。
悪魔は闇の中へ姿を消して、どこかへと消えていったのだった。