ジンが置手紙を残してキャトリンの下を去ったことは瞬く間に帝国軍や城の有力貴族へと伝わった。
「軍の機密を知っている軍の参謀が離れたことは、帝国の大きな損失だ」
「いや、そもそも軍を去ることは規律違反ではないのか?」
「すぐにでも連れ戻すべきだ。もしも他国に与すればどうなるか――」
灰色の軍師の離反に軍の内部は騒然となり、上層部ではジンに対して追跡班も組織される。しかし、軍としてはジンの離反を公にすることもできない。
灰色の軍師が帝国軍を離れたなどと言うことが公になれば、それが直接帝国軍の弱体化などと揶揄される。帝国に泥を塗ることになりかねないからだ。
「滑稽だろう。ジンの有用性を理解しておきながら、公にジンを追うこともできないというのは……」
ジンの残した置手紙を手にキャトリンが自嘲するように呟く。
その手紙を届けたアリシナもまた、現在の軍の状態には思うところがあるようだった。
「ジン君はどうなりますか? もしも捕まったりしたら……」
「通常の脱走兵に対する処罰は犯罪者のそれと変わりない。ましてジンは軍の機密についても知っている参謀だ。最悪の場合は死刑。もしも死刑を免れたとしても、暗殺の危険に晒されることになる」
キャトリンの言葉に奥歯を噛みしめるアリシナ。
相手は皇女であり、本来ならアリシナが何かを言える相手ではない。しかし彼女は何かを言わずにはいられなかった。
「そんなのってないでしょう! ジン君はそもそも、第三皇女様が連れて来たんですよね! ジン君はまだ成人もしていない子供で、その子供に軍の汚いところや、戦争の被害を見せつけて、ボロボロになるまで追い込んだんですよね? それで、ジン君が逃げたら今度は死刑って……、そんなのあんまりじゃないですか!」
アリシナの剣幕に僅かに驚いたような表情をするキャトリン。しかし、彼女の気持ちが伝わったのだろう。キャトリンは僅かに口元を緩めると、彼女に対して言った。
「そうだな。ジンは私が見つけた逸材だ。おそらくは帝国中を探してもジンよりも軍の行動について知っている者はそうはいないだろう」
「だったら、ジン君の保護をするのが先なんじゃないですか!」
「保護? お前はジンが帝国軍に捕まるとでも思っているのか?」
「……え?」
キャトリンの言葉に疑問符を浮かべるアリシナ。そんな彼女に対してキャトリンは面白そうに宣言した。
「これは確信だ。今の帝国にジンが捕まることなどありえない。ジンは誰よりも帝国軍について把握している。まして、ジンが離反したことを公もできない帝国軍が、ジンを捕まえられるはずもない。本気で捕まえたいのなら、恥も外聞もかなぐり捨てて、即刻国中に足取りを追わせるべきだった。それができなかった時点で、この盤面は詰んでいる」
「で、でも……ジン君はそれじゃあ何処に行くかもわからないことに……。もしも国を出たとしたら? 他国の軍に登用されたら?」
「それもありえない。ジンはもう軍隊や戦争というものに関わるつもりは無いのだろう。それはこの手紙が証明している」
アリシナに見せたのはジンがキャトリンにのみ残した手紙だ。
「ジンは軍を離れて、あの子竜と生きていくと書いている。ジンはおそらく、あの子竜を戦地に送るような真似はしないだろう。ならばジンの向かう地域は帝国領の南か東だ。未だに侵略戦争を続けている西や、億国と戦争状態にある北には絶対に向かわないだろう」
「そこまでわかっているなら、そちらに捜索を派遣すれば!」
「ジンを処刑台に送る為にか? それとも暗殺の危険に晒すためにか?」
「……っ」
キャトリンの言葉に絶句するアリシナ。そんな彼女に現実をつきつけるように、皇女は更に言葉を続けた。
「わかるか? 私にはジンを保護したとしても守るだけの力は無い。暗殺の危険が付きまとう政争の中にジンを引きずり込むような真似はできないししたくない。そして、私と同じようにジンはお前の助けも必要としていない。わかるだろう? ジンはあの子竜を選んだんだ」
もしもアリシナがもっと早くに彼に歩み寄っていれば……。彼が木津ついている時に、彼の傷に触れたとしても信頼に足る関係性を築いていれば、結果はまた違ったかもしれない。
だがジンが自分ではなくクロを選んだことは現実であり、キャトリンとは違って自分には手紙すら残されていない。
それこそがジンがアリシナの力を頼りにしていない証明だった。
「キャトリン様はこれからどうするのですか?」
「決まっているだろう。この帝国の頂点、皇帝の地位を手に入れる。現・皇帝である父はまだしばらくは皇帝の地位にあるだろう。そして現在、皇帝の地位にもっとも近いのは私だ。この私が皇帝になれば、もうジンを脅かす輩を心配する必要もない。私がジンを皇帝として守ればいい」
既に数年後を見据えているキャトリン。
彼女は皇帝の地位を確実にするまではジンの捜索に力を裂くことはしないだろう。それはある種の信頼だ。ジンは必ず帝国に捕まらずに逃げ続けることができると。
一方でアリシナはこれからについて考えることになる。
(私はどうすればジン君の力になれる? 次にジン君に会った時に、私にはいったい何が……)
その思考の中で彼女もまた軍の中での地位を確立することを選ぶ、
今のように補給部隊を任されるだけの立場に甘んじていれば、いざという時にジンの横に並ぶことはできないだろう。
アリシナは将来のことを意識し、ジンとの再会に向けて歩みを進めていくのだった。
………………。
何事もなく帝都を離れたジンはクロの引く竜車に乗って、帝国領の南へと向かっていた。
(本当なら父さんと母さんには顔を見せたかったけれど……)
生まれ育った故郷に寄ることはできない。ジンの暮らしていた村には既に帝国軍の追手が来ていることは明らかで、他にもジンの関わりのあった場所には帝国軍がそれぞれに人を派遣しているだろう」
それを考えると、安易に誰かに頼ることもできなかった。
「兄様、コレカラ何処ニ行クノ?」
「そうだなぁ。とりあえずはこのまま南の街に行こうと思う」
「南? ドウシテ?」
「南の侵攻は僕が軍に入った時には殆ど終わっていて、俺が関わった場所は殆どないし、他の地域よりはずっと落ち着いているはずだよ」
「ソウナンダァ。南ニ行ケバ、兄様ト一緒?」
「そうだね。でも、とりあえずは仕事を探そうかな……。軍で働いていた時のお金はほとんど使ってなかったからけっこう有るけど、働かないといつかはクロのご飯も買えなくなりそうだし……」
「ソレハ困ルカモ……。デモ、モウ戦争ハシナイヨネ?」
どこか不安そうなクロの声。
そんな彼女に「勿論だよ」と答えると、街道を走る竜車の先を見ながら、ジンはこれからどうしようかと考える。
(どこか一箇所に定住するような生活を続けていたら、いずれは帝国軍に見つかっちゃうかもしれないよなぁ……。そうなったら、またクロと離れ離れになるかもしれないし……。だったら、色んな所を旅するような仕事が一番なんだけど……)
もしも剣や魔法の心得があるのなら、冒険者などを目指すこともできただろう。しかし、生憎とジンに剣や魔法の才能は無い。それは自分自身が一番良く知っている。
クロが一緒に戦えば、大抵のモンスターなら簡単に倒すことがで着るかも知れ無いが、できるだけクロには危険な思いもさせたくない。
そんなことを考えていると、街道の向こうから一台の馬車がやって来る。どうやら行商人のようで、ジンとは逆に南から帝都へと、南の特産品を運んでいるらしい。
「あぁ、そっか。その手があったか……」
「ドウカシタノ?」
「うん、行商人なんていいかもなぁって」
「ギョウショウニン?」
「うん、クロの引いてくれる竜車で、色んな場所を旅しながら、色んな賞品を運ぶんだ。これから行く南には大きな海があるから、海でとれたお魚を買って、周りの街にまで運んで売ったりしたら、きっと生活ができるようになる」
「オ肉モ運ブ?」
「生肉は難しいかも知れ無いけど、燻製肉とか保存できるものなら大丈夫かも」
「フワァァ……♡」
お腹が減ってきたのかジュルリと涎を垂らす黒竜状態のクロ。そしてクロは嬉しそうに「兄様ト一緒ニギョウショウニン~♪」と調子外れの歌を歌い出す。
そんなクロの手綱を引きながら、ジンは竜車を走らせたのだった。