その悪意は霧深い森の中から逃げ延びていた。
持っていた力の殆どを使い切り、残っていた魔力で鼠や鳥などの小動物に寄生して、辛うじて命を繋ぎ止めていた。
(ミラ……、ミラ=フォルン……。あいつさえ……、あの女さえいなければ……)
悪意の脳裏によぎるのは金色の髪をした貴族令嬢。
あと少しで一人の女の妄執を利用して強大になれたものを、ミラによって全てを奪われてしまっていた。
それでも悪意が西に突き進むことが出来たのは、偏にミラへの復讐を考えていたからだろう。自分から全てを奪ったミラを、ただ殺すだけでは満足できない。
ミラからも全てを奪い、貶め、その上で自らの眷属の列に並べる事だけを考えて、悪意は彼女の後を追うように西へ西へと流れていた。
だが、それももう終わりだろう。
辛うじて小動物に寄生をしていたものの、命を繋ぎ止めるだけの力は徐々に失われている。このまま存在を続けることには、いずれ限界が来ることはわかっていた。
(ミラ=フォルン……、ミラ……、ミラ……)
彼女の名前を繰り返しながら、一匹の鼠がある街に辿り着く。
街は大勢の人間で賑わっていたが、鼠に纏わり付いた悪意は生きている人間に宿ることは到底できない。せめて死体があれば、それも怨念に塗れた亡者がいれば……。
そう思いながら悪意は地下水路を進んでいく。しかし、ついに全ての力を使い果たして鼠はその場で倒れてしまう。そんな時だ、一組の白骨死体を見つけたのは。
その白骨は随分と古いものだった。
着ている衣服は既にボロボロだが豪奢なもので、肩から腹に掛けて切り裂かれたように大きく裂け、布地には黒く変色した血がこびりついたような跡が残っている。
その白骨は誰かに切られたのだろう。
傷を負い、街を南北に縦断する運河に落ち、辛うじて地下水路の入り口を見つけて這い上がったのだ。だが、その男にはもう地上に戻るだけの余裕も無く、地下水路で惨めな最期を遂げた。
一人の女、自らの腹違いの妹への憎しみを抱きながら。
(コイツしかいない……。もう一度……コイツの怨念を使って……)
悪意は既に事切れている鼠から離れると、白骨死体へと宿っていく。悪意は死体に宿っていた怨念と混ざり合い、徐々に一つに溶け合う。
「ミラ=フォルン……、キャトリン……、すべて灰色の軍師……。アイツの関係者だ……。アイツさえ……あの男さえいなければ……」
その死体に宿っていた魂と悪意は混ざり合い、共通した有る男のことを思い出す。
地下水路の中、白骨を中心に漆黒の闇が広がると、生前に彼が有していた王族としての魔力と混ざり合っていく。その魔力を利用して、白骨を媒介に、徐々に肉体が再生していく。
血肉が産まれ、白骨の周囲に浮かび上がれば、彼の肉体が再生していく。傷痕すら残さずに再生された肉体。青白い肌に金色の髪。そして妹と同じ緋色の瞳で、彼は歓喜の咆哮を上げた。
「生き返った……、生き返ったぞ! キャトリン! 復讐だ……、復讐してやる! 俺から命を奪ったお前の何もかもを今度は俺が奪い取る! 灰色の軍師も、灰色の軍師と行動を供にする者も、ミラ=フォルンも、全ては俺の敵だ! そしてキャトリン、お前を殺して……俺は帝国の頂点へと返り咲く! ヘルテラ帝国は全て俺のものだ!」
地下水路に響く哄笑。
蘇ったのはかつての帝国第一皇子だったギシア=ヘルテラ。彼は冷たい笑みを浮かべながら地下水路を歩くと、やがて彼が見つけたのは、この街の暗部。
貧困に喘ぎ、住む家を無くし、この地下水路で雨風を凌いで生活をしていた数人の人々だった。
人々はボロボロだが豪奢な身なりの衣服を着た彼をジロリと睨む。彼の身なりから、彼は貴族か元貴族だとでも思ったのだろう。だが、彼等は蘇ったギシアに近付くべきでは無かった。
「丁度良い……。何人か手駒が欲しいと思っていた所だ」
ギシアは酷薄な笑みを浮かべると、その手を横に払う。瞬間、地下水路に響き渡ったのは男達の悲鳴。見れば、ギシアの使った風魔法によって男達の身体が切り裂かれ、地下水路に血飛沫が上がる。
「ははっ! 汚い悲鳴だ!」
ギシアは更に二度、三度と風魔法を使えば、抵抗をできない男達はその場に倒れ伏し、水路が赤く染まっていく。
そしてギシアは倒れ伏している男達に手を伸ばすと、自らに宿っていた影の一部を男達へと伸ばしていく。
「ぁっ……あぁぁぁっ……」
影は死んだ男達の亡骸に宿ると、その死体の身体を起き上がらせる。男達の身体は裂け、血に濡れた状態でギシアの命令によって進み始める。
地下水路で起こった惨劇はその被害を徐々に拡大させていたく。亡者となった男達が骸兵となって、地下水路で生活をしている人々を襲い、新たな骸兵となって人々を襲っていく。
次々と増えていくギシアの手足となる骸兵。最初は数人だった骸兵は徐々にその人数を増やしてく。ゆっくりと長い時間をかけて死の軍団は水路を満たすと、今度は地上を目指して進軍を始める。
骸兵を引き連れたギシアは手始めにこの街を落とすことを考える。幸い、この街に既に灰色の軍師と、彼を連れた貴族令嬢はいるらしい。
「まずは二人をこの俺の奴隷に落としてやろう」
屍となった二人を骸兵の一員として並べる事を想像しながら、ギシアは水路から骸兵を向かわせる。街を両断する大河の中州、その地に人々の悲鳴が響き始めるまで、そう時間は掛からなかった。