帝国領西部・交易の中心都市となるコロシオの街――、街を西と東に両断する運河近くに建てられた、一軒の高級宿の一室の中、ジンはいたたまれなさと気まずさを感じ、苦虫を噛みつぶしたかのような顔をしていた。
「どうした、ジン? そんなところで立ち尽くしていないで、自分の部屋だと思って楽にすれば良い」
そんな彼の目の前には銀色の腰まで届く長い髪を結い上げた帝国第三皇女・キャトリン=ヘルテラが豪奢なソファーに腰かけ、深い真紅の瞳でジンを見つめていた。
白磁のような白い肌に成熟した女性としての丸みを帯びた身体つき。彼女が着ている衣装こそ平民のそれだが、彼女の凜とした佇まいは、そこにいるだけで存在感を際立たせる。
帝国の皇位継承権・第一位となった皇女としてのカリスマを彼女は充分に持っていた。
一方で、そんな皇女に全く引くつもりも無いのは、テーブルを挟んでキャトリンの向かいに腰かけている、帝国東の街・フォルン領の領主代理を務める令嬢であるミラ=フォルンだ。
年齢こそとっくに成人を迎えているものの、やはりキャトリンに比べれば大人の女性とは言えない。どこか幼さを残した顔立ちに、発展途上とも言える身体つき。
しかしキャトリンの存在感に呑まれまいとする彼女は、金色の髪を無造作に流しながら、深い蒼の瞳で目の前に座るキャトリンと相対していた。
(どうしてこうなった?)
ジンが若干の胃痛を覚えたのも無理も無いだろう。
ソファーを挟んで座っている二人を前に、ジンとしては今すぐにでもこの部屋を出て行きたいと感じている。
ジンと一緒に行動をしている黒竜のクロこそ、状況がよくわからずにキョトンとしているが、ここ最近になってジンと一緒に行動をしていたアリシナもこの状況に気まずさを感じているのだろう。
平静を装ってこそいるが、その端整な顔立ちに引きつったような笑みを浮かべていた。
「ジン君、それじゃあ後は皇女様とミラさんにお願いして、私は退室するわね」
「待ってくれ」
アリシナが一言を残して退室しようとする。しかし、ジンは殆ど条件反射的に彼女の手を掴んでいた。
「俺を一人にしないでくれ」
「……っ、もう。そう言うことはもっと違う時に言って欲しいんだけど?」
ジンの言葉に僅かに頬を染めるアリシナ。
一方でその様子を見ていたミラの表情が険しくなり、キャトリンは笑みこそ浮かべているが「ジン」と彼の名前を呼んでいた。
「座るんだ、ジン」
再度着席を促されて、ジンは仕方なくミラの隣に腰かけようとする。その瞬間にキャトリンの眉がピクリと動き、ミラの口元が僅かに緩んだことをアリシナは見逃していない。
そして同時にクロはちゃっかりとジンのすぐ傍に寄ってきていた。
「それで? 帝国の皇女様がうちのジンに何か御用でしょうか? 生憎と私達は行商の旅の途中ですので、何かご用命があったとしても、応えられる状況にはありませんが」
皇女を前にミラがいつものように憮然とした表情で淡々と語る。しかし、キャトリンはそんなミラに対して愉快そうな笑みを浮かべていた。
「なるほどな。ジン、彼女が今のお前の雇用主という訳だ。行商の旅と言うことは、本当に行商人として生活をしているのか?」
「……まぁ、そうなりますね。ここ最近はトラブルが多くて、行商人らしい生活とは無縁ですが」
「そしてその隣にいるのが、あの時の子竜か。いやいや、どうやら8年程度ではそれ程変わりが無いようだ。ジンにはやはり、気の強い女性に惹かれるところがあるらしい」
その言葉にミラの表情が若干強ばる。
チラリとジンがアリシナの方に目を向ければ、彼女は呆れたようにため息を吐いていた。
「ミラ=フォルンと言ったな。と言うことは帝国領東・荒野の貴族家だったと思うが?」
「はい、その通りです」
「ジンに同行をしているようだが、貴族令嬢に行商が務まるのか?」
「皇女様の気にするところではありません。それに、私は幼少の頃より領主代行としてジンよりも余程、商人としての経験を積んでいます」
「……ほぅ。今回の行商の積み荷は?」
「フォルン家として依頼したのは炎の魔石の交易。他には旅程の中で手に入れたヒヒイロモスの絹糸などを扱っています」
淡々とキャトリンと言葉を交わすミラ。
会話をしながらキャトリンに主導権を渡すまいとしているのがジンにも理解できる。だが――、
「ふむ、ならば交易の旅はここで終いだな。積み荷に好きな値段をつけるがいい。帝国領が第三皇女として、積み荷を言い値で買い取ろう。そうなれば、ジンの手も空くのだろう?」
「なっ……」
キャトリンの暴力的なまでの一言で、あっさりと主導権はキャトリンに渡る。ミラは皇女の一言に目を見開き、しかし努めて平静を装った。
「そのようなことを言って良いのですか? 私の言った値段で買うと言うことは、大きな損をする事になるかもしれませんよ?」
「ああ、その可能性もあるな。だが問題は無いだろう。君のような手合いは、こと商売においては公平や公正といった面を大事にする。確かに法外な値段をつけられる可能性もあるだろうが、そんな小悪党であれば、私にとっては寧ろ与しやすいし、ジンもいずれ離れるだろう」
まるで見透かしたようなキャトリンの言葉に唇を結ぶミラ。
彼女自身はこれまでも商人として多くの経験を積んできたのだろうが、政争の中で生きてきたキャトリンに比べれば、くぐり抜けてきた修羅場の数が違っていた。
「ようやくこれで本題に入れるな。さてと、ジン……。私としての要求はただ一つ。お前が帝国に戻ってくることだ。もう一度私の元に戻って来い」
もうミラには興味が無いというように、ジンに手を差し伸べるキャトリン。しかし、そんな彼女とジンの間に立ったのは、無邪気な笑みを浮かべたクロだった。
「駄目だよ。兄様はクロと一緒にいるんだもん。軍はもうやめたの」
キャトリンと同じ、紅く燃える瞳でクロはハッキリと皇女の求めに応えられないと断わっていた。