キャトリンが滞在する高級宿から出たジンとクロの2人はコロシオの街を歩き、今日の宿を探していた。街に到着して早々にキャトリンと遭遇することになり、今日の宿を見つけることができないでいた。
もっとも、ジンがキャトリンにでも頼めば高級宿の一室を用意してくれる可能性は高い。だが、ジンとしては今の状況で彼女に頼ることは躊躇われたからだ。
(ミラのことも心配だが、ほとぼりが冷めた頃にでも迎えに行けば良いだろう……)
そんな風に考えながら数軒の宿を訪ねるが、宿探しは難航していた。
キャトリンから聞いていた第2皇女の式典はジンが思っていたよりも、この西の街では大々的なイベントらしい。
おかげで主立った宿の大半は既に満室になっていて、部屋を借りることも難しそうだった。
「どうしよっか?」
5件以上の宿を回っても、未だ部屋が見つけられ無い状況にクロが訪ねると、ジンも腕を組んで黙考する。どうしてもキャトリンを頼りたくなければ、最終的には竜車の中で一夜を明かすこともできなくは無いが、せっかく街に来ているのに宿に泊まることもできないのは避けたいところだ。
一方で宿が見つからないことにクロは少しばかり喜んでいた。
ジンの性格上、おそらくキャトリンには頼らないだろう。そうなればきっと今夜も竜車とテントに別れて一夜を過ごすことになる。そうなれば宿に滞在するよりもずっと、ジンの寝床に潜り込むことが容易になると考えられたからだった。
時刻は既に夕方、大半の商人はもう今夜の宿を決めているだろう。出遅れたこともあって、このまま宿が見つからないと諦め始めたその時だった――、
「ん……? 何か騒がしいな」
何やら大きな声が聞こえてジンが足を止める。
そこはコロシオに流れる運河の近くの商店。運河の中州へと続く橋の近くに建てられた商店の一つだった。
「何か喧嘩してるみたい」
「喧嘩?」
商店の前にいる2人の男性。1人は店の店主だろうが、その店主の前にボロ布のような服を着た1人の男性が立っている。そして、その男が商店の店主に殴りつけられている最中だった。
「一体何の騒ぎだ?」
「あぁ、なんか店の商品を勝手に食ったらしい。それで店主が金を払えって言ったら、訳のわからないことを良いながら殴りかかってきたとかで……」
商店の周囲に集まっている野次馬の1人に訳を尋ねてみると返ってきたのはそんな言葉。どうやら店主に殴られいるのは、この街の地下水道で生活をしている浮浪者らしい。
ボロボロの服を着ている彼は既に足取りも覚束なく、店主が渾身の右ストレートで顔面を殴りつけると、受け身をとることも無くその場で倒れ込んでしまう。
「おいおい……、大丈夫か? 凄い音がしたけど……」
「仕方ねぇだろ。おい、それよりも手伝ってくれ。このコソ泥をふん縛って自警団に突き出してやる。ったく……、街が賑わっているから商売のチャンスだって言うのに面倒な」
殴り倒された男を見ながら毒づく店主。
その様子に周囲の男性達が店主の用意した縄を男に巻き付けていく。しかし、ジンの目にはその男が明らかに異常に見えた。
虚ろで焦点の合っていない目に半開きの口。口の端から涎が垂れており、顔面は蒼白。所々顔が腫れているのは店主が殴った所為だろう。だが、特にジンの目を引いたのは彼の身に着けているんボロ布のような服の隙間から見える彼の肌だ。
青白い彼の肌には幾つもの傷がついており、よく見れば服には血が染みこんでいるようだった。
「この傷はあんたが?」
「いや、コイツがここに来た時には既に怪我をしていたみたいだ。だが、あんだけ動けるなら傷の程度は大したことはないんだろ。くそっ……、あの男……俺の手にまで噛みつきやがって……」
店主が噛まれたらしい腕の傷をジンに見せる。店主の腕には確かに男が噛みついたらしい歯形が残っている。そして、その傷を見たクロが目を見開いた。
「クロ?」
クロの変化をジンは見逃さない。そしてクロは何かに怯えるようにその場の人々から距離をとっていた。
「兄様……、その人に近付いちゃ駄目!」
「え……?」
強ばるクロの表情。同時にクロが何かに気が付いたように手を伸ばすと、ジンの腕を引っ張る。瞬間、今までジンがいた場所に、拘束されていた男が強かに身体をうって倒れていた。
「コイツ、まだ動けたのか! おい、大人しくしろ!」
見れば拘束された男は両腕を縛られながら、歯を剥き出しにしている。彼はジンに向かって噛みつこうとしていたらしい。
「兄様……下がって……」
その上、クロがジンを背に庇うように彼等との間に立つ。だが、何よりもジンが驚いたのは、ボロボロの男の口にした言葉だった。
「見つけた……ぞ。灰色の……軍師……、ジン……。見つけたぞ」
「……っ!」
ジンにその男に見覚えは無い。だが、男は敵意と害意を宿した瞳でハッキリとジンを見ながら口にする。そのボロボロの男が、ジンが八年前でコロシオで彼に敵意の視線を向けていた人々と重なる。
「ち、ちがっ……、俺……、俺は……」
その言葉に動揺して後ずさるジン。
脳裏によぎるかつての日の記憶。恐怖と怯えの感覚が蘇り、その場の足下が崩れるかのような錯覚を覚える。
「兄様、大丈夫! クロがいるから」
もしもクロがいなければジンはその場で動けなくなってしまっていただろう。だが彼を庇うように立っていたクロのおかげで、ジンは辛うじて冷静さを保つ事が出来ていた。
「フォルンは……キャトリンはどこだ!」
ボロ布を着た男がジンに向かって叫ぶ。
その言葉はその場に集まっていた商人達にはわからないだろう。だが、商人達は次なる困難に直面する事になる。
「お、おい……あれは何だ?」
その場の野次馬の1人が中州へと続く橋を指さす。すると、橋の上には更に数人の男女いる。そして、その人々は一様に服や口周りを血に汚して虚ろな瞳でこちらへと向かってきていたのだった。