目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第5話:侵食の始まり

 ジンとクロの二人は中州へと続く連絡橋で選択を迫られていた。


 明らかに正気では無い何人もの人々。虚ろな目で身体を血に染めながら橋を渡ってくる様子に見えるのは明らかな狂気。そして彼等は一様にジンを目指しているようにすら見える。


「兄様、ここに居ちゃダメだよ! 逃げよう!」


 そしてクロはおそらくはジンに見えない何かを見ている。人々を見てクロはいつにない様子で、ジンをこの場から遠ざけようとしていた。


「駄目だ! ここは引く訳にはいかない!」


 だがジンはこの連絡橋が落ちれば、どうなるのかわかっていた。おそらくは正気を失った人々は目の前にいるだけでは無いのかもしれない。


 中州を挟んで反対側の街にも、この連絡橋以上の人々が集まっている可能性もある。もしもその人々がこの連絡橋に殺到すれば、コロシオの街が血に染まるのは時間の問題だろう。


 それならば何としても、ここで人々の進軍を阻む必要があった。


「クロ、その辺の地面を掘り返して、連絡橋に壁を作れ! 連絡橋を壊すことは無理でも、壁を作るならできるはずだ」

「う、うん、わかった!」


 ジンの指示にクロが腕を竜の腕へと変化させる。そして彼女が地面に向かって爪を振り下ろそうとする。しかし、そんな彼女に向かって、それまで腕の傷を気にしていた店の店主が、不意を突くように襲い掛った。


「なっ……!」


 その男の動きに阻まれて、クロは咄嗟に腕を振るって店主の男の攻撃を捌く。幸いにも腕を竜化させていたクロに傷は無い。だが、クロの防御に刎ね跳ばされた店主は強かに地面に壁を打ちつけ、その傷みに叫び声を上げていた。


「あああぁぁぁぁぁっ!」


 店主の悲鳴にクロが怯み、ジンも動揺する。しかしそれも束の間、ジンはこの状況がどれだけ最悪なのかを自覚した。


「あっ……あぁぁぁっ……、なんで俺の身体……勝手に……!」


 痛みに叫び声を響かせていた店主。しかし、その身体が何かに操られるかのように起き上がると、フラフラと傷ついた身体でクロとジンに向かってくる。


 そして店主はどうして自分の身体が勝手に動いているのかを理解できていないようだった。


「あっ……あれ……、やっぱり……」


 クロが店主に対して怯えるように後ずさる。ここに至ってジンはようやく店主が何かに操られている可能性を考えた。


「クロ……、あの店主に何か見えるのか?」

「う、うん……。あの店主さん、傷の周りに黒い靄みたいなのが見える。さっきまでその靄は傷の周りだけだったのに、今はその靄が店主さんの全身に広がって……」

「……っ」


 おそらくはクロには見える、その靄を使って店主は操られているのだろう。それはつまり、今目の前にいる人々も操られているということに他ならない。


「店主以外の人に靄は見えるか?」

「ううん、見えないよ。クロの身体にもついてない」

「なら、操られる条件は傷か……」


 クロの言葉に身体を操られる条件を推測する。だが、向かってくる何人もの人々に対して、無傷で、それも相手を必要以上に傷つけずに無力化するなど、どうやってもできそうに無い。


「兄様、どうしよう。店主さんがいたら、橋に壁を作るのは……」

「い、いや……。なんとかするんだ。ここで俺達が食い止めないと、こっち側にもクロの言う靄が広がるのは時間の問題だ!」


 クロにしか見えない靄。その靄が人々に伝播し始めれば、靄に掛かっていない人々は敵が誰なのか判別する方法すら無い。


 そんな状況になれば、今度は正気の人同士で猜疑心や恐怖から争いなどが起こる可能性すらある。そうなれば、この街にいるミラやキャトリンすら危険にさらすことになってしまう。


「俺が時間を稼ぐから、橋をなんとか塞いでくれ」

「で、でも、兄様……」

「頼んだぞ、クロ」


 言いながらジンは懐から杖を取り出す。そして彼が魔法を使えば、土塊が礫となって、操られている店主に命中する。


 ジンの使う魔法は人の命の奪う程強力な物ではない。だが無防備な身体に命中すれば、無傷で済む程に易い物でもない。


 真穂の命中した店主の絶叫が周囲に響き、ジンは自分の使った魔法で人を傷つけてしまったことに表情を青ざめさせる。だが、結果として店主は連絡橋の方へと追いやられ、クロと人々の間に幾らかの距離が生まれる。


「クロ、頼む……やってくれ!」

「う、うん!」


 ジンの指示でクロが街の地面に穴を掘り、連絡橋から街へと入れないように土の山を作っていく。その壁によって一先ず時間稼ぎができるはずだった。だが――、


「開けてくれ! この土を……、土をどけてくれ!」


 クロの築いた土の壁の向こうから聞こえてきたのは、連絡橋へと追いやられた店主の悲鳴にも似た叫び声。やがてその声も聞こえなくなれば、壁の向こうで何が起こったのかをジンは想像してしまう。


 全身を拘束されていても、相手を傷つける為に歯を剥き出しにして噛みついていた男の存在を思い出し、そして連絡橋の正気を失った人々が、口の周りを血に染めていた理由を想像する。


 その最悪の想像に、ジンは吐き気にも似た気持ち悪さと、自分が店主をその状況へと追いやってしまったという後悔を抱えてしまったのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?