波も殆ど無い夜の運河を渡り、ジンとクロの二人はコロシオ東部へと到着していた。しかし、二人は影の中を移動し人目につかないようにしている。
それは偏に、街の中の状況が想像以上に悪かったことが原因だった。
物陰に隠れたジンの視線の先には徘徊する人々。しかし、その誰もが既に意識も無いようだ。
生気の無い虚ろな瞳で歩き続ける人々は、中州へと続く連絡橋を中心に出ているようで、どこに向かうでも無く生き残っている人々を探すように歩き続けているようだった。
「兄様、あの人達ってもう完全に……」
「あぁ……。たぶんな……」
首から血を流している男性もいれば、全身に噛み痕を残している人もいる。中には魔法や武器で攻撃をされている人もいるが、まるで痛みなど感じていないかのように徘徊をしていた。
極みつけの悪いニュースはその徘徊する人々の中に街を守る為の衛兵の姿があったことだろう。また、おそらくは東部に滞在中の第二皇女が連れて着たであろう帝国軍兵士の姿までもがある。
東部の街は既に手遅れのようだった。
「どうするの? これでも皇女様を探すの?」
「できれば引き返したいが……、アレを見るとな……」
街の中には人がいないと思ったのか、何人かの骸の人々が運河に向かって歩き始めている。呼吸の必要も無いのか、彼等は頭まで水の中に浸かると、そのまま前進を続けているようだった。
「連絡橋を塞いでおいて良かったけど、アイツらが運河を渡りきるのも時間の問題だ。俺達も残っている人達を探しながら、まずは第二皇女様の安否を確認しよう。安否が確認できなければ、帝国軍が来たとしても、皇女様の無事が確認できなければ大々的な攻撃はできないだろう」
「帝国軍が来るの?」
「ああ、多分な。というか、あの連絡橋の状況を見て、キャトリン様が何もしないとは思わない。中隊どころか大隊を引き連れて、街に向かっての遠距離砲撃での殲滅がたぶん最善手だ」
現在の状況から逆算してキャトリンのとるであろう方法を推測するジン。
それならば彼にできる役割は、要人の保護が優先だった。
「兄様がそう言うなら……。クロはどうすれば良い?」
「俺から離れないでくれ。俺に戦闘力は無いからな。クロだけが頼りになるかもしれない」
基本的にクロに戦闘をさせないジン。しかし、ジンは今の状況でそんな事を言っていられないことも理解している。その上でジンが頼ると言えば、クロに彼の言葉を断わるという選択肢は無い。
「任せてよ、兄様♪」
にぱっと笑みを浮かべてみせるクロ。
そしてクロもまた、ジンの手が小刻みに震えているのがわかっていた。
「さぁ……、行こうか」
闇夜の中、フードを目深に被ってジンとクロが走り出す。その足音に気付いた骸が何体か二人の後を追うように付いて来たが、どうやら走ったりはできないらしい。
ノロノロと二人の向かった方向へと足を進めていた。
(これならなんとか街の中を様子を見て回れるか……)
ジンが骸達の様子を見ながら思考を巡らせる。二人が向かうのは、第二皇女が滞在しているという大聖堂。程なくして二人は大聖堂へと辿り着くが、そこからは先は手詰まりだった。
「どうやら、ここがアイツらの狙いだったらしい……」
物陰から大聖堂へと続く道の様子を見れば、そこには夥しい数の骸が群がっている。その数は連絡橋で見た人々の比では無かった。
「これじゃあ第二皇女様はもう……」
「いや、そうでも無いらしい」
大聖堂の周りの状況にクロが表情を曇らせる。だがジンは彼等が聖堂の周囲に群がっているだけで、中に入れていない事を見ていた。
「多分だけど、あの聖堂には結界が張ってあるんだろう。城なんかにも魔物除けの結界が張ってあることが多いけど、今この状況ならあの聖堂が一番安全かもな。もっとも……中にいる人は生きた心地がしないだろうが……」
言いながらジンが二階に見える窓を見る。
窓ガラスが一枚割れている以外、それ以上の何かは無い。どうやら窓に近付くこともしていない様子。この状況なら、それは聖堂の中にいる人々にとっては最適解だった。
「クロ、何処か建物の上に昇りたい。屋根でも何処でも良いんだが、あの教会の窓にできる限り近づけてくれ」
「うん、わかった!」
ジンの指示にクロはマントを靡かせると黒竜の姿へと変化する。クロの変化に聖堂の周囲にいた骸達が反応するが、クロはそれよりも早くにジンを背に乗せると、一息で建物の上へと跳躍した。
「コレデイイ?」
「上出来だよ!」
言いながらジンは周囲の屋根板を引き剥がすと、マントの布地を裂いて巻き付ける。布地に描いたのは『無事を確認したい』という簡素な文言。
そしてジンがその屋根板を破れた教会の窓に向かって投げ入れると、程なくして顔を覗かせたのは、おそらくは第二皇女の近衛兵。
彼等は屋根の上に乗ったジンとクロの二人を見て、目を丸くしていた。
「第二皇女様は無事ですか?」
屋根の上から彼等に向かって呼びかける。ややあって彼等の一人が無事だと返事をすると、まだ割れていない窓ガラスから、一人の女性が顔を見せる。
それはまさしくキャトリンの姉であるフローライト=ヘルテラだった。
(まだ運は残っているみたいだ。何回かに分けてあの人達を屋根の上につれて上がれば……)
思案を巡らせながらジンは屋根伝いに彼等を救出する算段をたてようとする。しかしその時だった――、
「愚かな妹だったが、生かしておいて良かった。こうして灰色の軍師を誘き寄せる役にはたったんだからな……」
不意に聞こえた言葉。
その言葉にジンは心臓を掴まれたかのような恐怖を思い出す。
(そんな筈は無い……。まさか……まさか……)
ジンはゆっくりと声の主に振り替える。そして彼が目にしたのは、豪奢な衣服に身を包み、金色の髪を夜風に靡かせた青年の姿。
「久しぶりだよなぁ、灰色の軍師……、いや……ジン=アースだったか?」
それは紛れもない、今は亡き帝国第一皇子・ギシア=ヘルテラだった。
「まずは挨拶代わりだ」
彼は一言そう告げるとその手を一閃させる。
その手によって放たれた風の刃が、ジンに向かって襲い掛る。かすり傷でも負えば、身体の自由を奪われる風の刃が……。