ギシア=ヘルテラが産まれた時、この世界は自分の為に用意された世界だと錯覚する程に整えられていた。
皇帝と正妃との間に産まれた第一子であり、大臣や城に住んでいる貴族達は誰もがギシアがいずれ帝位を継ぐと考えられた存在。
帝位をいずれ次ぐ者として厳しい教育を与えられていたが、ギシアもまたそれを当然と思い、皇子として相応しい者であろうと努力もしていた。
何不自由なく恵まれた生活。ギシアに向けられる期待の眼差し。それは彼の妹として第1皇女や第2皇女が産まれてからも変わることは無かった。
(妹たちも含めて、いずれ俺が帝国を纏め上げ、更に発展をさせてやる)
胸に野心を抱き、長兄たらんとした時期もあった。
だがそんな彼に転機が訪れたのは、彼がまもなく15歳となり成人を迎えた年のこと。妹である第1皇女が暗殺された事がきっかけだった。
「何故だ! 何故、妹が……」
皇女として産まれた彼女の死に、ギシアが取り乱す。
しかし、そんな彼の取り巻きであった有力貴族は、成人を迎えたばかりの彼に囁いたのだ。
「第1皇女様は優秀すぎました。このまま成長すれば、いずれはギシア様の基盤を揺るがす事になるかもしれない。帝国の安定の為にも、あの方には鬼籍に入っていただく方が良かった」と――。
ここに至ってギシアは初めて、この世界の全てが自分にとって都合のいいものでは無かったのだと理解した。彼が自分の為に用意されたと思っていたものは、彼の取り巻き達が作り上げた物でしか無く、ギシアはその取り巻き達に担がれているだけの存在だと自覚したのだ。
皇子として教養を身に付けていたことも、彼の努力も何の意味も持たないことだと彼は絶望を知ってしまったのだ。
「他の皇女も殺すのか?」
絶望を知った彼は取り巻きの一人に問いかける。しかし、そんな彼に取り巻きの貴族は笑みさえ浮かべて答えた。
「いえいえ、その必要は無いでしょう。第2皇女様は第1皇女様程の才覚はありませんし、第3皇女様に至っては兄妹の中では誰よりも劣っていると評されております。それぞれに後ろ盾となる貴族はいますが、ギシア様の基盤を揺るがす程ではありません」
「……そうか」
取り巻きの貴族の言葉に頷きを返すと、その貴族はニヤリと口の端を歪めて嗤う。その顔がギシアには酷く醜悪に見えたが、ギシアには彼を振り払うこともできない。
その男のおかげで、今の彼が何不自由のない生活を過ごせているのもわかる程度には、彼も成長していたからだ。
城の自室に戻ってギシアは鏡に映った自分を見る。第一皇子としての豪奢な衣服を身に纏い、いずれは皇帝としての地位を手に入れると期待されている彼。
気が付けば自分の身体には幾つもの糸が絡みついているように見える。
(いや……、今更それが何だというのだ……。全ては俺が皇帝になる為……。いずれこの帝国を更に発展させるため……)
例え自分が有力貴族達の言いなりのお飾りだとしても、そこに彼の意志が反映されない訳ではない。
彼の立場を脅かしさえしなければ、皇位継承権を持つ妹達を害する必要も無い。そう考えていた。考えていたのに……。
「ギシア様、懸念材料が現われました」
「懸念材料? それは何だ?」
「第3皇女様が最近になって、急激に勢力を伸ばしているのです」
彼の取り巻きの有力貴族が言うには、第3皇女のキャトリンは、その才覚を急激に発展させて、何人かの実力を持つ有力貴族を後ろ盾として、各地の紛争などを抑え込んでいるとのことだった。
首都から東の荒野の平定、南への交易の整備、西への更なる領土拡大とキャトリンの勢いは留まることを知らない。そして、旧第1皇女の後ろ盾となっていた貴族達も、次期皇帝にキャトリンを推すために付き始めたのだ。
「今のうちに出る杭は打った方がいいでしょう? 勢力の拡大をこれ以上許せば、いずれはギシア様を害する存在になるかもしれません。処置は私共にお任せいただけますか?」
「……わかった」
彼が頷きを返せば、有力貴族の男がニヤリと笑う。
キャトリンを失うことは惜しいとは思うが、それまでにも彼が踏みにじってきた、斬り捨ててきた犠牲を思えば、第3皇女の存在はそんな犠牲の中の一人にしか過ぎない。
気が付けば鏡の中のギシアも醜悪な笑みを浮かべるようになっていた。だが、やはり世界は彼の為だけに作られていた訳では無い。
ギシアがキャトリンの暗殺を任せた有力貴族が、皇族に対する謀反を企てたとして処罰をされたのは数日後の事。全てを見透かされて、ギシアの後ろ盾の一人が殺されたのだ。
それからもギシアの周りでは、まるで彼の勢力を削ぐかのように何人もの貴族が失脚していった。その大半はキャトリンを害しようとした者や、汚職に手を出していた貴族達だった。
ギシアを担いでいた彼等が徐々に減り始めれば、聞こえてくるのはキャトリンをいずれ次期皇帝にと推す貴族達の声。
「キャトリン様のところには軍学校を出たばかりの軍師がいるらしい」
「あぁ、灰色の軍師だっけ? 戦場に立てば負け無しだって聞いたぞ」
「何でもキャトリン様が見いだした人材らしい」
更に彼の基盤を揺るがしたのは、帝国内で大きな力を持つ帝国軍の中にまでキャトリン陣営の人材が現われたと言うこと。
その軍師の存在によって、通常ならば数ヶ月は掛かる戦争が早期のうちに収束し、更にキャトリンの歩みを加速させ始めたのだ。
そして遂にある日、次期皇帝を決める為の西方の貿易の要・コロシオへの遠征が決定される。灰色の軍師・ジンを要するキャトリンと第1皇子である自分のどちらが帝位を継ぐに相応しいか、その場で決まるとされていた。
彼の耳元で、また有力貴族の一人が囁く。灰色の軍師は未だ戦場の厳しさを知りません……、と。
そして彼は幼い軍師を害するための策を弄し、キャトリンの逆鱗に触れることになって切り伏せられる。そして絶命した時に彼は思ったのだ。
あぁ、結局俺はお飾りの人形でしか無かったのだと。
冷たい水の中で血を流しながら藻掻く中、彼の周りには誰一人としてついていなかった。