「ええーっ! あさってのパン作りは私一人だけですか!?」
お昼頃。ストーンヘイヴンの街に暮らす人々の食を支えるパン屋の厨房にて、マリーが素っ頓狂な声を上げて驚いていた。その正面では、店長の男性が一通の手紙を片手に申し訳なさそうに苦笑いを浮かべている。
「いやぁ、実は明後日、王都パン職人会議に呼ばれていたのをすっかり失念してしまってね。これまでは店を閉めたくなかったから断っていたんだけど、今年はマリーちゃんがいるからOKを出したんだ……」
「だったらもっと早く言ってくださいよー! 心の準備ってものがー!」
「本当に申し訳ないとは思っている。でも今の君なら、一人でお店のパンを用意するだけの実力はあるはずさ!」
「でもっ、でもぉ」
「明日の早朝の仕込みは一緒にだから、そこで、全体の工程をもう一度確認しよう。終わったら私は馬車で王都に向かう。明後日の夕方には戻るから、一日だけよろしく頼むよ! これまで頑張ってきたマリーちゃんならできる!」
「ぶえぇえぇ……」
今まで二人で回していた朝の厨房。一人でこの仕事をこなせるだろうか?
だがもう、なるようになれ――マリーは半ばヤケで覚悟を決めたのだった。
「わ、わかりました、やります……! でもでも、明日はいっぱい質問をしますからね! ちょっとでも不安なことはぜーんぶ聞きますからっ!」
◆ ◆ ◆
あんなに暖かかった季節は遠く過ぎ去り、暑い日差しさえも恋しくなってしまう晩秋の早朝。日が昇るよりもずっと前に目を覚ましたマリーは布団にくるまりながら、二日前に頼まれた仕事を思い返していた。
カーテンの隙間から白い月灯りがわずかに零れてマリーの借りているアパートの一室を照らす。都会の中にある部屋は静かで、彼女のごく些細な動きや息遣いさえもはっきりと聞こえるくらいだ。そこでたった一人、小さな魔女はぎゅっと目を瞑りながら凍える朝に耐え忍んでいる。
「ううっ……でも、そろそろ行かなきゃ……」
いつもだったら暖炉に薪をくべて部屋が温まるまで待てるが、今日はただでさえ時間が惜しかった。掛け布団から勢いで飛び出したマリーは寒さに縮み上がると、外へ出る支度をすぐに済ませてからランタン片手に家を出ていった。
まだ日の出には早すぎる空の下。もっとも暗く寒いとき。
街の各所に立てられた魔石灯と手持ちのランタン灯りで道を照らし、マリーはアパートからさほど離れていないところにある職場のパン屋まで駆ける。せめて仕事場まで辿り着ければ、あとはそこの暖炉で身体を温めることができた。そうなれば時間が経つにつれて状況は楽になっていく。
(さむいー! 近い場所におうち作って良かった!)
(今日は店長がいないから、私ががんばってパン作りしなきゃ……)
覚悟を改めながら店内へ。
マリーはいつもの癖で「おはようございます!」と声を上げたが、普段返事をしてくれるはずの人物は今日ここにはいない。すぐに薪をくべて暖炉と焼き窯の火の調子を上げ、厨房で室内用の魔石灯をつける。
白く冷たい光が降り注ぐ下、マリーは部屋の中央に鎮座する何も載っていない作業テーブルを前に立った。深緑のエプロンを纏ってから腰に両手を当て深呼吸をひとつ。覚悟を決める。さあ、ここからだ……
(……よしっ)
まずは大きな四角い木箱を出し、その中でパン生地を練り込んで作る。
この店で扱うパンは大まかに黒パンと白パンで分類することができ、それぞれ原料になる麦粉や水の配分、練った後の発酵時間が異なる。絶対的に動かせない開店時間から工程を逆算して効率よく作業を行わなければ、一人でお店のパンを全部焼き上げることはほぼほぼ不可能だ。
必要な情報はすべて、マリーが修行で培ってきた知識と実務経験で頭と身体へ叩き込まれている。パン作りのもっとも基礎的な部分かつ、絶対に失敗できず、今まで店長が彼女以外の誰にも任せなかった重要な作業にマリーは専念する。
(黒パンは、修道院と騎士団が大口で発注してくるから……これぐらい)
木箱の中、ライ麦粉と水、そして膨らまし粉を混ぜ込み作った生地はもちもち柔らかな丸みを帯びていく。それらが適度な高さとなるよう調整してから別の箱を用意し、そこでは白い小麦粉と水で別の生地を作る。これは先程のものと比べ麦の皮や胚芽といった雑味が取り除かれているため、パンとして焼き上げて断面を見た時に、純度の高い真っ白な姿を拝むことができる。
すべてのパンにはそれぞれの需要があり、ここはそれに合わせながら多種多様の品々を毎日提供する。
なお、ベリーやドライフルーツを混ぜ込んで作るパンであれば、この段階から生地を別に分けて作らなければならない。一日でどのパンがどれくらい捌けるかを念頭に必要な分量を計算して用意するのだ。
(うんしょ、うんしょっ……)
(……よし、こっちの生地もできた。これも少し寝かせて、その間に――)
一作業を終えてもなお休む暇はない。
マリーは今度は厨房台に向かい、そこでささやかな自分の朝食を作り始める。焜炉の火を見てからフライパンを乗せ、前日の販売で余った細長いパンへ深めの切り込みを入れ、開いてから加熱。隣で水の入った小鍋をあたため、フィリング作りで残った野菜の切れ端とベーコンの端っこを投入。塩胡椒で味を調えて簡素なスープとし、煮立たせている間に焼いていたパンを引き上げる。
ぱっくりと開いた割れ目へ細切りのチーズを振りかけ、それが溶ける間に卵をフライパンでときながら炒めてスクランブルエッグも作った。一緒にパンで挟み込めば……ささやかな待ち時間の間でも作れる朝ご飯の完成だ。
(お腹空いたから、早く食べなきゃ……)
布団の中で目を覚まして以降、怒濤の時間を送っていながらもこれがマリーにとっては一日最初の食事になる。厨房に立ったままホットサンドを頬張り、深皿にあけた端材スープで身体を内側から温める。見た目こそ改良の余地はあるが、彼女がこれから頑張るために必要な栄養はすべて入っていた。
(……よし)
(あまり猶予は無いかも。急がないと)
食べ終わったらすぐに別の仕事だ。
惣菜パンに載せるための具材やソースを作っていればその間に一次発酵の時間は終わり、即座にそれらを適切な大きさにカットしなければならない。膨らんだ生地を作業台に落とし、切り分けたものの形を細長い形状に整えて、窯に入れる鉄板に何個も並べては二次発酵を進めていく。
「……」
ひたすらに激務である。
夜明け前の静寂の中、マリーは一人でペッタンペッタンと音を鳴らしながら、大量のパン生地を相手に奮闘し続ける。普段の爛漫な笑顔は消えて、魔王ですら視線で殺せるような風貌で彼女は戦場に立っていた。
(……あ)
何も考えないようにしていたマリーだったが、ふとあることを思い出して棚を漁り、そこから綺麗な水晶玉を一つ取り出した。
小さなクッションと共に窓際のちょうどよい場所へ置き、マリーは自前の杖で一振り。すると水晶が淡い光を発して、そこから誰かの声が聞こえ始める……
『……はい。この時間は大陸全土の夜更かしさん、早起きさんの為の時間。夜はもうすぐ明けるけれど、それまでの短い間、パーソナリティのカーミラがあなたたちの傍にいてあげる』
「ふうっ、間に合ったぁ……よし、この番組聴きながら成形作業しよっと」
自分以外の誰かの声。少女の表情が和らぎ、パン作りの作業も進んでいく。
形の揃った黒い生地を鉄板の上で整えた後、マリーは薪窯の火を確認してからパーラーで鉄板ごと差し入れる。そうしてトマトの形をしたゼンマイ式タイマーを捻って動かし始めた頃、水晶越しに話していた女性がとある話題を口にした。
『今日もお手紙を頂いているわ。差出人は名無しのベイカーベイカーさん。遠く一人で頑張っているだろう女の子への応援の内容よ』
「?」
『読むわね。……わたしはかつて、遠い地方から一人やって来た女の子へパンの作り方を教えたことがありました。学業とパン修行へ励む彼女は最初の印象こそ不器用なものでしたが、それでも誰よりも熱意を持ち、誰よりも他人の幸せを願うような子だったのを憶えています』
「……」
マリーの手が、ぴたりと止まっていた。
『きっと今も頑張ってパンを捏ねていることでしょう。この場を借りて、ささやかな応援の言葉を贈らせていただきます。……あなたという素晴らしいパン職人が生まれる過程を見られて、私は幸せでした』
「っ――」
『これからも、誰もが笑顔になる魔法みたいなパンを作ってください。あなたが大好きと言った番組を通し、このメッセージが伝わることを願っています……』
水晶の向こうで女性がまた語り出す。しかしそれらの言葉は全て今の彼女には届いていなかった。
厨房の中で一人、重大な責務を背負い、誰も知らない朝早くから頑張り続けていた少女は頭を垂れると、かつて自分が過ごした王都での日々を思い出す。厳しい師匠の下で、時には無理難題とも言える課題に奮闘したり、時には大きな失敗をして叱責されたり……非常に忙しい暮らしだったが、そこへ砂金のように残る煌めいた思い出が、マリーの心を暖かい心地にさせてくれた。
「……そんなこと、一度も、言ってくれなかったじゃないですかぁ」
震えた声で感慨を噛みしめていると、先程セットしていたトマトのタイマーが時間を知らせてくれた。窯から黒パンたちを引っ張り出せばそれはちょうど良い焼き加減ですばらしい香りを立ち上らせる。
忙しかった時間に笑顔が戻ってきた。
マリーがもう一度奮起していると店の扉が開き、同じエプロンを纏う女性スタッフが駆け込んでくる。もうそんな時間になっていたのだ。
「おはようございます。あれ、マリーさん、どうしたんですか……?」
「ぐすっ……ううん、なんでもない! 今日は店長いないから頑張らなきゃ!」
「はいっ!」
パン屋の仕事の中で、もっとも孤独で、もっとも大変な時間。
マリーはその山を越えた。ここからは一緒に取り組む仲間が来てくれる。
◆ ◆ ◆
後からやってくるスタッフたちとも力を合わせたマリーは、なんとか朝の開店時間までに規定量のパンを用意することができた。大口顧客へ渡す分もしっかり必要分焼き上げられ、決まった時間にやって来る修道女、騎士へ問題なく納品も済ませられた。
日が高く昇って外は明るく、往来には何人もの人々が見える。
マリーはそれを窓越しに見てから、店内のテーブルの一画を借りてうたた寝をしていた。暖かな光を受けて眠っていると、そこへ覚えのある声が降ってくる。
「マリー」
名前を呼ばれ、薄目になって顔を上げるとそこには黒魔女の姿があった。
にこりと微笑みかけるマリー。それでも疲れているのか、すぐに腕を枕代わりにして目を閉じる。隣に座った彼女はその頭を優しく撫でていた。
「他の人に聞いたわよ。今日はとっても頑張ったんだってね」
「んんっ。うん……」
「もう……」
店長の代わりとして奔走した少女はしばしの休息時間を得て、穏やかな表情で陽の光と大好きな人の手に甘え続ける。今の彼女を邪魔できる者は誰もいない。