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第85話「さむい日」

 ついにウィンデルにも冬の季節がやってきた。わかりやすく雪が降ったり水面が凍ったりする現象はまだどこにも見られていないが、軽く口から息を吸った際に感じられる僅かな甘みを帯びた冷たい湿気、全身を縮ませようとする寒気は、小さな営みを紡ぎ続ける人々へそう思わせるには十分だった。

 冬には新しい年を迎えるための祭り、そして寒さに負けじと楽しい企画が街で行われる。市民たちはそれらをまるで長い旅の休憩地点のように捉えて、厳しい季節でも頑張って乗り越えようと奮起する。生きるとはそういうものだろう。


 ところで、その差し迫った脅威にあっけなく敗北した人物がいるらしい。

 太陽が昇りたての朝、魔女小屋の中で布団の山が椀状に膨らんで蠢いている。


「ウウ……」


 もぞもぞ、もぞもぞ。もぞっ……

 ひんやりと冷えた室内、布団の中から黒髪の女性が首だけを飛び出させると、彼女は眠気で重くなった瞼を懸命に薄く開き、どうしてこんなに寒いのかと原因を探るためにあちこち見回し始める。

 窓には厚手のカーテンが掛けられて、ガラス越しに冷たくなった空気の殆どが遮断されている。扉はぴたりと閉まったままだ。一枚増やした毛布はしっかりと身体を包み込んでいて、暖炉は……なんと暖炉の火があまりに弱く頼りないものになっているではないか!


「アァァァ、さむい……」


 火床に低く重なっていた炭はどれも小さくなり、その隙間でごくごくささやかに炎の赤が見えるだけ。これではどれだけ待っても過ごしやすくはならない。

 ラヴェンナは目を瞑って苦悶の表情を浮かべると、眉間に皺を寄せながら片腕を布団から引っ張り出し、がたがたと小刻みに震えながら薪置き場へ人差し指を伸ばす。するとそこへ積まれていた薪が次々浮き上がり、炉の中で山を為すように必要分が放られていった。


 腕は再度布団の中へ引っ込んでいく。このまま部屋が暖まるまでラヴェンナはもう少し辛抱しなければならない。あまりの気苦労で表情を歪めていた黒魔女の下、空いていた小さな隙間から黒猫も顔を出す。その隣ではぬいぐるみのミノタウロスくんも首を出し、一人と二匹で時間が過ぎるのを待っていた。


「ウーッ……」


 ラヴェンナはしばらくの間、まだひんやりとする室内の空気で顔面を冷やしてから再び布団の中へ全身を隠した。猫とぬいぐるみもそれに倣い、一晩をかけて過ごしやすく整えられた最後の牙城で彼女たちはホッとしたように丸くなる。

 外の様子は何も見えなかったが、遠くで小鳥が鳴いている声が聞こえた。このような寒い日でも野生動物たちには関係ないらしい。よおく耳を澄ませば、遠くどこかの畜産家が飼っているだろうニワトリの声や、集落をほっつき歩くウシの鳴き声が、長い距離と魔女小屋の壁と布団と毛布を抜けてかすかに分かった。


 いまだ起きてからただの一歩も踏み出していない黒魔女は、その音を拾ってはだいたいの気候と太陽の高さを頭で組み立てた。想像の世界では自由だった……これまでより幾分か厚く着込んで、薪を多めに使い、パンとあたたかいスープを頂きながら窓越しに新しい季節の風景を眺めて過ごすのだ。そこに冬のお菓子と紅茶があればどれだけ素晴らしいことだろう。

 しかし、今はそのどれもがなく、手の届く範囲にあるのは居候の黒猫と愛嬌のあるぬいぐるみだけだった。ラヴェンナは牛の頭を持ったフェルト生地の魔物を抱きしめた。そして彼へほんの少し魔法の力を分けてあげれば、厚く弾力のある身体の真ん中がぼんやりと熱を持ち、寒い朝の気休めになってくれた。


「あぁ……」


 魔女としての人生を歩むと心に決めた日がいつのことだったか、もはや本人も細かなところは覚えていないし、大して重要なものでもない。

 しかし「自分が魔女で良かった」と思うタイミングはあった。まさに、今日のような朝だ。ラヴェンナは自身が魔法の才に恵まれたことへ心底感謝していた。さもなければ彼女は布団を飛び出し、寒さに震え絶望しながら薪を取り、手作業でくべてからすぐには立ち上らない火種の前で両手を擦り合わせ、なんの気休めにもならない(そして凍えながら手に入れたにしては割に合わない)ごく僅かの熱のみを手の平にベッドへ帰らなければならなかった。


「うー、よしよし。寒いわよねぇ。こんな時にはまだお外には出られないもの、ここで一緒に過ごしましょうね。そうそう、今日はあなたのことも許すわ」


 モコモコの毛布の中でラヴェンナはぬいぐるみを抱いて、すぐ近くの黒猫にも声を掛けてはかわいがっていた。かなりまいっているようだ。


「こんな寒さじゃ魔女も猫も言ってられないわ。でも大丈夫、そのうちにあたたかくなってお外に出られるわ。それまではここに居るのよ……」


 ほとんど独り言のような言葉を漏らしながら時間が経つのを待つ。二度寝でもできれば薪が燃え上がるまで有意義に休めたものだが、やはりこの冷たさがそれすらも許してくれなかった。


 湯たんぽのように暖かくなったミノタウロスくんを抱きながら、ラヴェンナはこれまで丸まっていた布団の山を徐々に平らにのばし、脚を少しずつ真っ直ぐへ戻しながら楽な姿勢をとった。つま先から足首までが若干ひんやりとした心地に包まれたが、それは単に黒魔女の身体が今までそこになかったからで、しばらく経てば中の空気が混ざってほどよく暖まった。

 やがてラヴェンナは、今ここで両手両腕を広げても大丈夫なくらいには、このベッド一台分の空間――布団と毛布、そしてマットレスの間にあるわずかな厚さの場所を自らの支配圏に入れた。甲虫の幼生の如く背中を丸め、ひもじい思いをしていた時と比べれば随分な成り上がり様であった。さながら女王である。この王国においては、二匹のみの「国民」を除けば、手足の届く範囲でラヴェンナの動きを妨げるものは何一つとして存在しないのだ!


(なんだか、一安心しちゃったわ……)

(部屋も徐々にあたたかくなってきてるし、火も調子が出てきたみたい)

(このまま布団の中で、ゆっくりと過ごすのも良さそうね……)


 あの忌々しい寒さが魔女小屋から消え去ると言うことは、普段通りの暮らしが戻ってくることでもあった。しかしラヴェンナは、あれだけ寒くつらい思いをしたにも関わらず、長い時間を掛けてあたためたこの場所を手放すことを惜しんでしまっていた。

 きっともう、身体を起こして着替えをしても大丈夫であろう。厚手のローブを纏ってカーテンを開き、外の光に目を細める……しかし黒魔女はそれを頭の中で想像するに留めて瞼を下ろした。


 布団から出ずに終わる、そういう日もあるのだ。

 自らにそう言い聞かせてはミノタウロスくんを抱きしめ、まどろむ……




 ……しかし、それも長くは続かなかった。

 魔女小屋の外で誰かがラヴェンナの名前を呼んでいた。やがて扉が開く。


「ラヴェンナ様、入りますよ……ああ、まだ眠っていらっしゃったんですか?」

「ん? え、ロクサーヌ?」

「朝ご飯ですよ。これを食べて暖まってください。さあさあ……」


 スープの入った鍋を持ってきたロクサーヌだった。彼女は焜炉にそれを置くと薪で火力を強め、それから黒魔女がだらしなく横たわるベッドへ近付いては掛け布団と毛布を掴んで一気に引き剥がす!

 たちまち悲鳴が上がった! 突然寝姿を露わにされたラヴェンナは胎児の如き縮み具合でぬいぐるみを抱きしめながら白魔女を睨み付ける。しかしロクサーヌはすっかり慣れた様子で、鍋が温まるまでの間、近くに引っかけられていた黒のローブを両手に近付いてくる。


「ラヴェンナ様、早く起きてください」

「う……ううっ……!」

「早く」

「分かったわよー!」


 ダラダラ過ごそうにも、こうも急かされてしまってはかなわない。ラヴェンナがよく見る魔女の格好に着替えて顔を整えている間、ロクサーヌはもう一度外へ出て残りの食材を取りに行った。戸の開け閉めにしたがって冷気が流れ込むと、それを察知した身体がぴくりと緊張する。


 ……その後は普段通りに冬の日を堪能した。外の風景を眺めては新しい季節の到来に目を細め、遠くから聞こえる動物の声に耳を傾け、気になった本を読み、甘いお菓子と紅茶で悠々自適な日々を送る。

 今日の反省として、ラヴェンナはしばらくの間、寝る前に暖炉の薪と炭を確認する癖がついた。しかし薪の蓄えがなくなってくると貧乏性が発動し、また寒さに震える朝を迎えては同じ後悔を繰り返すのだが……これはもう彼女が何十年と続けてきたことであった。今年も、そんな冬がやって来たのだ。

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