外で小さな雪がちらちらと降っている真昼のこと。ラヴェンナは家の中ですることもなく、テーブルの上にぬいぐるみの「ミノタウロスくん」を座らせながら彼の首元へ巻くためのちいさなマフラーを毛糸で作っていた。やや黒っぽい魔物の肌に映えるよう白の素材を選び、あとで赤や茶色の細い糸で細かい装飾を加えるつもりだった。
暖炉の傍で揺れ椅子に腰掛け、編み棒をたくみに使いながら作業に専念する。たまに窓の外からウシの鳴き声が聞こえた。あの白黒模様は、こんな雪の日でもお構いなしに集落のあちらこちらをほっつき回っているようだ。
(相変わらず元気な牛ね……)
(むしろ冬の方が好きなのかしら。寄りかかってみると意外に暖かいし)
(……ん?)
何やら足音が近付いてくる。
作業の手を止めた次の瞬間、魔女小屋の扉がコンコンとノックされた。
「魔女様、あたしだ!」
「ライラ? 入って良いわよ」
「じゃあお邪魔するぜ……」
白髪と褐色肌の魔物学者は扉を開けると、片手に大きな包みを乗せたまま中へやってくる。両肩には獣革の上着が被せられておりなかなか暖かそうだ。しかし一方で彼女の持ってきた手土産は河原の巨石と見紛うサイズで、その全体は茶色の紙に包まれていた。
「何よそれ?」
「お裾分けだ。この間、牛舎の掃除を手伝う機会があってな。そこが肉牛を一頭処理して、ちょっと遅れてお礼を貰ったんだ……しかし一人だと量が多くてな」
話を聞いたラヴェンナは、テーブルの上に座らせていた「ミノタウロスくん」と編みかけのマフラーを手に取るといつもの棚に置き直した。ライラは持ってきたものの包みを開いて中身を披露する。
すると、見事な赤身肉が姿を現した。大きさは外から見た通りに申し分なく、色味も鮮やかで食欲をかきたてる。しっかりとした歯ごたえを感じさせるそれは口で噛みしめた時に弾ける旨味を今の段階で想起させてくるようだった。
「いいお肉じゃないの。部位はどこなの」
「モモと
「ふうん……」
「ラヴェンナ様!」
話を聞いていると今度は、ロクサーヌが扉の向こうで呼びかけてきた。返事をすると彼女は入ってきて、ライラに恭しく挨拶をしてから、その手に持っていた瓶を二人へ見せた。中には赤い液体と輪切りになった何かが漂っている。
「ロクサーヌ、それは?」
「酢漬けにしたビーツの瓶詰めです。私の地元より少し南へ上ったところでは、暖かい時期に土が顔を出します。その間にこれを育てて、冬越しの食材として、スープに使うんです。ライラ様の持ってこられたそれは……」
「ああ、訳あって牛の肉を貰ってな、魔女様たちへ分けに来た。脚の辺り、モモと脛の部分で」
「モモと脛!」
返事を聞いたロクサーヌはびっくりした様子で復唱した。
「ちょうど良いタイミングです。今日はビーツがあるので、これからボルシチをこしらえようとしていました」
「ボルシチ……ってなんだ?」
「ロクサーヌの地元料理よ。冬になるといつも作ってくれるの」
「はい。この瓶も、商工会を通じて取り寄せたものなのです。ライラ様もお時間が宜しければ頂いていってください」
「おっ、助かる! 是非ともお願いしたい」
「では、準備をしましょう。ラヴェンナ様、焜炉の方を空けててください」
「わかったわ」
白魔女はにっこり微笑むと、そのまま踵を返して冬の野外へ出て行った。その後ろ姿と足捌きはやけに軽やかなものだった。扉が閉まるまでの一瞬、荒涼した景色に立つロクサーヌの姿が見えると、それは、ラヴェンナとライラへ遠い北方に暮らす人々の景色を想像させた。
◆ ◆ ◆
時刻はまもなく昼を回るところだ。ロクサーヌの試算によれば、今から調理を始めれば短い日が沈むのを待たずして完成するようだった。腹の虫が主張を始めるまでになるべく作業を進めようと、三人はテーブル上の材料を確認する。
具材の野菜はニンジンが二本、タマネギが二個、ジャガイモが二個、キャベツが半玉、にんにくが二かけ。ライラが持ってきた牛モモ肉と牛脛肉、ロクサーヌの取り寄せたビーツの瓶詰め二個、夏に保存用でこしらえていたトマトソース。残りはオリーブオイルとバターの小さな塊、たっぷりの水をたたえた瓶。
いずれもなかなかの量だ。煮る最中に“かさ”が減ることを考慮しても、結構な満足感をもたらすスープになること請け合いだった。それに、今この場に用意はされていないが、一緒に食べるための硬い黒パンと赤ワインの瓶も控えている。それでも足りなければ、ラヴェンナが以前セレスティアからもらったおつまみの数々を引っ張り出せばいい。
「で、私とライラは何を手伝えば良いかしら」
「お二人は野菜の皮むきとカットをお願いします。その間、私は牛肉の方を処理しますので」
「おお、わかった……」
まずはロクサーヌが塊のような牛肉をまな板に載せると、肉切り包丁を取り、肘と手首を使って振り下ろした。だん、だん、だん、とテーブルごと揺れる音が響いた後に、ライラの持ってきた肉塊は見事な一口大へ揃えられる。
やがてそれらは、あらかじめ焜炉の上で温められていた大きな鍋の中へと転がされていった。鍋の底にはオリーブオイルがごく薄い層を作っており、肉の表が白く変わっていくと共に魔女小屋をすばらしい香りで満たした。魔物学者は目を爛々とさせた。
その傍らで、ラヴェンナは先に根菜類の準備を進めていく。ジャガイモとニンジンの皮をむいて、これから長い時間煮ることも考えてやや大きいサイズに切り分けていく。向かいでライラもキャベツとタマネギの支度を調えており、二人の協力の甲斐あってか、ロクサーヌが牛肉の面倒を見終えた頃には何の障害もなく次の作業へ進むことができた。彼女は鍋を覗いて時期を見計らうと、ニンニクの皮を取り去って根元を切り取り、包丁の腹で潰してから放り入れた。
「お二人とも、お手伝いありがとうございます」
「いい香りだな! このままでも食べられそうだ」
「たしかに、匂いを嗅いでたらお腹が空いてきたかも……」
「うふふ。これからもっと美味しくなりますよ」
ロクサーヌの言葉に、二人は期待と興奮をしたがえた表情へ変わっていった。
それから白魔女は長い木へらを使い、ゴロゴロと入った具材を底から混ぜ返していく。下の方にあったオイルは既に肉汁とニンニクのかぐわしい香りを纏っており、これをすべての野菜に合わせていく。
ライラの関心は、ロクサーヌが持ってきたビーツの酢漬けに向けられていた。瓶の中に汁と共に詰まったそれはカブを輪切りにした形状をしていたが、何よりもその赤々しさが特徴である。遠目では、大きな獣の内臓を焼きやすくスライスしたものにも見えた。
「ライラ様、ビーツは初めてですか?」
「生えていた姿では何度か。だけど、こういう形では馴染みがないな」
「であれば、そろそろ開けてみましょうか。汁も全て料理に使うので、零さないようにゆっくりとお願いします」
硬くしめられていた蓋に力を込めるライラ。少しだけ力みながら奮闘すると、程なくして緩んで隙間が開いた。中に閉じ込められていた空気が久方ぶりに外へ出ると酸っぱい香りを辺りへ漂わせる。
「おおっ……」
「そのまま、瓶の中身を全て鍋に入れちゃってください」
「いいのか? では、遠慮無く」
具材を煮立たせていたところへひっくり返せば、入っていた輪切りのビーツと赤紫にも近い色の煮汁がすべて投入された。たちまち中の根菜類は赤く染まり、一瞬にして他のスープ料理とは一線を画す見た目へ変わる。
ロクサーヌはそこへ水、トマトソース、塩胡椒などを投入し、最後はローリエの葉を二枚入れた。なんと、ここまで来たらもう煮込むのを待つだけだった。
「うーん、本当にいい香りね。もうお腹が空いてきたわ」
「すごいなぁ、こんなに真っ赤に染まるもんなんだ」
「私たちノルドの民は味が濃くて温かい料理を楽しみます。ボルシチもその一つです。向こうにいた時は外仕事を終えた人たちが暖かい室内でこれを食べる光景をよく見たものです」
「ノルドって……随分と北の方から来たんだな」
「そうよ。私が隠居するって決めた時に、ロクサーヌにも声を掛けたの」
二人の魔女が辿った経緯を聞いて、ライラは興味深そうにふんふんと頷いた。そしてわずかに時間をおいてから、意を決したように言葉を紡ぐ。
「実は……冬のうちに、ノルドヴィクまで見てこようと思ってる」
◆ ◆ ◆
煮込み終わったボルシチはそれぞれの木のボウルへ注がれ、サワークリームを真ん中に乗せてからテーブルに三皿分が出された。横には黒パンを載せた木皿も並んでいる。やや遅い昼ご飯の時間が迎えられようとしていた。
ラヴェンナ、ロクサーヌは席に座り、ニヤニヤ笑うライラの話に耳を傾ける。
「今までは北の方に行く機会があまりなくてな。せっかくストーンヘイヴンまで来たから、商工会に話を通して、ノルドまでの行商に混ざろうと思ったんだ」
「なにも、こんな季節じゃなくても……」
「だからだよ! 寒い地域の一番寒い日を体験しにいくんだ!」
「変わってるわねぇ」
「うふふ、まずは食べましょうか」
皿の上にあるのは赤紫のスープにすっかり染まった沢山の具材たち。スプーンで掬って口へ運べば、甘みと酸味が肉の脂と共に広がって頬を緩ませた。ビーツも柔らかく煮込まれており、癖も少なく食べ応えのあるものとして楽しい食体験に寄与している。
硬いパンを千切ってつけてから食べれば、小麦のやや淡泊な味と相まって実にちょうどよくまとまった。赤ワインも進む。ラヴェンナはチーズも出していた。
「美味いな! こりゃ、向こうで食べるボルシチも気になってきたぞ」
「タイミングが合えば、アザラシのシチューもいただけるでしょう。他にも色々な料理がありますし、運が良ければ動物の姿も見られるでしょうね」
「うひょー、そいつは楽しみだ!」
この魔物学者は、行く先で何かが動いていればそれだけで喜ぶのだろうか?
ラヴェンナは半分呆れながらも、もう半分で尊敬しながらボルシチを食べる。窓の外を見れば、冬の乾いた景色の中でウシが呑気に鳴きながら集落をのそのそ歩き回っていた。
「……それで、いつ出るつもりなの?」
「春までには帰るつもりだから、そうだな、新年祭の直後あたりになる。魔女様は地元なんだろ……何か、お土産とか要るか?」
「それは案ずるに及びませんよ。それに、地元と言っても随分昔の話です。今は私を知らない人の方が多いかもしれませんし」
「そっか。ま、せっかく行くんだ、楽しんでくるよ!」
赤々しいスープを頂きながら、ラヴェンナは目を閉じて北方の地を思い返す。かつて行ったことがあるその場所は今頃、厳しい冬の寒さに晒されていることだろう。それでも、そこの人たちは必死に毎日を生きているのだ。もしかしたら、今こうしている間にも同じようなボルシチを食べる人がいるかもしれない。
「風邪ひくんじゃないわよ」
「わかってるわかってる。そうだな、ついでに本も書きてぇなぁ。見たことない場所に見たことない動物、そしてうまい飯……むふふふ……」
心配がてら忠告するも、既にライラは遠い厳寒の地に思いを馳せていた。
ロクサーヌと顔を見合わせて苦笑する。まあ、彼女なら大丈夫だろう……と。