よく晴れた冬の日の午前、ウィンデルより少し北に箒で飛んだところの湖。
綺麗に凍った水面の傍に古い木造の小屋が細長く建っている。出入り口の扉の他には納戸のような大扉が何枚か並んで壁に配置されていて、その内の一つが、上向きにゆっくりと開いていった。
現れたのは黒いローブと三角帽子に身を包んだ魔女だ。肩には縄が引っかけられていて、繋がった先には荷物を積んだ木のソリがある。彼女が腰を入れて引っ張り歩けば、それは丸太を敷いた床を転がってから雪面へ滑り出た。荷台にはこれから使う道具やバケツと一人用テントのポールが載り、上に緑色の幕体が広く覆い被さって中身を隠していた。
「よーし。道具も無事に借りられたから、このまま行くわよ……」
「――!」
ソリの上には小さなお友達も座っていた。茶色いフェルトの身体を持ったぬいぐるみの「ミノタウロスくん」は、積まれた荷物に寄りかかりながら両手を振って主人を応援し続けている。首元にはあたたかそうなマフラー、足には手作りの革ブーツがあった。
一人と一匹、彼らの向かう先に厚く張った氷の景色が広がっている……
「うーっ。それにしても、さむいさむい……」
ラヴェンナたちの住むウィンデル集落やストーンヘイヴンの街は、冬になったとしてもそこまで冷え込むことはない。しかし今いる湖は年間を通して冷涼で、特に冬ともなれば寒く、人が上に乗っても割れない程の氷が作られるのだ。
これを説明するには地質学の話をしなければならない。いまラヴェンナたちが立っている湖の下には大量の魔石を含んだ層が広がっている。そこである時に、地下深くで氷魔法の術式が偶然成立してしまった。それが何年、何十年と経った今でも続いているのだ。
「よいしょ、よいしょっ……」
大地のようにしっかり作られたその上をラヴェンナはソリを引きながら歩く。既に、湖には先駆者たちの立てたテントが四つ点在していた。それらとの距離も測りながら、黒魔女は今回のポイントを見定め始める。
今日の狙いは、この真下を回遊しているワカサギの群れ。
冬の寒い時期だけ楽しめる特別なレクリエーション。それを全力で楽しもうと意気込んできたラヴェンナは、適当な場所で足を止めてから膝を折って前屈みに変わった。そのまま片手を氷面につけ、冷たさに耐えながらも「マナの流れ」を探り始める……
(……いるわね。いくつかの大きな群れが、湖の中を周期的に回っている)
(この感じだったら……あの辺に構えれば釣れそうかしら)
大体の位置を見定めたラヴェンナは、冷たくなった手のひらに息を吹きかけながら決めた場所へ向かっていった。ベテランは湖についての知識や経験を通じて魚群の位置を予測するが、魔女はそのような不確定な博打はしない。氷の真下の様子をうかがい知ることのできる装置でもあれば、また話は変わるだろうが。
ソリを引っ張っていった彼女は目当てのポイントに辿り着いて深呼吸。
息が白い。身体の調子が戻った後に再び屈んだラヴェンナは、狙ったところに人差し指を当てて意識を集中させる。すると、指の腹に触れた部分の氷が融けて一個の穴が開き始める。しばらく経つとそれは綺麗な円形へ広げられた。
「よし、テントを立てるわよ。手伝いなさい」
「!」
荷台に座っていたミノタウロスくんは黒魔女の指示を聞くや手を挙げる。
彼女たちは幕の下に隠されていた支柱を取り出し、作った穴とソリを囲むように氷へ突き刺して固定する。その後、それらを器用に曲げてアーチに仕立てて、上からテントの広い布地を被せて少人数用の部屋を築いてみせた。
外は若干ながら風が吹いている。歩いている時は気にならないものの、これから長く魚と対話をするとなれば話は別だ。幕一枚さえ張ってしまえばそういった肌寒さの元を断ち切れる。
「こんなところかしらね。換気用の穴は……開いてるわね」
緑色のテントの中、ラヴェンナは雪の上に持ってきたものを様々配置して自分の過ごしやすい場所を作った。
空になった木のソリは一部の部品を組み替えることでそのまま椅子として使える仕組みだった。そこへ腰掛けながら、同じくレンタルしてきた釣り道具を横に揃えて経験者らしい雰囲気も作ってみる。ラヴェンナの真ん前には先程空けた穴が口を開けている……
その横では、板材と布の切れ端を床代わりに座る「ミノタウロスくん」の姿もあった。なんと彼もまた、目を輝かせながら釣り竿の準備をしていた!
「ああそうだ、ちょっと待ってね、そっちの氷にも穴を作ってあげる……はい」
「――! ――!」
「ようし、今日は沢山釣って帰るわよ……!」
ラヴェンナはさっそく、用意した釣り竿を手に取って仕掛けを沈めていった。釣り針とエサは錘に引っ張られてずんずん沈む。竿に取り付けられていたリールはグルグルと回り続け、やがて、どこかでぴたりと止まった。錘が湖の底へ辿り着いたのだ。
さて、長かったが、ここからが本題である……
ラヴェンナは木組み台の上に小さな薪ストーブ缶を置いて木片を放り、暖炉の代わりに火をつけてから竿に集中する。一番下まで到達した錘を若干巻き上げてから、餌の刺さった針と一緒にユラユラと上下に動かして待つ。
そう、待つ。魚が引っかかってくれるまで……
「……」
「……」
冬の風がテントの布端をパタパタとはためかせている音が聞こえる。
ラヴェンナもミノタウロスくんも黙ったまま釣り竿を上下に揺らし、その時が来るまでじっと辛抱していた。いやに静かな時間だった。ここには静寂を乱してくるようなものは全て存在しない。遠くからウシの鳴き声もしなければ女商人が押しかけてくることもないし、黒猫に邪魔されることもない……
「……ふああぁ」
大きな欠伸が出た。
少し経って、ミノタウロスくんも気だるそうに首を上向きにした。
(来ないわね……)
今頃は湖の底あたりで針についた餌が揺れているはずだ。水温が低いのだろうかと糸を巻き上げ、次はもう少し高いところに餌をあげてから待ってみる。隣の薪ストーブ缶からパチパチ音を聞きながら、手のひらに伝わる竿の感覚に意識を向ける。しかしのどかな時間が流れる中で、ラヴェンナもミノタウロスくんも、静かに頭を垂れながらうとうとしはじめる……
「うん……うん……」
……その時であった。
ラヴェンナの持っていた釣り竿の先がぴくりと動き、真下へぐぐりとやわらかく曲がって何者かの存在を知らせた。手のひらに伝わった感覚で黒魔女はすぐに目を覚ますと、そのまま竿をぐっと持ち上げてひと思いに立ててみせる!
すると確かな抵抗が残った。成功だ。魚が食いついたのだ!
「来た、来たわよ……」
リールを回し、獲物を氷上へ引き寄せる。狙いの魚はそこまで大物ではないものの、手のひらにはしっかりと抵抗が感じられていた。うっかりしようものなら釣り竿ごと湖中へ飲み込んでしまいそうである。
糸はずいぶんな深さまで沈んでいた。格闘の時間がしばらく続く。糸が巻かれる度に、目当ての魚は徐々に徐々に近づいてくる……
「よし、よしよしよし……!」
竿の感覚が変わっていく。慎重に糸をたぐり寄せていくと、水面の下から銀色の細長い影が見えてきた。そうして遂に、あのほっそりとした魚を釣り上げる!
空気中へ引っ張り上げられたそれは、綺麗なシルバーの腹と特徴的な黄色の背を持っていた。紛れもないワカサギだ。ラヴェンナは歯を見せて笑うと、万が一でも逃げ出さないように、水をためていた木桶の中へ魚を一時的に放した。
「ようし、まずは一匹。そっちはどう?」
「――、――」
ミノタウロスくんは首を左右にユラユラと揺らしながら返事する。
すると……今度は彼の持っているミニ釣り竿に何かが引っかかった!
「!」
「あら……」
茶色のフェルトで作られた魔物は立ち上がって踏ん張ると、全身を使って背を反らしながら魚と格闘し始めた! きっとラヴェンナと同じワカサギだろうが、人間にとっての小魚でもぬいぐるみにとっては大魚だ。敷き布の上で頑張る彼はしばらくの間竿を引っ張り、リールを巻き……やがて、身体ごと後ろにひっくり返りながら魚を揚げてみせた。
お見事、これもワカサギだ。ミノタウロスくんの胴体の長さはあるだろうか?
「すごいじゃないの。やるわね」
「!」
釣られた魚は木桶に離された。ミノタウロスくんは嬉しそうに両腕を上げながら主人へアピールした後、また氷の穴へ糸を垂らして自然と向き合い始めた。
ラヴェンナも釣りを継続する。すると、ちょうど真下に群れがやってきていたのだろう、すぐにヒットして竿の先端が曲がり、そのまま手慣れた様子で一匹、二匹と引き上げられては木桶に放られていく。時にはミノタウロスくんが転んであわや転落――のハプニングもあったが、全てを見ていた魔女は指先をちょいと動かすだけで彼と釣り竿を元の位置へ戻したのだった。
……調子が上がってからは早かった。
用意していた木桶が銀色に満たされてきたところで、ラヴェンナは見切りをつけて釣り竿を置いた。それからミノタウロスくんが釣った一匹を最後に、大漁の成果として満足。帰還となった。
「よし、暗くなり始める前に離脱するわよ」
「――!」
ラヴェンナは腰を上げて、この場に展開したものを元通りに直し始める。小さな働き者も忙しなく動き回りながらそれを手伝った。すべての作業が終わって、またソリの上に荷物がまとめられた後、フェルト生地の眷属はラヴェンナの右肩にちょこんと乗って冒険の復路についたのだった。
午後の日が傾き始めたところだった。光を受けた湖の氷が煌めいている。
◆ ◆ ◆
木桶いっぱいのワカサギと共にラヴェンナは箒で空を飛び、いつもの魔女小屋まで戻ってきた。先程まで肌寒い湖にいたせいか、心なしか暖かい気がした。
帰ったラヴェンナはさっそく隣人ロクサーヌの家の扉を叩く。出てきた白魔女に木桶の中身を見せれば、彼女はぱあっと明るい表情に変わった。
「まあ、ラヴェンナ様。大漁だったのですね」
「ざっとこんなものよ……」
腕組みのまま堂々と立つラヴェンナの肩で、ミノタウロスくんも同じポーズをとって自信に満ちた姿をしていた。ロクサーヌの家に鎮座する「ウィスプくん」も手編みのランタンハウスから顔を出してはニコニコ笑顔で揺れている。
「よろしければ、このままお昼ご飯にしましょうか」
「そうしましょう。お腹が空いてるから……」
「ふふ、それではすぐに仕上げますので、お待ちください」
一仕事を終えたばかりのラヴェンナはそのまま、ロクサーヌの家で椅子を借りて揺られながら料理の完成を待つ。ぬいぐるみ同士が棚で仲良く並んでいる中、油の溜まった鍋からよい香りが漂い始める……
目を閉じてくつろいでいるとジュワリと聞き心地のよい音が耳に入ってきた。既に黒魔女の口には涎が溜まり始めていた。それらに深く聞き入っているうち、テーブルに大皿がトンと置かれる。
「お待たせしました」
「わあ……!」
そこに並んでいたのは、薄い衣をつけて揚げられたワカサギの数々。ほのかな黄色を帯びたそれは食欲をかき立て、さっそくラヴェンナに手を伸ばさせた。
一本を取って口に放ればサクッとした心地が歯を通して伝わり、中に包まれていたふっくらとした白身がほどかれていく。口の中に魚の旨味がいっぱいに広がって、魔女は表情を緩めながら恍惚の息を漏らした。
「んん~っ……冬の味ねぇ」
「では私もいただきましょう。こちらに塩とハーブが……」
「助かるわ。今回で全部使った?」
「いえ、まだまだあります。使わなかった分は氷魔法で保存しますので」
ラヴェンナもロクサーヌも、揚げたワカサギに塩味と風味をつけてから丁寧に噛みしめて味を確かめる。魔女小屋の中へ幸せな匂いがいっぱいに広がる。後ろではミノタウロスくんとウィスプくんがぐるぐる回って遊んでいる。