冬も深まったある朝、ラヴェンナのもとへ、修道院からアレンがやってきた。その日は「魔女の暮らしを体験する」約束をしていた日で、午前中を近くの森の入り口で過ごした。暖炉の火にくべるための薪として、適当な小枝を拾って持ち帰る過程で、屋内がいつも暖かく保たれているのが誰かのお陰であるのを、身をもって体験することが目的だった。
「ラヴェンナさん、これくらいでいいでしょうか」
「上出来ね。ソリに乗せて引っ張っていきましょう……うん?」
簡単なつくりの木ソリに枝を積んだ後、ラヴェンナは近くの木々が揺れていることに気付く。風が、作業を始めたときよりも強くなっている。
魔女小屋までは幾らか距離があった。すぐにソリを引き、アレンに声を飛ばす。
「アレン! 早く集落に戻るわよ」
「はいっ……どうかしたんですか」
「風が出てきてるわ。今吹かれたら、帰りの景色は真っ白になる!」
「ええっ!?」
二人でソリの綱を引いて帰る。身体に当たる風は徐々に強くなっていく。上着で表面を隠していても、肌を蝕む冷たい感覚はだんだんと足下から上ってきた。
小走りになる二人。集落の建物が見えてきた。
顔に細かい雪が当たる――二人は魔女小屋の中へ入り、木ソリも一緒に引きずり込んだ。扉を閉めれば「風のぶつかる音」が聞こえる。ごうごうと唸るような音だった。いつの間にここまで強くなったのだろう? 暖炉の傍で落ち着いてみれば、外の天気が悪化の一途を辿っているらしいことがよく実感できた。
「あー、びっくりしたわね。でも雪だるまになる前に戻れて良かった。冬の時期はこういうことがあるから怖いのよ」
「いきなり風が強くなって、雪も降ってきました」
「この分だと、天気が良くなるまで帰れないかもしれないわね。まあ、そうなったら今日は家に泊まっていきなさい。ちゃんとご飯は出してあげるから」
「ありがとうございます……」
濡れた上着と集めた薪を暖炉の近くで乾かす。薄着姿になったアレンは身体を温めながら、ホッとしたように深く息を吐いた。
「でも、今日はどうしましょうか。まだ今日は、薪を拾っただけです」
「どうもこうもないわ。何か飲み物を作ろうかしら……ハーブティーでいい?」
「はいっ――お願い、します」
「じゃあ二人分ね。昨日の菓子が余ってるから、それも出すわ」
暖かい部屋の中で寛ぐアレン。椅子をひとつ貰って、腰掛けながら魔女小屋をぐるりと見渡す。もう何度となく訪れたこの家だが、あたりに漂っているバラの香りと大きな釜、引っかけたまま置いてあるスペアのローブと三角帽子といった数々を見る度に、彼は自分が魔女の住処にいることを改めて実感していた。
もちろん、それだけではなくラヴェンナ自体の個性が見える場所もある。棚に鎮座する「ミノタウロスくん」のぬいぐるみや、本棚に並ぶ個性豊かな背表紙と目を惹くようなタイトル。台所の作業台を見れば、隅に削りかけのチーズが雑多に転がっていたり、半分程度残ったニンニクが吊り下げられたりしている。
「はい、できたわよ。熱いから気をつけてね」
「わっ……ありがとうございますっ、ラヴェンナさん」
アレンの元にハーブティーが一杯出された。
息を吹いて冷ましてから口を付ける。苦くて甘い、魔女の味がする。
それから、アレンはラヴェンナと共に吹雪がやむのを待ったが、日が沈みそうな時間になっても風は収まらなかった。ラヴェンナは揺れ椅子に深く寄り掛かりながら目を閉じ、眠るとはまた違う状態のまま、まったく動かずにいた。少年があとから気付いて声をかけるも反応はない。
「ラヴェンナさん……?」
「……」
ベッドに腰掛けてライラの本を読んでいたアレンは、それを布団の上に置いて黒魔女のところへ向かってみる。しかし、うんともすんとも言わない。
呼吸すらも感じられないその姿を前に少年はぎょっとする。
そして、小声で「ラヴェンナさん」と囁きかけながら、おそるおそるその安否を確認しようと顔を近づけた時――閉じていた瞼が開き、至近距離で目が合う!
「わぁぁぁぁ! い、生きてた!」
「何やってるのよ……」
「えっと、ラヴェンナさん、呼んでも、反応がなかったから」
「ああ、大丈夫よ。ちょっと修道院の方に“行って”きたわ」
「へ?」
アレンは思わず窓を見やる。外は未だ冬の悪天候に包まれたままだ。
「それって、どういう……」
「ちょっとだけ魂を飛ばして、アイリスたちのところへ行ったの。簡単に言えば遠くの人とお話をする魔法ね。今夜、貴方を家で保護してるって伝えた……何もなしに帰ってこないと、向こうも心配するじゃない?」
「魔女ってそんなことできるんですか!? すごいです!」
「その代わり、ものすっごく疲れるけどね……ふああぁぁあ」
椅子に揺られながらラヴェンナは大きな欠伸をする。アレンは何かとんでもないものを見せられた気になって、ベッドに座り直しては再び本を手に取る。
しかし、今度は別の興味が彼の中に湧き始めていた。
このラヴェンナという女性は、いったいどんな生涯を送ってきたのだろう?
「……ラヴェンナさん」
「なあに?」
「ラヴェンナさんはどうして、“幻想の大魔女”って呼ばれてるんですか?」
一瞬だけ場がしんと静まりかえった。魔女はアレンの瞳をじっと見つめ返すと口角をわずかに上げ、その後に白い歯をちらりと見せて笑う。
「女の過去はあまり訊くものじゃないわよ。スケベ」
「ええーっ!? ごめんなさい……」
「ふふっ、まあいいわ。どうせ明日まで暇だし、ちょっと昔話をしましょう」
ラヴェンナはハーブティーを一杯口に含んで喉を潤す。
薪がぱちぱちと燃える。外の風音が、今だけは耳に入ってこないようだった。
「これは百年前、まだ、人間と魔物が争い合っていた頃のお話……」
◆ ◆ ◆
魔女ラヴェンナが語ったのは、今よりもずっと昔の出来事だった。
「その時は、今と違って危険な魔物たちがあちこちで生まれていた。一部の人々は武器を取って、魔物と戦って生き延びる道を選んだ。そうして今のような街ができたのだけど……壁を作って、安全な場所が出来たとしても、みんなの心は、ひどく荒んだままだった。魔物がやってきたらその恐怖と戦い、平和な時でさえも身内で喧嘩して、裏切って……」
「でも、そんなことしてたら」
「そうよ。いつ魔物が襲ってくるかも分からない不安の中、壁の内側で自ら破滅した街もあった。私はそういう時代を生きていたわ。幸いにも私は普通の人にはない力を使えていたから、それで誰かを助けたり、恩を売ったりできたけれどね。でもこの力のせいで、逆に怖がられたこともよくあったの」
「え……なんで?」
「たとえばアレン。私と貴方の前に凶暴なクマがいたとして、私が強力な魔法を使ってクマを倒したとするわ。だけど……もし私の気まぐれで、次に貴方が攻撃される側になったとしたら? 逃げようとする貴方を魔法で捕まえて、誰も助けに来られないところで吊し上げて、生きたまま身体をかっさばき始めたら?」
「っ――!」
「……もし私が、今この瞬間に“そうしたい”って思っていたら?」
「……怖い、です」
「そうよ。理解の及ばない力を持つ人は、頼られながらも、恐れられるの。私がどれだけ潔白を証明しても彼らには不信と恐れの心があって、それが私を悪者に仕立て上げていた……ま、そういう“余裕のない時代”だった、って前置きよ」
ラヴェンナは喉を潤してから、話を続ける。
「そんな時、私たち魔女は……マナの流れに精通する者だから、魔物たちがどのようにして生まれるのかにいち早く気付くことができたわ」
「どうしてだったんですか?」
「“悪意”よ。理屈は省くけど、この世界は良い意味でも悪い意味でも、みんなのイメージした通りになるわ。これから素敵な未来が待っていると思えばそうなるし、反対のイメージを持っていればその通りになる。皆は、ボロボロの毎日を過ごす中で希望を見出せなくなっていた。いくら魔物を倒しても、人々の悪意は想像力を持って具現化する。夜の湖から這い出てきたり、洞穴の奥から現れたり……そして、人々は終わらない戦いの中でより疲弊していく。世代を経るごとに憎悪と偏見は強化される……」
「……どうやって、その状況をなんとかしたんですか」
「まあ、理屈としては簡単よ。みんなが悪いイメージに囚われていてそれが原因なのだとしたら、良いイメージに塗り替えてやればいい。それも、飛びっきりの出来事で、数年程度でも騙してやれば十分だった……」
「騙すってどうやって――え?」
「あら、何か思い当たることがある?」
「それは……」
「……」
「……“勇者”の、物語。修道院で何度も読み聞かせてもらった――」
「正解。もっと言えばこんな感じ……“悪い魔物は魔王が生み出し操っている。それを勇者が倒すから、決して希望を失ってはならない”、と言ったところね」
アレンの記憶で蘇ったのは、何度となく修道院で聞いた「勇者が魔王を倒しに行く」物語だ。そう、こんな吹雪の日は、子供たちが外に出て遊べないから退屈しのぎにアイリスたち修道女が本を読んでくれたのだ……
「“世界は、魔王が生み出した魔物によって支配されてしまいました。そして、人間たちもまた同じ人間同士で争い、世界は深い闇に包まれようとしています……そこへ、一人の勇気ある男の子が現れました。男の子は言います。僕が魔王を倒しに行くから、みんな、争うことをやめて! 人々は彼を勇者と称えて、その旅路を応援することにしたのです”」
「……僕が知っているものと、一緒だ」
「“そうして、ようやく魔王の元に辿り着いた勇者は、諸悪の根源である魔王を見事倒します。空に光が差し込み、暴れていた魔物たちが落ち着きを取り戻し始めました。長い苦難の時代が終わろうとしているのです。勇者は言いました。これからゆっくりと時間をかけてやり直そう。仲間と手を取り合い、未来が良くなるものと心から信じている限り、魔王はよみがえることはない、と……”」
「え、じゃあ、勇者と魔王って……ウソ?」
「ウソじゃないわよ。“そう呼ばれた人”は本当にいたわ。そうね……」
ラヴェンナはちょっとだけ考えを巡らせると、その辺に転がしてあった麺棒を取ってからアレンへ投げ渡した。
「わわっ――」
「今、貴方は“勇者”になったわ。おめでとうアレン、輝かしい冒険の始まりよ」
「へっ……え?」
「それで、貴方の倒すべき“魔王”が……この子」
「この子って……ぬいぐるみ?」
「さあ勇者、悪しき魔王がいるわ。その武器で諸悪の根源を討ち取りなさい」
「え、ええ、じゃあ――」
アレンは麺棒を両手で握ると、ちょっと優しく振って、最後はトン、とやわらかく――ぬいぐるみのミノタウロスくんに押し当てた。ラヴェンナの手に操られた「魔王」は両腕を振ってオーバーなリアクションを取り、黒魔女の両膝の上で後ろ向きにころんと転がって倒れる。
「ああなんてこと。ついに魔王が倒されたわ! このことを皆に伝えなきゃ!」
「ラヴェンナさん、どういうこと――」
「どういうことって、今やったことが全てよ。私は適当な勇者役と魔王役を見つけて、良い具合に場面を作って、魔王討伐の瞬間を演出した……それだけ」
「全部……ラヴェンナさんが、作ったんですか」
「言っておくけど、簡単ではなかったわよ。誰でも良かった訳じゃないの。勇者は“勇者になるべき人”じゃないといけないのよ。そうじゃないとみんなから信用してもらえない。魔王役だってこれぞって人を見つけるのに苦労したんだから」
「はあぁぁ……」
アレンは口をポカンと開け、まるで信じられない目でラヴェンナを見ていた。
「勇者が魔王を倒す物語をでっちあげて、それを人々が信じたことで、世界から悪意は有意に減ったわ。だから今のような平和があるの。そして私は他の魔女からこう呼ばれた……“幻想の大魔女 ラヴェンナ・フェイドリーム”って」
「ぁ……」
口をあんぐりと開けたままのアレン。
ラヴェンナは面白おかしく笑ってみせると、既に暗くなった外を見ては椅子から立ち上がってベッドまで歩いてくる。アレンは慌てて本を片付けた。
「さあ、昔話は終わりよ。そろそろ寝ましょう」
「あの……」
「なあに?」
「今の話って……本当の、本当ですか? いえ、疑ってる訳じゃないんですが」
ローブを脱いで寝る格好に変わったラヴェンナは、背中で質問を聞いた後も、何も言わずにベッドへ潜り込んだ。それにアレンが続くと、彼を優しく抱きしめながら、耳元で意地悪にささやきかける。
「さあ、どうかしら……もう随分昔のことだから、ウソをついちゃってるかも」
「っ……!?」
「いけないわよ、アレン。魔女は頭が良くて、狡猾な生き物なんだから。魔女のお話を全部鵜呑みにするなんて、それは、お馬鹿さんのすることよ……」
黒魔女はそう言い残して目を閉じ、一足先に眠りについた。
アレンは腕の中に抱えられながら天井に視線を逃がす。それでも心臓は早鐘のように鳴る。結局、身体が濃厚なバラの香りに慣れるくらいまで眠れなかった。