いまだ冬の寒さが続くストーンヘイヴンの午前。
サン・ブライト修道院の広間、暖炉のそばで椅子に腰掛けていたアイリスが、周りに集まる子供たちへ向けて絵本を読み聞かせていた。内容は間もなく終わろうとしていたところで、目をキラキラ輝かせる幼子たちの視線を受けながらアイリスは優しい笑顔で話を締める。
「……ということがあって、勇者たち一行は無事に魔王を倒して、世界に平和をもたらすことができました。人々はこれからも、皆で助け合い、思いやりの心を持って生きていくでしょう。めでたし、めでたし」
ぱたり、と本が閉じられた瞬間に広間のあちこちから小さく拍手が上がった。彼らの反応は様々だった。目の前で食い入るように身を乗り出していたり、窓の外を遠くぼんやりと見つめていたり、途中でうたた寝してしまったり……
「お昼ご飯の準備をしてきます。食べた後はお勉強の時間ですからね。それまで良い子にしていてください」
「「「はーい!」」」
アイリスたち修道女は立ち上がり、昼食の支度を手伝うために食堂へ向かう。厨房では他の者たちが調理の真っ最中だった。巨大な鍋の中では一口大にカットされた鶏肉や根菜がくつくつと音を立てて煮られ、そこで担当が二人、広く長いオールのような木へらを両手で持って、腰まで使いながらかき混ぜている。
「読み聞かせの方は終わりました。お昼ご飯の支度はどうですか」
「問題なく進んでおりますよ。アイリス様たちは戻ってきたばかりでしょうから先にお寛ぎください」
修道院の厨房は、食材を貯蔵する倉庫も含めて非常に広大に作られていた。
抱えているシスターと子供たちを賄うための料理ともなれば、一般的な家庭の何倍ものスペースと何倍もの大きさの鍋、そして膨大な手間が必要になる。ここまでにも、野菜を洗ったり、皮を剥いたり、手頃な大きさに切ったりと言う仕事があって、修道女たちはそれぞれ担当を決めて手際よく取り組んでいた。
調理だけではない。この場所では、それぞれ修道女たちが役割を担い、施設の運営と神への祈り、子供たちの保育と教育を担っている。先に「読み聞かせ」を済ませたアイリスたちは一足先に食堂へ向かっていった。
(皆さんに気遣っていただき、少しだけ休む時間を頂きました)
(後で子供たちも来ますから、今のうちに少し……)
食堂にやって来たアイリスは、普段自分が腰掛ける席を探してそこに腰を落ち着けた。長細い部屋にはテーブルが二列を作るように配置されて、白いクロスが敷かれた上に人数分の木皿とガラスのコップが並んでいる。アイリスが見つけたのは、長机が並ぶ部屋の端に置かれていた予備の丸椅子だった。
黒い頭巾に手を伸ばし、茶髪がこぼれすぎていないかを確認して前髪を直してから、そのまま両手をぐっと上げて肩と背中を柔らかくほぐす。この時ばかりは彼女も自然な表情へ変わっていた。目を瞑ったまま呼吸を整え、頭を落ち着かせながら次の出番に向けて安らぎの時間を過ごす。
(はぁ……)
(子供たちの相手をするのは、楽しいですけど、とても大変ですね)
(でも、あの子たちが安心して生活できるように、しっかりしないと……)
サン・ブライト修道院には何人もの修道女が務めている。しかしその中でも、アイリスの持つ職業意識は他の誰よりも強く気高いものだった。彼女は子供たちの前では決して不機嫌を露わにせず、あたたかい太陽のような微笑みを絶やさずに慈愛を振りまき続ける。
これはなかなかの偉業である。通常の「優しい人」を同じ場所へ連れてきたところで、子供らが指示を聞かなかったり、無知が故の過ちを犯したり、年頃故の純粋な悪意をぶつけたりしたとして、きっと一日二日で音を上げることだろう。しかしアイリスは違う。彼女の鋼の心はただでさえ強靱そのものだが、子供らの見えないところで休憩するのがこれまた実に上手だった。
(……そろそろですね?)
ふと思い至って、アイリスが天井へ意識を向けた瞬間、その向こう側から鐘の音が鳴り響いた。昼食の時間を知らせるものだった。
厨房に居た修道女たちが台車と木箱を持ってやってくる。台車は上中下の三段となり、その一段一段にスープの注がれた器とスプーンがあった。木箱には街のパン屋でつくられた黒パンが鮮やかな色合いで収まっていた。彼女たちは、席の一つ一つを回っては皿の上にパンを載せ、隣にスープを置いていった。中にはジャガイモ、にんじん、タマネギ、キャベツ、ベーコンが入り、若干のとろみがついてドロッとしたソースにも思える。最後にはたっぷりのミルクが入った瓶を持った者たちが現れ、テーブルのコップへ丁寧に注いでいった。
休憩を終わらせたアイリスはすぐに立ち上がり、彼女たちの支度が一段落したのを確認すると食堂の扉を開いて広間へ向かう。既に子供たちは鐘の音を聞いていたのか、廊下でそわそわと落ち着きなく待っていた。
「さあ、皆さん。お昼ご飯ですよ。お手を清めてから食堂へ入ってください」
「「「はーい!」」」
子供たちは元気よく返事をしてから手洗い場へ向かい、あらかじめ木桶に用意されていた綺麗な水を入れ物ですくっては、言われた通りにやって手を濡らして洗い清めた。それから、逸る気持ちを抑えるように小走りで食堂へ向かい、席について、食べて良いと合図されるまでの時間を待った。
席に着くべき者が全員そろった後は、担当の修道女が皆の前で決まった言葉を告げて、それから食事の時間となる。これは持ち回り制だった。今日のアイリスは子供たちに囲まれるように座って、彼らと一緒にその女性を見る。子供の中にはじっとスープを覗き込みながら辛抱強く待っている者もいた。
「では……今日も素晴らしい恵みに感謝して、“いただきます”」
場の全員が復唱。カチャカチャとスプーンを使う音があちこちで響き始めた。
やがてそれは喜びの唸り声へ塗り変わり、それもまた、子供たちの元気な会話と無邪気な反応に変わっていく。嫌いな野菜を食べてもらったり、牛乳をもらったりのやりとりも聞こえてくる……
◆ ◆ ◆
昼ご飯を食べた後は、一定以上の年齢になった子供らを部屋に集めて「勉強」の時間となる。まだ小さな子供たちが昼寝の時間を過ごしている中、大人へ近づいてきた子たちは、将来の仕事で役立つような知識をここで覚えていくのだ。
部屋には人数分の机と椅子が置かれ、それらの正面の壇にはアイリスが立っている。真面目な子たちは真剣なまなざしで彼女のことを眺めていた。一部の子は既にうつらうつらとし始めていた。
「さて、今日は数の計算を練習しましょう。これは普段の生活でとっても役に立ちますよ。大人になってもずっと使いますからね。では、そうですね……」
アイリスは膝を折って壇の下に隠れる。そして今度は一体のぬいぐるみと共に現れて、壇の上にちょこんと座らせてみせた。白いヤギの魔物と黒いヤギの魔物が一体ずつ、向き合うようにかわいらしく置かれる。二匹の間には、事前にアイリスが用意していたキャンディ包みが転がされていた。
「さてさて……白ヤギさんと黒ヤギさんはある日、他の魔物のお手伝いをして、そのお礼にキャンディを6個もらいました。ところが、お家に帰るまでの間に、黒ヤギさんは我慢できずに2個食べてしまいました!」
「わるいやつ!」
「いけないんだ!」
「それじゃあここで問題ですよ。いま、ヤギさんたちのキャンディは何個残っているでしょう? 分かった子は手を挙げてくださいね~」
部屋の中にいた子供たちのうち、何人かが自信に満ちた表情で手を真っ直ぐにしてみせた。それから少しだけ時間が経って、また何人かが手を挙げて、最後は全員が納得した様子で手をぴんと伸ばしていた。。
「うんうん……じゃあみんなで正解を言ってみましょう。せーの――」
「「「よんこ!」」」
「はーい、大正解! みなさんよくできましたね! では次の問題です……」
アイリスは壇上の小道具を整理し直した。白ヤギのぬいぐるみと黒ヤギのぬいぐるみが向かい合う間には、四個のキャンディだけが残されている。傍らには、黒ヤギが「食べてしまった」二個が別になるように寄せられていた。
「6個あったキャンディは、そのうち2個が食べられて、今は4個しか残っていません。お家に帰った後、白ヤギさんと黒ヤギさんは話し合いをしました。そして、あとで喧嘩にならないよう、キャンディを公平に分け合うことにしました。ここで問題……黒ヤギさんは、あと何個キャンディを食べられるでしょうか?」
問題を聞いた子供たちは渋い顔になって、うーんと頭を悩ませ始めた。
その中ですぐに手を挙げた男の子がいる。アイリスが反応する。
「はい、どうぞ」
「0個!」
「それはどうして?」
「悪いことしたから! 先に2個食べちゃったから!」
「あらあら……うふふ。確かに先に食べちゃったのは良くないですね? でも、だからと言って“それだけで"もう食べちゃダメなんて言ってしまったら、黒ヤギさんの方は悲しんでしまいます。もしかしたら、白ヤギさんと喧嘩になっちゃうかもしれませんよ?」
「うーっ……」
すると今度は別の子供が手を挙げた。
「はい、どうぞ」
「2個だと思う!」
「それはどうして?」
「いまは4個あるから、それを分けたら、2個と2個になる!」
「うんうん、いいアイデアですね。じゃあ分けてみましょう……」
アイリスは再びキャンディを動かし、黒ヤギと白ヤギがキャンディを二個ずつ持っている場面を作り出した。そして、白ヤギを持って僅かに下へ向かせる。
「さあ、これでキャンディを分けることができましたよ。でも……なんだか白ヤギさんがちょっとだけ悲しそうですね? どうしてでしょうか?」
「「えーっ?」」
「みなさん、思い出してみてください……黒ヤギさんはもう、キャンディを2個食べちゃってましたよね? この分け方だと、白ヤギさんはこう思うでしょう。“いいなぁ、ぼくよりも2個多く食べられて”って……」
子供たちはまた頭をうんうんと使って考え始める。アイリスはぬいぐるみの間にキャンディが6個になるように場面を戻した。
「まずは、白ヤギさんと黒ヤギさんが、本当は何個食べられたのかを計算しましょう。最初はキャンディが6個ありました。このまま2匹で分ければ……ほら、3個ずつになりますね?」
「あーっ!」
「つまり、どちらも3個ずつ食べれば喧嘩は起きません。でも黒ヤギさんは我慢できずに、先に2個を食べてしまいましたね? じゃあ、黒ヤギさんが食べられるキャンディは、残り……」
「「「1個っ!」」」
子供たちは元気な声で回答した。アイリスも満面の笑みで拍手する。
心なしか、壇上に座る2匹のぬいぐるみも嬉しそうに微笑んで見えた。
◆ ◆ ◆
……夜。自分の部屋で日誌を書いていたアイリスは、今日の内容を確認すると椅子に座ったまま伸びをした。今日のお仕事は終わりだ。
(ふーっ……ようやく終わりました)
(さて、そろそろ寝ましょう。そう言えば――)
夕方、他の修道女から「日頃のお礼」で小包を貰ったことを思い出す。その時に“あとで一人になった時に開けてください”と忠告されたものだ。机のランプを灯りに、静かにそれを確認してみると……
なんと、赤ワインの瓶が現れたではないか! かなり良い物だ!
「まあっ……な、なんてこと……!」
アイリスはすぐに包みを閉じるも……しばらくしてから、恐る恐る開け直して瓶をまじまじ見つめてしまう。その瞳が揺れて見えるのはランプの灯りがそのように見せているからだろうか?
包みには、ご丁寧にグラスの代わりとなる小さな容器もあった。修道女は最初それを見えないところに置こうとするも、手が勝手にそちらへ伸びてしまう……
(ああ、いけません!)
(子供たちが寝静まっているとは言え、夜中に一人で、このような愉しみ……)
(女神様、エレオラ様が見ておられます、どうか、どうか……)
アイリスは自らの信仰心へ訴えかけて衝動を抑えようとした。
だが――彼女の真後ろにふんわりとした風が吹く。そこに現れた女性は、白のキトン姿のまま身をかがめると、アイリスの耳元で意地悪にささやきかけた!
『あらあらアイリス、そんなものを持ち込んで、いけない子……』
「ああっ……そん、な……エレオラ、様……」
『飲んじゃう? 本当に飲んじゃう? アイリスは、我慢のできない子……?』
顔を引きつらせるアイリス。しかしその口元は甘美な誘惑に歪んでいた。赤色の芳醇な液は注がれ、やがて、敬虔な修道女の口内へ密かに流れ落ちていく……一日を頑張り通した彼女は懺悔の言葉と共に蕩け、容器を傾け始めた。
一口、二口。
アイリスの頬に紅が差し、身体の内側も不真面目な熱を帯びていった。
(こんなの、いけないことって、分かってるのに……止められない!)
(申し訳ございません、エレオラ様。どうか、今の私を、見ないで……!)
ごく――ごく。グラスが空になる。瓶が再び傾けられる。
女神は震えるアイリスに背後から絡みつくと、耳元で歯を見せて笑った。
(違うんです! これは一時の過ちです! どうかっ、お赦しください!)
(ああ、でも、ダメ……身体が、勝手に動いて、我慢できないっ……)