真冬の日、煙のような曇り空の下。太陽の輪郭がぼんやり見える中を、六台の馬車が真っ直ぐに列を成して進んでいた。蹄と木の車輪が厚く積もった雪の道を踏み固め、馬たちの口からは熱く白い息が吐き出されている。彼らの行く両脇には融けきらない雪が積もり、それは黒々とした森に突き当たるまで広大な雪原の景色を作っていた。
そして馬もまた、全身がふさふさした毛に覆われた珍しい身なりをしている。引かれているカゴはカボチャにも似た形の頑丈な作りで、煙突が備え付けられている。そこからは、一際濃い色の白煙がもくもくと上っていた。
そのカゴの一つで、二人の人物が対面で腰掛けながら揺られている。
一人はライラだ。彼女の白髪と褐色肌の殆どはごわごわとした上着とマフラーに隠れ、その透き通る黒目が窓の外をじっと眺めている。対面では、痩身の男が背中を丸めて座っていた。年齢を重ねて細くなった身体は膨らんだ上着に比べるとあまりに小さく映った。
「……しかしご老人、貴方は商人として、ノルドヴィクまで何度も往復しているのですよね。この時間は普段、どのように過ごされているのですか」
「ほっほ。そりゃ、お嬢ちゃんみたいな人から色々な話を聞いている」
「そうですか。では……何から話しましょう」
「なんでもよいぞ。そうじゃ、ライラ……と言ったな。なぜこのような時期に、わざわざノルドまで行こうと思ったのかね?」
ノルドヴィク。常に雪と氷で閉ざされた遙か北方の小さな村。そこへ至る道もまた身を縛り付けるような寒さだ。しかも真冬ともなれば、避けられぬ仕事でもない限り、正気の者は訪れようとも考えないだろう。
二人の間には簡易的な薪ストーブ缶が燃えていた。これのお陰でライラは暖が取れ、音も命もない極寒の世界でも寒さに凍えずに旅ができていた。
「……もっとも寒いであろう村の、もっとも寒い時期を経験しに」
「そりゃ変わっておるな! じゃが良いと思うぞ。経験に勝るものはない」
「ノルドでの面白い話があれば是非とも伺いたいです。特に魔物の話であれば」
「魔物か。うーむ……おっと」
老人の男はしばらく考えた末に、あることを思い出してからライラへ話した。
「あの辺りで、まれにな、吹雪の中で“大きな獣”が現れる……と聞く」
「大きな獣?」
ライラの目の色が変わった。落ち着いて尋ねようとする声だが、それに僅かながら力が籠っていた。老人の男はにこやかな笑みを浮かべ、話を続けた。
「全身が真っ白い体毛に覆われ、獰猛な牙を持った、人よりも大柄な獣……そう伝えられておるな。ある者は家畜を食われ、ある者は狩りの獲物を奪われ、ある者は命からがら逃げおおせた。だが、捕まえた話も、死骸を見つけた話も、今の今まで一つも聞かんわい」
「……それの、名前は?」
「村によって、人によって、いくつか別のものがある。最も有名なものは――」
老人はライラの瞳にぎらついた光を見ると、笑って、機嫌良さそうに告げた。
「――“
◆ ◆ ◆
隊商が目的の場所に着いた頃。空は灰色を塗り重ねたような厚雲に包まれて、ちらちらと雪も降っていた。ライラを乗せた馬車は「ノルドヴィク」と書かれた村の門を潜り、大きな倉庫の前でようやく停まる。
御者の男が降りても良いと声をかけてくれた。ライラは出る準備を整えながらふと、これまでずっと外で座り続けてきたこの男の境遇とその凄まじい忍耐力に思いを馳せていた。
「さ、ワシも仕事だ。嬢ちゃん、“魔物捜し”頑張ってな」
「ありがとうございます。貴方もお元気で……」
フードを被っていたライラは、返事をしながら扉を開けて――次の瞬間、流れ込んだ寒気が氷槍の如くして突き刺さる。眩しい外に出て視界も白く飛んだが、薄目のまま、この「ノルドヴィク」の姿を己の両眼へしっかと焼き付けた。
荘厳な雪景色と凍絶の海原。遙か向こうはすべて流氷によって塞がれている。海辺に建つ漁港では木造船が出番も無しに揺れ、縄で
近くには土と木で作られた手工業の建物が並ぶ。漁を終えた船が港へ戻って、女房たちが出てきては魚を受け取っていく……その様子が見えるようだ。周りに市場がつくられ、活気ある海岸を中心に戸建ての小屋がぽつぽつ点在している。ライラが立っていたのは、そんな集落のごく入り口であった。
振り返れば、先程の商人の男が倉庫の中へ挨拶をしに向かっていった。全くの新世界にしばらく浸ろうとした時――顔全体がバリバリに凍り付きそうなことに初めて気付き、慌てて馬車から自分の荷物を引っ張って宿屋を探し始める。
(うおおっ、寒い! 予想よりもずっと――ていうか、痛ぇ!)
(しかし、いいぞ。面白い! こりゃあ来て大正解だ……)
雪国を覚悟して厚着はしてきたものの、それさえも貫通しそうな大寒気だ。
濡れた物を置こうものなら、それはしばらくも経たない間に鋼のように凍ってしまうことだろう。鼻から下をマフラーに隠し直したライラは薄目のまま、この極北地帯に生えた漁村を歩いて行く。どこかで魚か獣を捌いているのか、生臭さと脂の臭いが鼻をついた。厳寒の辺境地において“命”を感じさせる、暖かくも逞しい濃厚な血の臭いだった。
……果たして、宿屋は分かりやすく大きな建物として村の入り口付近で見つけられた。中が酒場と一体になっているようだ。扉を開けると蒸留酒の香りが入口まで漂ってくるようで、ライラは酔わされる前にと、受付に立つ女房肌の店主へ声をかけた。名前を出せば、吹き抜けの二階に並ぶ個室の一つへ通してくれた。
「ライラさんの部屋は……ここだよ」
「ありがとうございます。一つ聞いてもですか?」
「構わんよ。何だい?」
「この付近で、イエティを見た者はいませんか?」
「イエティ? そんなもの――」
女店主が答えるよりも先のことだ。一階のテーブルで話を聞いていた男たちが反応して、我先にと野太く声を張り上げる!
「
「コイツまた酔って適当言ってるな。荷物引きの
「だが俺の親父……の友達が、狩ったアザラシを持ってかれたって聞くぜ」
「おれは考えたくもないね。吹雪で出くわしてみろ、そんときゃ終わりだ……」
嘘か本当かも分からぬことを言う男たちに女店主は心からの溜め息をつく。
「いやあ、すまないね。知ってたらあたしも教えてやりたいんだが」
「いえいえ、だからこそ来たんです」
「ん? あんたもしかして、あの化け物を探そうってのか?」
「そりゃもう!」
ライラが自信満々に胸を張ったらいよいよ男たちは騒がしくなった。それから彼女は玉石混交の――というか“石”ばかりの与太話を大量に浴びせかけられた。漁の少ない時期の男は、酒が入ると大変やかましくなるものだった。
◆ ◆ ◆
それから数日を、ライラは「ノルドヴィクの住人」として過ごした。逸る気持ちを抑えて女たちの仕事に混ざって、男たちが狩ってきたアザラシを捌く手伝いをした。半月型の鉈を操って皮を剥がし、有用な脂と肉を切り分けるのだ。ぬるぬると滑る血に手を汚していると、同じ作業場の女房たちが、この寒帯でどのように海獣を捕まえるか教えてくれた。
狩人たちはまず「氷に開いた小さな穴」を探すと言う。
「うちの旦那は歴が長いんだよ」
「ライラさんとこはどういう狩りをするんだい」
「まったく違うさ。あたしの故郷は砂ばかりで、大きな動物はいないんだ。それに死ぬほど暑い! 鉄鍋を置けば、昼間はそこで卵が焼けるだろうな」
「おいおい、まさか、冗談で言ってるんじゃないだろうね」
「砂ばかりねぇ。うーん、まるで想像できん。何もいないんじゃないかい」
「いいや、砂だらけの場所でも、ようく目をこらせば面白い生き物が見つかるんだよ……そうだ、このへんだと、イエティについて何か知ってないか?」
作業中にその「魔物」について尋ねてみると、女たちは顔を見合わせてから首を横に振った。あからさまな嫌悪感が顔に浮いていた。
「あんた、怖い物知らずだねぇ。縁起でも無いこと言うんじゃないよ」
「狩りに行って、戻らない男もいるんだ……不気味なのはカンベンだね」
「……そうか、すまなかった。もう少し配慮するべきだったな」
「まあ、どうしても知りたいなら、
「銀婆?」
女の一人がライラを――彼女の髪の毛を指さした。その人差し指は、今まさに捌いているアザラシの赤黒い血であたたかく濡れて光っていた。
「ちょうど、ライラさんと同じ髪色をしたお婆さんじゃ。何でも知っとるよ」
仕事を終えたライラは、皆の言う「銀婆」を求めてとある民家を訪ねていた。
手袋越しの潰れたノック音に「どうぞ」と返事を聞き、二重扉の玄関を通ってから中へ入る。外の痺れるような寒さから一転、嘘のような暖かさに思わず目を瞑ってしまう。
その家では暖炉の火がごうごうと燃え盛っていた。熱気は家全体に満ち満ちている様子で上着いらずだった。前髪に貼り付いていた雪が滴となって落ちる中、ライラは声の主を探して首を振る。
家の隅には本棚があり、周りでは子供たちが本の中身とにらめっこしている。そんな彼らの横で、白髪の老婆がロッキングチェアに腰掛け揺られていた。その年季の入った髪は光を受けると、輪郭を銀色に光らせたのだった。
「いらっしゃい、旅の人」
「……あなたが、“銀婆”ですか?」
「うんうん、そう呼ばれてるね。さ、座りなさい。ホットミルクを出すよ」
「ああ……ありがとう、ございます……」
ライラはやけに落ち着いた気持ちで椅子に腰掛けてみる。銀婆が背中を曲げて厨房へ向かう間、子供たちの読んでいる本に目を通していた。すると……
「……ん?」
「おねーちゃん、なあに?」
「おい待て、その本……」
子供に今読んでいる本の背表紙を見せてもらったライラはたちまち笑った。
間違えようがない! 前にライラが書いていた「魔物図鑑」だ!
「あたしの本じゃねえか! くうっ、こんな大陸の果てまで届いてるなんて!」
「ええっ! おねーちゃんが描いたの!?」
「すげー! 絵がかっこよくて好きなんだ!」
「もっとお話聞かせて!」
一躍子供たちの人気者となるライラ。彼らの対応に追われていると、飲み物を用意し終えた銀婆が戻ってきて彼らをなだめた。
「こらこら、お客さんを困らせてはいけません。しかし、奇妙な縁ですな。この村まで来て、何をお探しですか」
「あ……そうでした。私は、“イエティ”を調べているんです」
「あ、ぼく知ってる! 悪い子は夜中に連れてかれて、食べられちゃうって!」
「うむ、うむ、どこから話そうかねぇ……」
椅子に掛け直したライラはマグカップに注がれたミルクを貰い、口を付ける。たちまち凄まじい獣の香りが鼻を抜けた! 牛のものにはない野生味が、身体を漲らせてくれるようだ!
「っ――!?」
「
「あ、ありがとうございます。大丈夫です、最初だから驚いただけです」
「ほっほっほ。それで、イエティですが……」
「はい。イエティがどんなものか、見てやりたくて」
「なるほど」
彼女はライラの方をちらと向き、その瞳に宿る何かを真正面から捉えた。
「知らないことを知りたい気持ちは、止められないものね……」
銀婆は椅子を揺らすと、村に伝わる話を思い出しては一つ一つ話し始めた。
ライラはそれをメモに取り、あとで部屋に籠って考える為の材料とする……
◆ ◆ ◆
ノルドヴィクを訪れてから十日以上が過ぎた、ある夕暮れのこと。
ライラはその日、イエティの痕跡を求めて雪原に出張っていた。
村中の人々に聞いた情報を摺り合わせ、空想と真実、伝承と現実の狭間を縫って、魔物学者の勘で“ここだ”と範囲を絞った末の旅立ち……それからしばらくが経った後のことである。
しかし相手は、居るかも分からぬ大自然の脅威。かんじきを履いて意気揚々と村を出てから一日、二日、三日が溶けていく。ライラはその間、持ってきた食料と共に
(くそ……)
猟師から譲り受けてもらったアザラシを何カ所かのポイントで吊してもみた。しかし狙ったような結果は得られなかった。待っても、“それ”は来なかった。
ライラの意志は潰えないが、持ってきた食料と燃料には限りがある。どこかで戻らねばならない。自らの情熱にいったんの区切りをつけなければならない時が刻一刻と近づいてくる。
(明日だ。明日になったら、戻ろう……)
その晩は、目当ての魔物ではなく、空に見えたオーロラを書き記した。それも随分興味深い内容だったが、ライラの目に潜む狂気はまったく安らがなかった。
区切りの日は、朝っぱらから雲がどうにも不気味な色で広がっていた。ライラは何か嫌な予感を覚えながらも、アザラシ肉を吊った場所を最後に確認しようと雪を踏みしめ歩いていた。
道中、風が瞼を柔く叩く。ライラの身体は既に寒冷地に適応していたものの、そうであるが故に反応が少し遅れた。そのままアザラシ肉の場所へやってきた時に初めて、周りの木々の揺れ方で風の変化を悟ったのだ。
(げっ……吹雪いてくるぞ。まずい!)
(ここからなら……村の方が近いな。早く戻らないと!)
雪だるまになるだけならまだしも、下手を打てば死が訪れる。
ライラはすぐに頭の中で地図を広げ、集落のある方へ向かって歩き始めた。
(くっ……)
(もう少しだけ、天気、保ってくれ!)
雲は厚くなり、光は閉ざされる。遠くに浮かぶ灯りも風雪で徐々に見えなくなっていく。死神が迫ってくる。ライラは懸命に歩く。歩く。歩く……
……そこで。
目の前に、これから行こうとする方向とは直角を描くように進む、新しい足跡が続いているのを見つけた。
(……?)
始めはそれが何か分からず通り過ぎようとしたが、この極限状態にあっても、魔物学者としての勘が彼女を呼び戻す。
それは明らかに人のものより大きな足跡だった! そして、熊にしてはやけに人間くさい形をしていた。何より、こんな吹雪の中で作られたばかりの足跡だということがライラをひどく興奮させた!
(あった!)
当たりを引いたのだ! ライラはすぐにそれをスケッチしようとしたが、手足がかじかみ、羊皮紙と鉛筆を落としてしまった。それは雪の下へ紛れて消えた。
身体はもう限界ギリギリだ。
今でこそまだ立ち上がれているが、これもいつまで保つか分からない。
(……)
(…………っ!)
覚悟を決めたライラは、自らの左手を守っていた手袋を取り払った!
現れたのは、生まれて二十数年を共に生きてきた彼女の最も信頼する“定規”。それを足跡に添えるように並べ、いくつもの形で角度と比率を作り、その全てを自らの記憶へ叩き込んでいく。
ただでさえ極寒の大地だ、そのようなことをしていれば、身体の末端はすぐに使い物にならなくなる。最悪、青黒くなって二度と動かないこともある。しかしライラはそれでも、目の前の発見を見逃すことができなかった。
(……来た!)
(
既に風は強くなっている。帰りの方向を間違えないようにライラが向き直した瞬間のことだった。
遠くの吹雪く丘に、黒く大きな人影が立っていた。
「……!」
ライラの目がぎらりと輝き、その中に潜むものが歯を剥き出しにさせた!
既にそれは大量の雪と氷を纏い始めていたが、それでも指先に最後の力を込めて押し広げ、いくつかの長さを目で測る。吹雪の中に佇むそれは、まるでライラと遠くで見つめ合うようにじっと動かなかった。
(ようやく、見つけた――)
(おまえを……
すると別の方角から男たちの叫び声が聞こえてくる。
近くの民家に住む住人――酒場で見かけた漁師たちだ!
「おおぉぉい!」
「早く戻って来い! 死ぬつもりか、てめぇ!」
ライラは忠告を聞くとたちまち我に返り、すぐに集落まで走って帰った。
最後に一度振り返ったが……あの奇妙な影は、どこかへ消えてしまっていた。
◆ ◆ ◆
戻ってきたライラは全身に雪と氷を貼り付かせて、さながら怪物のような姿で宿屋の中へ転がり込んだ。一階の酒場にいた客たちはあまりの形相に飛び退いてテーブルを外してしまう。ライラはその空きスペースを奪い取ると、そこで予備の羊皮紙と鉛筆を引っ張り出した。
「はは……はははは! いたっ! いたぞっ! 見つけたぞおおおお!」
ライラは目をかっと開いたまま歯を見せて笑い、かじかむ右手に力を込めて、あの吹雪の中で見たものを線に起こし始めた。青くなっていた左手と記憶を頼りに彼女の集中は凄まじい速度でスケッチを描いて……
「……勝った!」
すべてが終わった後、ライラは叫んだ。
「勝ったぞ! ヤツの尻尾を掴んだ! どうだ参ったかっ、ざまあみやがれ! あっはっは! アァッハッハッハッハ……!」
その様子を見ていた酒飲みと女主人が恐る恐る近づいていこうとした時、力を出し切ったライラはぶっ倒れると、酒場の床に転がって伸びてしまった。
たちまち悲鳴が上がる。ライラはすぐに自室へ運ばれていった。幸いにも命と身体に別状はなかったが、ノルドを出るまでの間、暖かい部屋で安静にすることを言いつけられることとなる……
酒場のテーブルに残された羊皮紙には、あの奇妙奇天烈な足跡と、吹雪の中で佇む影が克明に記されていた。それはまさに、彼女のキャリアで最も熾烈な調査がもたらした一級品の成果だった。