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早春

第100話「“グランドウィーバー”」

 冬の最も厳しい時期を乗り越えたウィンデル集落は、この時期特有の不思議な空気に包まれていた。まだ春の陽気は遠いが大地のあちらこちらからは土が見えていて、そのほのかな香りを立ち上らせつつも、寒く乾いた空気が口に刺さってくるような心地をもたらしてくる。木々の影では気の早い新芽が出始め、これを求める人々が森や山へ潜り始める、そういう時期であった。


 厳寒が過ぎ去ったことは、特に、日頃から外へ出る者にとって朗報である。

 これからは徐々に暖かくなっていく……希望の春に向けて上向きになっていたのは行商人のセレスティアだった。今日も荷馬車にたっぷりの商品を詰め込み、自ら御者台へ腰掛けて馬を走らせ、ストーンヘイヴンの商工会本部からウィンデル方面へ向かっていく。

 日差しは薄いが悪くない天気だ。白いモコモコの上着で寒さ対策もよし……


(さあて、ラヴェンナは元気にしてるかしら~)

(家でゴロゴロしてばっかりじゃなければいいんだけど……あら?)


 辺境へ続く道を馬で行くことしばらく、セレスティアはこれから向かおうとしている先で、自分が乗るものと同じ荷馬車が一台、止まったまま動いていないのを見つけた。

 道の真ん中で立ち往生しているその近くでは御者の男が立っていて、なにやら先の様子を見ながらため息をついている。後からやって来たセレスティアが挨拶すると、彼はびっくりした顔で見上げながら今の状況を説明し始めた。


「セレスティア様! 申し訳ございません」

「いったいどうしちゃったの?」

「昨日おとといの雨で、道が泥沼のようにぬかるんでしまっているのです。普段はこのようなことはなかったはずなのですが、最近はあたたかくなって雪も融け始めていたので……」

「あらあら、私もちょっと見に行くわね」


 地面に降り立ち、向かってみれば、たしかにその通りになっていた。

 馬車が走るはずの道には広い水たまりと泥だまりができている。かたく踏みしめられていた土の道が雨雪でドロドロにとけ、濁った色のぬかるみが幅いっぱいに広がる中には、誰かが無理矢理通ったのか馬車の轍と馬の踏ん張った跡がはっきり残っていた。しかし、泥は粘性を持って、回転する車輪を追いかけるように持ち上がったものが高く波打ったまま、先人の悪戦苦闘の様を残していた。

 通れなくもないが、万が一この中から抜けられなくなれば更に大事になる……先を行こうとしていた男はため息をつきながら御者へ上ろうとしていた。引き返して、ストーンヘイヴンから応援人員を呼んでくるつもりだろう。


「申し訳ありません、すぐに誰か呼んできますので……」

「んーっ……」

「セレスティア様?」

「まあ、たまにならいいかしらね……大丈夫よ、ちょっと待ってて」


 春の近い泥の香りが漂う中、セレスティアは背伸びしながら自分の御者台に手を伸ばし、物干し竿と見まごう長さの「木の杖」を取り出した。地面を突くための先端は細く丸く作られている一方、反対側へ向かうにつれて杖身は膨らんで、ごつごつとした形になっている。

 セレスティアはそれを持って泥だまりの前に戻ってきた。御者の男が目を丸くしている横で呼吸を整え、困った有様を前に微笑んでから、右手に携えていた杖で地面をトンと軽く叩いてみせた。


「むんっ!」


 力が込められた瞬間、下の方から――地面の奥底から細やかな揺れが伝わってきた。それは次第に大きくなり、やがてぬかるんでいた道の真ん中にぱっくりと大きな亀裂を開く! まるで怪物の口である、その中へ溜まっていた泥水は流れ込んで、すり鉢状の蟻地獄地形を作り出した。

 大地に生まれた穴はしばらくの間、奥底からボコッ、ボコッと泡立つような音を立ててから、今度は徐々に土の塊を吐き出し始める。それは、みるみるうちに馬車道をほとんど平らにまで埋め直すと、最後は小さな揺れと地鳴りを起こし、何事も無かったような街道へ戻したのだった。


 水気を多く含んで手も足も出せなかったその場所は、ものの一刻もしないうちにカラカラに硬く締まった一本道へ整備されていた。セレスティアはにっこりと微笑んで御者の男に振り返った。彼は驚きのあまり、顎が外れんばかりの顔をして、わなわなと声を震わせながら感嘆の語調で声を漏らした。


大地を織る者グランドウィーバー……」

「うふふ、なつかしい名前ね。でも、今日は本当に特別よ?」


 道の脇に立ったセレスティアは唇に人差し指を立ててお茶目にウインクする。御者の男は自分の馬車へ戻ると、何度も礼を言いながら直された道を通って自分の向かうべき方向へ進んでいった。土はよく締められており、馬と荷馬車がその上を踏みつけてもびくともしなかった。



◆ ◆ ◆



 ラヴェンナはその日、特にすることもなくロッキングチェアに身を任せて優雅な時間を過ごしていた……テーブルに置かれた皿でクッキーが山を成しているのを横に、天井を見上げながらゆらゆら揺られていると、魔女小屋の扉がコンコンと丁寧にノックされた。音の主は続けてすぐに挨拶してくる。


「ラヴェンナ~!」

「どうぞ」

「はいはーい……」


 扉の影から現れた金髪の女商人、セレスティアは白いモコモコの上着を纏った姿で、いつものように冬用のトランクを引いて入ってきた。彼女は椅子に腰掛けると早速テーブルの上に積まれていたクッキーを一枚くわえ、家主が眉間に皺を寄せるのもまったく気にせずにトランクを両手で開ける。


ンンンンンンこれもらうね?」

「物くわえたまま話さないの」

「ンーッ……ン、ンンはい、これ


 セレスティアはいつも通りの品物――宣伝用のチーズや瓶詰め、魚醤の入った小瓶をテーブルに並べながらクッキーをもぐもぐ食べていたが、今日は何故か、いつになく落ち着いている様子だった。いや、落ち着いたと言うよりは、どこか疲れているような気配を見せている。

 彼女は甘味を味わいながら商品を出していたが、途中でスンとおとなしくなると、テーブルに両腕で枕を作ってうたた寝を始めてしまった。


「むにゃ……」

「ちょっと、どうしたのよ」

「ごめんラヴェンナ、なんだか眠くなっちゃった……むにゃむにゃ」

「いきなりなんなの――ああ、もしかして貴女」


 ラヴェンナには思い当たる節があった。商品が傷つかないよう一旦トランクへしまい、適当に引っかけていた換え用のローブを持ってきて、椅子に座ったままテーブルに突っ伏すセレスティアへそっと上からかけてあげた。

 眠りに入ってしまった彼女を見下ろしながら、ラヴェンナは随分と昔の記憶を思い返す。これはまだ、彼女と出会った頃のお話だ……




 当時、世界の各地には凶暴な魔物が溢れており、人間はかれらから逃れるために力を合わせ、街を作って暮らしていた。石を高く積み、夜も火を絶やさず警戒を続ける門では兵士が交代交代で見張りをしていて、その内側でのみ人々は平和を享受することができた……次に強大な魔物が災害の如く襲いかかる時までの、つかの間ではあったが。

 しかしどのような世界においても人間は娯楽を求める習性がある。街によっては酒と女、闘技場といった要素で市民たちのストレスを発散していたが、どこの場所でも広く浸透しているのは「買い物」で間違いなかった。珍しい素敵なものに囲まれ、欲しいものを選び、手に入れる体験は、凶暴な魔物との戦いで荒んだ世界における随一のお楽しみだった。


 ラヴェンナが「適任者」を探して各所の街を回っていた時の某日。魔物の群れに襲われそうになっている荷馬車と偶然出くわし、その撃退に手を貸したことがあった。

 日が暮れた直後、鬱蒼と茂る森の間を、ただの一つの護衛もなしに走って行く馬車はまるで車輪に火でも付けられたかのような勢いである。その後ろを人狼ウェアウルフが四匹駆け、さほど遠くないところで追跡している。箒に乗っていた魔女は木々の隙間からその様子を見つけると、すぐに高度を落として炎魔法で獣たちを諦めさせた。荷馬車の横につき、御者台を見れば、そこには往年の若々しい――いや、今とあんまり変わらない風貌の金髪の女商人が驚いた表情で馬を操っていた。


『まあ、貴女が追い払ってくれたの?』

『ええ。でもどうしてこんな時間に?』

『もちろん、荷物を待っている人がいるからよ』

『だったらついていくわ。次の街まで遠くはなかったはず……』


 彼女は名前をセレスティアと名乗った。しばらく併走して近場の街に辿り着いた後、二人は朝までの時間を共に過ごすことになる。街の商店に荷物を下ろし、すべての仕事を終えた彼女は、できたばかりの「商工会」が持つ小さな宿泊拠点にラヴェンナを通してくれた。

 以前の魔物の襲撃ですさみ、ボロボロになったのをセレスティアが買い取った部屋は、まだところどころに穴が空いていた。彼女が「ここを拠点に大きくしていくのよ!」と息巻いていたのをラヴェンナはハッキリと覚えている。部屋の中はフリージアの香りが染みついていた……花瓶の一つもないのに。


『にしても、素敵なバラの香りがするのね。ラヴェンナはやっぱり……』

『ええ、魔女よ。でも、そういうあなたこそ……』

『!』

『……大丈夫よ、別に言いふらしたりはしないから』


 確かこの時に「香水を付けると隠せて良い」と言った気がする……

 ともかくセレスティアは魔女の力に目覚めており、魔物に対抗する術を持っていたことから日暮れ後の強行軍に及んでいたのだ。彼女の荷馬車には街の人々を喜ばせるための商品が、それはもう山のように積まれていた。


『いつ頃から使えたかは知らないけど、私は、大地に干渉する力を使えるようになっていたの。この力を使って魔物と戦うだけじゃなく、馬車が通れるような道を作って、いくつもの交易路を築いたわ。がんばりすぎると、眠くなっちゃうんだけどね……』

『どうしてそこまで?』

『私が物を届けるのを待っている人がいるからよ……こんな世の中でも、交易はみんなを笑顔にしてくれるわ。いつかは大陸中の人々がお買い物を楽しめるようにするの!』


 その日は、ボロボロの商工会議所で二人、同じベッドで眠りについた。そして翌日以降、ラヴェンナは人捜しのついでに、彼女の行商ルートの確保を手伝いながら様々な街を回ることになった。

 ……これが、黒魔女の覚えている「セレスティア・グランドウィーバー」との出会い――今のストーンヘイヴンにおける、忘れられない思い出である。




 昼、魔女小屋の外では集落の子供たちが荷馬車の周りに集まっていた。近くにはラヴェンナが立ち、彼らがセレスティアの商品を荒らさないようにしっかりと目を光らせている。とは言え、皆は良い子であるため、ウィンデルの魔女であるラヴェンナと世間話をしたり、最近できるようになったことを自慢したりするだけで悪いことは何もなかった。

 後から魔女小屋の扉が開き、眠りから覚めたセレスティアが外に出てくる。

 空は綺麗に晴れ渡っていた。どこまでも続く爽快な青の下、子供たちは女商人の登場にきゃっきゃと沸き立ち、荷馬車の中を見せて欲しいとせがみ始める。


「セレスティアさん!」

「はやくはやく!」

「おもちゃ見せて!」

「まあまあ、元気な子たちね。いいわ、じゃあみんなで広場に行きましょうか。ラヴェンナ、もう行ってもいい?」

「ふふ、もちろん……」


 それからは皆でウィンデル集落の広場へ向かい、荷馬車を展開して色とりどりの商品を出してから、行商が来たことを知らせるラッパを吹いた。するとあちこちから人々が姿を現し、セレスティアの持ってきたものを見に集まってくる。


「わあっ、あたらしいカード!」

「うしさんのぬいぐるみもある!」

「まあ、ベリーのジャムがあるじゃないの!」

「まだ寒いし、薪をほんのちょっとだけ買い足そうかしら……」

「ううむ、お酒、お酒……」

「こんな田舎で色々見られるなんて、いつもありがたいねぇ」


 荷馬車の周りはガヤガヤ賑やかに変わり、来客は皆が商品の一つ一つへ夢中になっていく。セレスティアが忙しく取引し始めるのをラヴェンナは横から、穏やかな笑みで見守り続ける。

 これらの様子は、かつての彼女が夢として語っていた景色そのものであった。

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