日が傾き、地平線の向こうが燃えるような色に変わり始めた頃、ウィンデルの土地に妖しい風が吹き始めていた……集落の近くに止まった馬車はカトリーナを下ろした後、一見して何もない道を引き返して、ストーンヘイヴンの街に帰っていった。
カトリーナはすぐに行き慣れた魔女小屋へ向かう。赤紫色に染まる空の下で、ラヴェンナは雪の溶けきった庭で一人、目を瞑っていた。
「ラヴェンナ……」
魔女帽子とローブを纏ったシルエットが、ぼんやりした西日の赤と紫色の雲を背景に真っ黒に立っている。彼女は集落の広場へ続く方を見やっていたが、来客に気付くと、
いかにも魔女らしい立ち振る舞いだったからカトリーナは言葉に詰まった……十歩もない先にいる彼女が、この世ではないどこかから来た者のように思えた。
「……いらっしゃい、カトリーナ。もうすぐ出発するわよ」
「私たちの他に、行く人は」
「ロクサーヌとマリーも合わせて四人。去年の倍ね。既に門の準備はできているから、皆の準備が終わり次第出ましょう。貴女は……その格好でいい?」
「ああ、これで行く……」
魔女たちの集まりへ向かおうとしているカトリーナの出で立ちは、初めてこの場所を訪れた時と同じ騎士団のプレートアーマーとマント姿。彼女の仕事着だ。この姿で行くと言うことは、集まった者たちに「ストーンヘイヴンの騎士団長が魔女である」と示すのと同義だった。
ラヴェンナは返事を確認してからカトリーナへ近付き、背後にするっと回ってから両肩に手を置いて、唇を彼女の耳元へ近づけて囁きかける。
「っ、ラヴェンナ……?」
「今から大事な言葉を囁くわ。静かにして、ようく耳を澄ませて……」
それは、秘密の合言葉を伝えるかのようで――次にカトリーナが聞いたのは、まるで風そのものが喋りかけてくるような奇妙な発音だった。捉えどころもない言葉は耳から蛇のようにするりと流し込まれ、次第に、眼前の光景がゆらゆらと明滅して輪郭を失っていく。
「あっ……あぁぁぁあぁ……」
目が白黒して、耳がぼうっと塞がって、口からは訳も分からない声が漏れた。それでもラヴェンナはやめなかった。魔性の囁きがカトリーナの中でぐらぐらと何度も反響し、全身が波打って溶かされるような錯覚に陥らせる。
やがて――
すべてが終わった後、放心状態だった女騎士は、後ろから黒魔女に小突かれてようやく我に返った。いったい何だったのかと聞こうとした時、ふと、魔女小屋の近くに見慣れない「扉」が作られているのを見つける。
その扉は特筆するべきこともない、いたって普通のものだった。黒々とした木の板にはよくある握りが設けられて、機能はカトリーナも普段からよく知るものである。むしろ、いちいち説明するのがかえって煩雑になる程だ。
しかし、それが家の玄関や部屋の境ではなく、庭の真ん中にあった。
「あれは……」
「私たちの使う出入り口よ。見えているならうまくいったのね。あれは、魔女の特別な言葉を知っている人じゃなければ、認識することもできない扉。あそこをくぐった先が、“ワルプルギスの夜”に繋がっているわ」
「さっき聞かされたのが、その……」
「ええ。あれは人の認識を書き換える呪文よ。貴女も百年ぐらい生きた頃に意味が分かってくるかもね……」
奇妙なドアへ向かって二人で話をしていると、ストーンヘイヴンの方向から、何やら喋り続けている箒に跨がったマリーがすっ飛んできた。頃合いを同じくしてもう一軒の魔女小屋から白魔女のロクサーヌも姿を現す。
「すいません、遅れました! こらっホウキ、しずかにしなさい……」
「きっかり丁度よ、マリー。ロクサーヌも準備はできた?」
「はい、問題ありません。カトリーナ様もよろしいですか?」
「ああ……よろしく頼む」
「すっごく面白いですよー! 私もママと行くのは久しぶりです!」
三人の魔女はそれぞれ自前の箒を背負い、ローブの隙間に金銀を忍ばせて準備を済ませていた。カトリーナはほとんど手ぶらで若干寂しい気持ちになる。特に魔女のトレードマークたる箒がないのが大きいだろうか。
「私も後で乗り方を教えて貰おうかな……」
「ふふ、焦らなくても時間はたっぷりあるわよ。じゃ、行きましょうか」
四人は改めて例の“扉”の前に立った。
既に日は沈み、空全体が東から藍色に染められていく頃。ラヴェンナが先頭となってドアノブに手をかけ、その不思議な入り口を静かに開いた。一人、一人と入るのに合わせてカトリーナも続き、やがて最後にロクサーヌが来てから後ろ手に扉を閉めた。
「……!」
そこは一本の道だった。
両脇には黒々とした木々が茂ってせり出し、今後数百年をかけて天然のアーチでも作ろうとしているような様子だ。こちらの空は既に夜の帳が降りて、あちらこちらで小さな星の光が点々と広がっている。
そして……進んでいった先に大きなかがり火が見えた。周りには、三角帽子を被った女性たちが何人も往来している。各々のローブを纏い、飾り付けをして、自らのアイデンティティを曝け出す彼女たちは、まるでこの場所に自分が暮らす世界を着飾って持ってきたようだった。熱帯樹の葉飾りと独特の
カトリーナはまだ会場の全貌を見たわけではないものの、入り口に向かう前で口をあんぐりと開けるばかりだ。
振り返ったら、どこからともなく別の「魔女」がぬるっと現れては会場の方へ歩いて行く。見上げれば箒で行き来する者まで……それも一人二人ではない! ローブを纏った魔女が流星群のように会場へ飛んでいく。
ラヴェンナは彼女の初々しい反応を面白がってから呼びかける。そして特別な言葉を言うような雰囲気で両手を前に出してから、何でもなさそうに笑った。
「ようこそ、ワルプルギスの夜へ。ここではすべての魔女が歓迎されるわ」
◆ ◆ ◆
魔女という存在は誰かが定義したものではない。世界各所に生まれた不思議な力の持ち主の総称で、地域によっては固有の名前がついている場合もある。その突出した能力の種類によっては、ヒーラー、シャーマン、ネクロマンサーなどと呼び方も変わるが、魔法を行使する術と縁遠い通常の人々からは、これらが雑にくくられて「魔女」と呼ばれることも少なくなかった。
魔女は全世界的に、ごくありふれたようにパラパラと存在した。そういう環境ならば特別な力を持つ者同士で集まる「場」が生まれるのはもはや時間の問題で、彼女たちにとって時間は問題ではなかった……最初は数人、数十人の規模だった魔女集会はいまや、全世界の魔女たちが集う一大イベントとして毎年の楽しみになっていったのである。魔女たちは集まる場所そのものも魔法によって構築し、入り方さえ知っていれば誰でも入場できる「魔法界」とも言える不思議な世界が、これらの賑わいをすべて受け入れたのだった。
ラヴェンナたち三人がかがり火の広場まで歩いている中、カトリーナは始終、あちこち見回して物珍しい光景へ夢中になっていた。時々、鎧姿の彼女に興味を持った者が視線を投げかけてくると、カトリーナは慌ててラヴェンナたちの近くに戻って何事もなかった様子を作る。
「ラヴェンナ、ここからはどうする?」
「じゃあ、地図を見ながら話しましょう。確かこの辺に……」
一角には、誰かが設置したものであろう「ワルプルギスの夜」会場の見取り図があった。それによると、ここは主に四つのエリアに分かれているらしい。
ひとつは、いま彼女たちがいる「かがり火の広場」だ。ここは入退場口としての役割を果たすと同時に魔女たちの交流の場となっている。真ん中には大きな火が絶えず焚かれ続けて、その周りにあるいくつもの椅子や屋台を照らしていた。マリーは既に目をキラキラ輝かせながら「うほー!」と叫んでいる。
二つ目は、会場の西側に広がる広大な「ブラックマーケット」だ。これは魔女たちのフリーマーケットで、古今東西のありとあらゆる品が入り乱れる無法地帯として知られている。このワルプルギスの夜には希に魔女ではない人々や魔物も紛れ込むが、かれらが目当てにするのはまさにこのような場所にある特別な道具や珍しい素材なのだ。ロクサーヌは毎年ここで農業書や種を漁っている。
三つ目は、北側に設置された「催事場」だ。直近の予定表も書かれている……どうやら少し経った後で「魔女の箒レース」が行われるらしい。ありふれた競技からまるで聞いたこともない競技まで、活動的な魔女たちが集まって一年の成果をぶつけ合う場となっていた。ラヴェンナは会場を一通り回った後にここへ来るものの、箒には乗らず、もっぱら観客席で賭け事と食事を楽しんでいた。
最後――四つ目は、魔女たちが作ったグループ“カヴン”が拠点にできる建物が連なる「集会所」だ。この不思議な世界は魔女たちの隠れ家としての機能も果たしている。広い大地と海を隔てて生まれ、本来出会うことも無かったような魔女たちが意気投合した際の秘密基地をここに作ることができる。
「すごい場所だな。一晩で全部回れるのか……?」
「……実はね、あと何日分かはこの騒ぎが続くわ」
「何だって? それなら、騎士団にもう少し休むよう言えばよかったな」
「心配要りませんよ、カトリーナ様。こちらでは時間の流れがゆるやかなので、きっと一通り楽しめることと思います」
カトリーナは改めて地図板をじっと見て、どのエリアから行くか考え始めた。催事場での「魔女の箒レース」までは時間が空いている。向かうとしたらここはブラックマーケットになるだろう……その一帯を指さした。
「ここだ。ラヴェンナ、案内してくれるか?」
「勿論よ。まずは軽く全体を見て回りましょうか……あら、マリーは?」
「カトリーナさん!」
そう言えば会話に入ってこなかったとラヴェンナが周りを見た瞬間、遠くからマリーがカトリーナのところへ駆け寄ってくると、両手に持っていた何かを一本手渡してきた。
木か竹を削った太めの串棒に、やわらかく分厚いお肉が刺さっている。それは先端へ向かうにつれて徐々に先細り、最後は片方へくにゃりと曲がっていかにも特徴的な三角を作った。全体はいい焼き上がりの色で、甘さとスパイスの程よく効いた香りが鼻をくすぐってくる……
「これは……?」
「“巨大トカゲのしっぽ焼き”です! ワルプルギスならこれを食べなきゃ!」
ニコニコ笑みのマリーに見守られながら、カトリーナはおそるおそる口を付けてみる。ぷりっとしたお肉を噛みちぎった瞬間、肉の脂身とソースの風味が一気に弾けた。歯ごたえはゼリーと軟骨の中間で、これは癖になってしまいそうだ!
「んん……うまい……」
「でしょー! じゃあ私も食べちゃお。むぅ、さきっぽのカリカリ好き……♪」
「なんだか二人が食べてるのを見てると、こっちも欲しくなるわね」
「では買ってきましょうか。カトリーナ様とマリー様はここでお待ちください」
「ああ、わかった」
「はーい!」
ラヴェンナとロクサーヌが場を離れたあと、カトリーナはマリーと二人きりになった。一緒にしっぽ焼きを囓っていると、先にマリーの方が声をかけてくる。
「あの、普段はあんまり喋る機会は無いんですけど――」
「?」
「カトリーナさんは、いい魔女になれると思います。ほんとのほんとです。だって、ママの周りにいる人はみんないい人たちだから……これからもよろしくお願いしますね」
「……ああ、よろしく。年下の先輩というのには、まだ少し慣れないが」
「いいんですよ! 私だって、カッコいいお姉ちゃんができたような気分で……あ、ママがカッコ悪いって意味じゃなくて、えーっと、えーっと……」
話しているうちに二人はすっかり打ち解け、自然な様子で笑えるようになっていた。ラヴェンナとロクサーヌも戻ってきて、ブラックマーケットに向かうまでの軽い間食として“巨大トカゲのしっぽ焼き”を四人でモグモグし続ける。