「──いや、そこそこ酔ったね。日本酒は一合と少しで僕には足りているらしいよ」
「当たり前でしょうっ! 調子に乗って飲まなければ美味しいんですよ、先生」
こまねが管理してあげたおかげですね、と、そう笑う彼女の顔が、電灯の橙に灯されて綺麗だった。とうに更けてしまった宵の色を空模様に見ながら、少しだけ浮遊感のある足元をなんとか制御しつつ駅前の往来へと向かって歩く。夜の農村は街とはまた違った匂いだ。
「おかげさまで気分良く散歩が……あぁ、違う、調査ができたよ。ありがとう」
「いま散歩って言いましたよね……? いやまぁ散歩といえばそうなのですが……」
先生って好みの差で態度がはっきりしますよねぇ、なんて当たり前のことを言っている。結局のところ、僕はそういう人間なのだ。だから付き合う人を選ぶし、それに関してなんとも思わないような人は重宝する。こまねはきっと後者だ。僕が気を許せそうな唯一の相手だ。
「それはそれとして……村を一周しても怪しい影はなかったけれど、どうしようか」
「あやかしが犯人なら、人間に変化している以上、生身で外に居続けるのは厳しいですね」
「かといって化生の気配もなかった。山に逃げられてしまったかもしれないけれど」
──それが本当だとするならば、また別の意味で面倒なことになりそうだ。そんな予感の悪さを抱きながら、どこかを流れる用水路の水音に混じって、砂利を踏む靴音を聞く。ときおり耳元に絡みつく虫の羽音すら無視できないから、手を上げてまで振り払ってしまう。
「……この山の猫又は、基本的に群れで生活します。単独では動かないはずですし、まして人間に変化できるものは限られているんじゃないかと。よく村に降りているのかもですね」
「変化って要するに、人間の外見と行動を模倣できるだけの知能があるということでしょう? それがまだ未熟だとしたら、変化をしている状態でも凶暴化するのかい」
「……あり得なくはない、ですが、例としては知識がないのでなんとも言えないですね。ただ、こまねの時は大丈夫でした、とだけ。こまねは堂主に付きっきりでしたので」
そういえばすっかり思い至らなかったが、こまねも現状は変化しているのだ。ということは、変化を解けば元通りの猫又の姿になる。さぞ綺麗な白毛なのだろう。とはいっても、こんなところで見ても暗くてまったく分からない。今でさえ横顔も闇に煙っているのに。
……なんて、どうでもいいことを考えるくらいには暇を持て余し始め、また酔いの浮遊感を楽しんでいるらしい。我ながら呆れてしまったから、いきなり笑みをこぼした僕をこまねは怪訝そうに見る。その反応ひとつですらも満足なのだから、つくづく酔いとは変なものだ。
「それと……先生、ちょっとだけおかしなこと、言ってもいいですか?」
しばらくの無言が続いたあと、おずおずと切り出すように彼女は口を開く。僕はそれに微塵の疑いも持たないまま首を縦に振って、そっと続きを促した。安堵の笑みが小さく洩れる。
「その……このあたりで猫又といえば、こまねの身内であることは明らか、ですよね。もう何年も離れているので、お互いに顔も名前も知らないはずですが……恐らくは、です」
「そう、だね」
「だから、えっと……偶然でも出くわしてしまうのが気まずいな……と、思ったり。それに仲間が疎まれているのも、こまね自身の居場所がないと言われているみたいで、少し悲しいかな……って、思っちゃったり、してます。……考えすぎかもしれないんですけどね」
普段ならば言いもしないはずの弱音を聞かされて、少し面食らった。その動揺が彼女にも伝わっていたのか、こまねは我に返ったように慌てながら「今のは気にしないでください! こまねの独り言なので……」と必死に取り繕っている。そのまま歩調を早めて進もうとするのを、僕は背後から呼び止めた。せっかくの告白を、ないがしろにしたくなかったから。
固まりきらない言葉を少しでも早く吐き出そうとして、声が露骨に震えてしまう。
「その……君が僕に弱音を吐けるくらいになって、正直、安心しました。こまねには些細なことでも抱え込んでほしくないから、何かあったら言ってください。僕が寄り添います。居場所がないなんて、言わないでほしいので。……僕には頼れる相手が君しかいないんです」
そこまで触れて、自分が今、何を言ったのか一瞬だけ分からなくなった。それを彼女に告げるのが初めてかどうかも、すべて記憶しているはずなのに、一瞬だけ曖昧になった。
「……こまねよりもおかしなことをいきなり言いますね、先生は」
それが嬉し紛れのようにも、照れ隠しのようにも、或いは本当の困惑のようにさえ聞こえたのは──そんな僕の耳は、間違っていないだろうか。着物の裾を微かに撫でる尾の感触を感じながら、彼女の横顔を見る。けれど、こまねはそれ以上、何も言わなかった。でも、それでいいのだ。少しでも僕の想いが彼女に伝わっていれば、それだけで構わないのだから。
「あれっ──?」
駅前の往来に差し掛かった頃、隣を歩く彼女がふと立ち止まって耳を立てた。そのまま不思議そうに僕のほうへ視線をやると、「聞こえませんか? 動物が喧嘩しているみたいな」と確かめるみたく質問してくる。声のする方向に向かいながら耳を澄ませてみたところ、微かにそれらしきものが聞こえた。往来からは少し裏手、複数ある民家あたりのどこからしい。
「ふぅん……喧嘩か、或いは盛りの時期だからね。うるさくもなるんだろう」
「近くにお住まいの人間さんは大変ですねぇ……」
「丑三堂の真向かいの往来だって、そこそこ騒がしい気もするけどね」
これならさっさと宿に戻ろう、と僕は踵を返す。明るく返事をしたこまねを横目に往来へと戻ろうとした刹那、彼女がまた小さく悲鳴を上げた。なんだろうと訝しんだのも束の間、すぐ足元をばたばたと何かが駆け抜けていく。闇に融け込む毛並みに、煌めく双眸──一瞬だけ悪寒がしたから、それをすぐに追い払った。まったく夜にこれとは不気味なものだ。
「……少し驚いたね。黒猫だったよ」
「あぁ……夜道にいきなり出てくると怖いですよね」
「目が光っているから余計にね。昼間は可愛いのだけれど……」
どことなく早歩きで往来に戻ってから、外灯の明るさに安堵する。こまねも同じらしく、緊張が抜けたように笑いながら僕のほうを見ていた。どことなく最初に出張に行ったときを思い出す。怪異の話を聞いて、村へと向かう車の中で震えながら怯えていたっけか。
「……ふふっ」
「……? どうして先生まで笑うんですか」
「いや、なんでも」
──そんなことを考えていたら少し眠くなってきて、今夜はよく眠れる予感がした。
◇
それはいわゆる第六感というものなのかもしれなかった。こまねよりも僕が先に起きることなど今までなかったのに、つい今しがたこうやって──またも布団に手招くような睡魔もなく──起きられたのは、我ながら落ち着かない心地がする。眼鏡を掛けて手元の懐中時計を見ると、まだ六時にはなっていなかった。彼女も穏やかな寝顔をこちらに向けている。
「……変なものだね」
呟き、寝間着から着物に着替える。起床の時間にも朝食の時間にも早すぎるが、僕はひとまず受付の主人に断ってから宿を出た。どこに行くというあてもないが、寝起きのくせに冴え渡った目は見るものすべてを眩しく思わせた。閑散たる往来から仰ぐ快晴の朝空だった。
「……?」
昨夜に歩いてきた道を辿っていたところで、ふと何か違和感を覚える。通りから逸れた裏道の、ちょうど民家が建ち並ぶ場所。人の気配は薄く、雀のさえずるのどかな朝──なのだが、頬を撫でる風が、今日ばかりはいくらかぬるく、いくらか濁っているような気がした。
「……まさかね」
着物の裾を揺らしながら、農村にある昨日の家へ早足で向かおうとする。けれどその途中で気が付いた。空気は既にこの辺りから淀んでいる。そう直感するや否や肌の上を怖気が走り、脳裏にはあの時の黒猫がよぎった。踵を返して民家の合間を縫い進む。人の気配はない。近くを流れる用水路の水音だけが爽やかで、だんだんと息の詰まる臭気がしてきた。
「──うわあぁぁっ!」
「っ、ここか……!」
野太い男の悲鳴が聞こえたままに視線を向ける。やや小綺麗な民家の一軒、その庭先にある玄関から聞こえたと確信して僕は中に入ると、鼻を突く異臭にはすぐに気付けないままその惨状を視認した。台所で腰を抜かす巨漢の新聞配達員、硝子の割れた裏戸、そして──。
「……酷いものだね、これは」
──顔面の切り苛まれた老婦人の死体、そして血溜まりがそこにはあった。