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第70話 負けず嫌いの意地

「……中山?」


 ああもう。ほんと、何やってるんだろ。


 止める必要なんてこれっぽっちも無かった。大人しく新しいスプーンを貰って、それで解決だったのに。


「ちょっと、待ってよ。……とは、言ってない」


「なんだって?」


「だからッッ!!」


 たった一言。雨宮の放った言葉のほんの一部が、どうしてもスルーできなくて。


「嫌とは……言ってない、でしょ」


 そう、小さく呟いた。


 顔に熱が集まってくるのを感じる。私、今絶対顔真っ赤だ。


 こんな恥ずかしいこと、言いたくなかったのにな。けど、仕方ないよね。


 雨宮のやつ、″そんなに嫌なら″とか言うんだもん。


「そう、なのか? でもお前、間接キスは気にするって……」


「そ、それは言ったけど! 気にすると嫌がるは全然違うのっ!!」


 確かに私は、間接キスを気にするとは言った。


 でも、気にすると言っただけだ。別に嫌とか、そんなことは全く思ってなかった。


 だから、どうしてもそこを勘違いされたくはなかったのだ。それで思わず身体が動いてしまった。


 とはいえ、だ。


(ど、どうしよう。この状況)


 雨宮の腕を掴み、呼び鈴を鳴らすのをすんでのところで阻止したはいいものの。


 私はそこからどうしたらいいのか分からず、フリーズした。


 そしてそれは雨宮も同様。まあ当然だよね。当事者の私ですらどうしたらいいのか分からないんだから、雨宮はもっとなはず。


 私はこの場における最適解を自らキャンセルしてしまった。一度止めた手前、やっぱり新しいスプーンが欲しいなんて言えるはずもない。間接キスすることに対して嫌じゃないとも告げてしまったわけだし。


「……」


 すうっ、と小さく息を吸って。無理やり呼吸を整える。


 こうなったらもうーーーー選択肢は一つ、か。


「中山? えっと、つまりは……どうするんだ?」


「き、決まってるよ。別に嫌じゃないんだから。このスプーン使う!」


「なんか無理してないか?」


「してないっ!!」


 分かってる。私が間接キスを嫌だと思っていなかったことを証明するには、さっきの行動と言葉だけで充分。多分ここまでする必要ないって。


 けど、ここまで状況を拗らせたのは私だ。やっぱり今から新しいスプーンを貰います、自分のお箸で食べますってしたらいけない気がして。


 それに……


(なんかここで退いたら、負けたみたいだもん。そんなの絶対嫌!)


 長年陸上部に在籍して極度の負けず嫌いへと成長した私の心が、退くなと言っている。


 さっきはいきなりのことだからびっくりしちゃったけど、よくよく考えたら所詮相手は雨宮。こんな年上好きのチャラ男なんかとの間接キス如きでドキドキするはずがない。


 というか、していいはずがない。


 そう。本当にこんなの、なんでもない。ただ雨宮が口をつけたスプーンを使う。それだけのことだ。


 自分を言い聞かせ、改めてもう一度深呼吸。そしてゆっくりと、スプーンを手に取る。


 大丈夫。ドキドキなんてしてない。ちょっとまだ心臓がうるさいけれど、これはドキドキじゃなくて緊張だ。生まれて初めてのことをするから、身体が強張っているだけ。


「おい。マジで無理しなくていいんだぞ? 嫌がってなかったってのはちゃんと伝わったからさ」


「な、何回も言わせないでよ。こんなのへっちゃらだってば」


 よし。こういうのは勢いが大事。変に色々考え込んでしまう前にちゃっちゃと食べてしまおう。時間をかければかけるほど、変に緊張が高まって出来なくなっちゃう気がするしね。


 雨宮の視線をひしひしと感じながら。スプーンを、そっといくらの山に忍び込ませる。


 掬ったのは少し小さめの一口分。スプーンの腹の部分の大体前半分ぐらいが埋まるサイズ感だ。


 勢いが大事、なんて言っておいて。結局少しひよってしまった。まあでも何はともあれ、あとは食べるだけ。


「じゃあ……ひ、一口、貰うね」


 スプーンを上げ、いくらの乗った先端を口元へと近づける。


 少し、手先が震えていた。


 でも大丈夫。大丈夫だ。落ち着け私。


 幸いにも、と言うのは情けないけれど。乗っているいくらの量が少ないおかげでそれほど根本までスプーンを咥える必要は無くなった。


 口に含むのはせいぜい腹の部分の三分のニまで。こんなちょっとの浅い間接キス、やっぱりなんてことはない。


 1.軽く口先でスプーンに触れる

 2.乗ってるいくらを引き寄せるようにスライド

 3.そのまま口を離す


 工程はたったの三つだけだ。


 一度口さえつけてしまえば、あとはこっちのもの。そのまま素早く事を済ませてジ•エンド!


「んっ……」


 ゆっくりと、口を開く。


 現時点。恐らく、私の足跡で組んだ工程の理論は完璧だったように思う。


 自分を自分でしっかりと宥めたことで心の中での決心もついて、ゴールもしっかり思い描けていたからスタートの出来も悪くなく。そのままいけば、それこそドヤ顔で雨宮に丼の返却までできていたかもしれない。


 だけど、現実は残酷だ。


 本番というのは、どれだけ練習やシミュレーションを重ねてもその通りにはいかないもの。必ず何かしら、その場限りの変化やアクシデントが発生する。そのことは……嫌というほど、他でもない私自身が一番。身をもって知っていたはずなのに。


ーーーーカシャァァァァンッ!!


「へぷっ!?」


 勢い、という名の油断に誘われた、その瞬間。何か重いものが落ちて破裂したみたいな、甲高い爆音が耳に届いて。



 気づいた時にはもう、スプーンの先は……

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