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第86話 ご馳走お蕎麦

 ずずっ。ずずずっ。ずぞぞぞっ。


 少し遠くからそんな、麺を啜るような音が聞こえてくる。


「ぐーてんもるげん、しゅー君」


「……おう?」


 あれ? 俺、何か忘れてるような……


「えへへ。ねぼすけ彼氏さんを眺めながら啜るお蕎麦は格別♡」


「ねぼ、すけ……? あっ!?」


 がばっ! 妙に軽い身体を被っていた布団ごと起こし、そのままの勢いでスマホの電源をつける。


 ロック画面に表示された時刻は、十二時三十五分。


 ーーーー大寝坊である。


 そうだ。昨日ほとんど寝られなかった俺は一度リビングに降りて朝食を食べているコイツに出会い、なんやかんやとあって二度寝を決意して。このベッドへととんぼがえりしてきてしまったのだった。


 どおりで身体が軽いわけだ。スマホに反射した自分の顔も今朝と比べて随分と発色が良い。クマも取れている。


「すまん三葉。二度寝で爆睡しちゃってたか……」


「気にしないで。しゅー君が寝れてなかったのはあの顔を見れば一目瞭然だったから。お蕎麦食べる?」


「え? あ、あぁ。じゃあまあ、お言葉に甘えて」


「はい、あ〜ん。つゆが飛ばないよう気をつけてね」


「んっ……」


 差し出された箸の先に摘まれている数本のお蕎麦を、ずるっ、と音を立てて啜る。


 しっかりとめんつゆに浸してあったせいか、添えた自分の左手に水滴が飛んだ。だが幸い布団には付かなかったので、軽くティッシュで手だけ拭いて丸め、ゴミ箱に放る。


「気をつけて、って言ったのに」


「一滴も飛ばさないのは無理ゲーすぎるっての。布団に飛ばさなかっただけ偉いだろ」


「まあ……確かに」


 というか今、当たり前のようにあーんに応じてしまったな。


 しっかり六時間近く二度寝しても、やはり寝起きというのは頭がぼーっとしてしまうものだ。おかげで違和感すら抱くことができなかった。


「とりあえず一緒にお昼食べよ。しゅー君の分も一緒に用意して下に置いてるらしいから、取ってくる」


「マジか。助かる」


「ん」


 って、ちょっと待て。


 俺の分も始めから用意されてるなら、まるで「私のをわけてあげる」とでも言わんばかりだった今のあーんは必要なかったのでは……?


 なんて。そんなツッコミが思いついた時にはもう、三葉の影を追うことすらできなくなっていた。


 パタンっ、と扉が閉まるとともに室内が静寂に包まれると同時に、ため息が漏れる。


「はぁ……どうしたもんかな」


 やはり二度寝などするべきではなかったか。おかげで体調こそ回復したものの、大幅に予定が狂ってしまった。


 何がまずいって、少なくとももう図書館での勉強は難しくなってしまったことだ。


 元々俺たちが今日行こうとしていた図書館はうちの市で唯一なものだ。そのため平日から勉強する学生や読書する年配層がかなり多い。


 要はめちゃくちゃ混み合うのだ。そしてそれが今日みたいな週末なら尚更。


 だから俺たちは席取りのために集合時間を朝早くに設定していた。図書館が開くのは十時だから、せめてその三十分前くらいまでには並んでおこう、と。


 しかし現実には昼過ぎでも未だ寝巻きで、あろうことか急ぐこともせずに呑気にお蕎麦を啜ろうとする始末。


 いやまあ、正直今更焦ったところで一緒だから別にいいんだけどさ。多分全然起きない俺を見て三葉もそう感じ、ここでお昼ご飯を取ってから行くことに決めたのだろう。


 当然、この件に関して三葉は何も悪くない。全ての原因は俺の寝不足と二度寝による寝坊で……


「お待たせ。お茶も貰ってきた」


「悪いな。何から何まで」


「お礼はなでなで払いでお願い」


「はいはい。よろこんで」


 と、そんなことを考えていると、気づけば音も無く目の前のテーブルにお蕎麦とお茶が置かれていた。


 恐ろしく速いデリバリー。俺ですら見逃しちゃうね。


「ふにゃ……。やっぱりなでなで決済が一番。全国のお店で実装すればいいのに……」


「安心しろ。この行為に対価を払ってもいいと思ってるのは多分世界中探してもお前だけだから」


「そんなことない。大好きな彼氏さんのなでなでは万国共通で喜ばれるはず!」


「俺を大好きな彼氏さんと認識できるのもお前だけなんだよなぁ……」


 それから、しばらくなでなで決済を繰り返して。ようやく満足してくれた彼女さんと二人で座布団の上に腰を下ろし、いただきますをした。


 いつもは正午を回る前にはほぼ必ずと言っていいくらい昼食を済ませていたからな。この時間ともなると流石に空腹で限界だ。


「ずずっ」

「ずるるっ」


 さて。とはいえ、だ。お蕎麦を味わいながらのんびりしている場合ではない。


 今日はテスト前唯一の、そして勝負の土日なのだ。どうやら三葉は俺を待っていた午前中にも勉強を怠らなかったようだが、俺は違う。昨日の夜も勉強できなかった分、正直国語と社会のペースがかなり遅くなってしまっている。だからなんとかこの二日間で取り返さないと。


 とりあえず今日はこの後どうしようか。一旦図書館は見に行ってみるにしても、まあ間違いなく席は空いていないだろう。となれば他の選択肢で喫茶店やファミレス、フードコートあたりか? いっそのこと今日は外出を諦めるという手もあるが……。


「……やっぱ美味いな、母さんのお蕎麦」


「ね。毎日でも食べたいくらい」


 まあ、うん。一旦……一旦、な?



 ほら、せっかくの美味しい昼飯だからさ。考え事は……ご馳走様の後にしよう。

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