テスト期間における最も大事な二日間を終え、午前授業で僅か三限までの登校となった月曜日も、あっという間に過ぎていく。
そしていよいよ今日。運命のテスト初日がやってきた。
「はぁ……」
「ふももふも? んぐむももむもも」
「よぉし一言も伝わってこなかったぞぉ。ちゃんと飲み込んでから喋ろうなぁ」
ふふっ、となにか小動物でも見守る時のような、そんな笑みを浮かべる母さんの作った朝食を頬張りながら。三葉は大きなため息を吐く俺に、言葉にならない言葉で何かを伝えようとしてきたのだが。生憎と何を言っているのかさっぱりだったので、ひとまず牛乳の入ったコップを手渡して口の中の物を飲み込ませる。
そして、ごくんっ、と。その細い喉を咀嚼されたトーストが通っていく音がはっきりと聞こえてから改めて。三葉は口を開いた。
「どうしたの? 不安そうにして」
「そう言ってたのか。いやなぁ……考えても仕方ないってのは分かってるんだけど、やっぱり緊張してきてな」
不安要素は山のようにある。三葉と中山さんが赤点を回避できるのか、そもそも俺自身が変にしくじったりしないか。加えて、あのムカつくチャラ男に負ける点数にならないか、とか。
ひとまず初日となる今日に実施されるテストの教科は、国語と数学。個人的にはあまり心配している教科ではないんだけどな。それでもやはり初日というのは特段緊張するものだ。中学の時だってそうだった。
「相変わらず彼氏さんは心配性。そんなこと言って、これまで赤点取ったことないくせに」
「う、うるさいな。そういうお前はどうなんだ? なんか余裕そうだけど」
「ん、心配してない。彼氏さんにここまでつきっきりで先生してもらっておいて裏切るなんて、この彼女さんは絶対にしないから」
「ふふっ、愛ねぇ〜」
「むふんっ」
本当、その自信を俺にも少しくらい分けてほしいもんだ。
まあでも、その自信はきっとこれまでの努力に裏付けされたものなんだろうな。
この一週間、三葉はずっと頑張ってきた。苦手な理系教科も何度も俺に質問して少しずつでもしっかりと身にしていったし、元々ある程度できる文系教科も家での復習は怠っていない様子だった。
確かに、先生である俺から見ても三葉の赤点回避にはもはや疑いの余地も無い。あとはその自信を慢心に変えず、しっかりと百パーセントの力を本番で発揮してくれればなんら問題はないだろう。
「だからしゅー君も自信持って。こんなに自信満々な彼女さんを教えていた立派な彼氏さんなんだから。絶対に良い結果を出せる」
「……おう」
全く。恥ずかしい話だな。
勉強を教えるという立場上、そうやって元気づける役割をしなければいけなかったのは俺の方だというのに。
結果的に、俺が与えた分と同じくらいの……いや、それ以上のものを貰ってしまった。
「ありがとな、三葉」
大好きな彼女さんからの声援。これほどに勇気をもらえるものも、そうないだろう。
◇◆◇◆
午前八時、同時刻。この時、ラブラブカップル(仮)な二人が呑気に朝食を食べていることなんて知りもせずに。
「へへ、へへへっ。お゛えっ……」
「……はぁ」
俺、こと雨宮雄介は、目の前でエナジードリンクの過剰摂取をキメながらどんどんと顔色が悪くなっていく中山を見て、静かな教室に大きなため息を響かせていた。
「お前、寝てないだろ」
「ふふっ。もちのろん。寝てる暇なんて私にはないからねぇ」
「どおりで。エグい顔色してると思ったよ」
本人曰く。どうやら昨日は勉強に追われ過ぎて結局一睡もできず、今日に至るまでエナジードリンクという名の寿命の前借りをして一心不乱に手を動かし続けているらしい。
せめてテスト週間が始まったタイミングから勉強を始めていたらこうはなっていなかっただろうにな。俺に電話をかけてくるのがテスト四日前ってのもあまりに遅すぎた。
きっと俺と同じで、限界まで現実から目を逸らし続けたかったのか。正直気持ちは少し分かる。
しかし俺と違い、ここ数日のコイツの頑張り具合には目を見張るものがあった。良くも悪くもアスリート体質なのか。一度スイッチが入ってしまえば一直線なところは、流石と言わざるを得ないな。
「ったく。テスト中に倒れんなよ? 全部水の泡になっちまわないようにな」
「っ!? あ、ありがと。心配してくれるなんてたまには優しいじゃん……」
「は? 違うっての。″俺の苦労が″水の泡にならないようにしろ、って意味な」
「……そんなだからモテないんだよ?」
「るせぇ。別に麗美ちゃんせんせ以外からモテても仕方ないっての」
俺の悪態に、「あっそ」と呟いて。中山は再び真っ黒な左手で漢字の書き取りを繰り返す。
(心配……ねぇ)
少し言い過ぎただろうか、なんて。そんならしくない感情が芽生えたのは、このノートが視界に入ったせいだろうか。
見開きのページにシャーペンの芯が削れることで形作られていくそれは、不格好な漢字の数々。
どれを見ても、とてもじゃないが綺麗だなんて言えないような文字ばかりだけれど。筆圧が強かったり弱かったり、たまに文字にすらなっていなかったり。そんな不揃いの集合体だったからこそ。中山の熱量がこちらにはっきりと伝わってきてしまったのだ。
(チョロすぎだろ、俺)
どうやら俺は、自分が思っていた以上にこういうのに″当てられる″人間だったらしい。
まあでも、不思議と悪いようには感じない。それはきっとこの四日間、ただのバカだったコイツが少しずつでも勉強した内容を身につけ、そしてそれを忘れてしまわないよう必死に努力し続ける姿を隣で見続けたからか。
だから、この感情は自然なものだと。そう、自分に言い聞かせて。せめて一言くらいは、なんて口元が緩むと、つい無意識に。その言葉がこぼれ落ちていた。
「……頑張れよ、中山」