食後。
アザリンには「ちょっと出かけてくるからね。先にお風呂に入って、寝てていいよ」と告げた。
アザリンはちょっぴり不満そうだった。
「えー? きょうは、おじょうさまのおせなか、ながせないですか?」
わたしが小さい頃は、アザリンの母親のエイミが、長いこと、わたしの背中を流してくれていた。
その話を聞かされてたのか、一年前にわたしの専属となったアザリンも、やたらとそれをやりたがる。拒むのもかわいそうな気がして、ほぼ毎日、一緒に入浴してるのだけど……。
これがまた、昔のエイミより背中を流すの、上手だったりする。ほんと、メイドの天才なんだよね、この子。
でも今夜は駄目。すぐには戻れないだろうし。
「とても大事な用があるからね。今日は早めに休んでて。明日は、一緒にお風呂入ろうね」
そういって頭を撫でてあげると、アザリンも渋々ながら承知してくれた。
「わかりました。あしたは、ぜったいですよー?」
アザリンに見送られて自邸を出ると、もうすっかり日は暮れていた。
空は快晴。西天に、まんまるい大きな月が浮かんでいる。
さすが王都。日は暮れても、街路には魔力光の街灯が並んでいて、かなり明るい。
彼方を眺め渡せば、はるか街門から王城へかけて、大きな建造物が研を競うようにそびえ建ち、その窓々の灯火が、さながら壮大なイルミネーションのように連なり広がっている。
これが王都の夜景か。
いまわたしが立っているのは貴族街のはずれで、小高い丘の上。ここからは、ほぼ王都の全景が見渡せるのである。
右手に見える灯火のなかに、王立学園の学生寮もある。いまは、ルードビッヒもあそこにいるはずだ。今頃なにしてるのかな。お食事? それとも入浴中かなあ?
寮にはルームメイトとかもいるだろうから、ご学友さんたちと一緒に大浴場に浸かって、ふぅ……なんてひと息ついてたり?
ああ、想像したらなんか……絵面がっ、眼に浮かぶ! 脳裏にはっきりと見える! でも湯気が色々隠してる! なんて羨ましけしからん湯気! いっそわたしは湯気になりたいっ!
……いや、そうじゃなくて。
妄想してる場合じゃない。いまの案件が片付いてから、思う存分悶えましょう。そうしましょう。
さて、向かって左手側には、王立学園の灯火が見えている。わが家から徒歩十分という近場である。
さすがに、いま学園内にいるのは一部の教職員ぐらいだろうし、灯りもまばら。
その王立学園からやや離れた斜め後方一帯は、明かりも何も無く真っ暗。
あのあたりが、例の新学生寮建設現場のはずだ。ここから徒歩で十五分ってとこかな。
「よし」
わたしは例の眼鏡を取り出し、すちゃっと装着した。
基本的に、家の中でだけは眼鏡を外してるけど、それ以外は常時、これを着けて行動することにしている。
わたし自身の肉体に、とくに自覚できるような変化はない。あくまで他者の五感を欺き、「女生徒B」そっくりの容姿に見せかけているだけ。でも、地味で目立たないぶん、なにかと動きやすい。長年の経験から、そういうことを学んできている。
夜道をのんびりと歩き出す。
……まだ、あの一帯には足を運んだことがないので『転移』できないのである。ゆえに、直接行かなきゃならない。
なにも、こそこそする必要は無い。王立学園の一学生として、新学生寮を見学に行くのは、ごく当たり前のこと。
と、頭では理解してるのだけど。
ついつい周囲を警戒しながらの移動になってしまう。
ここはアルカポーネ領のような平和な田舎ではなく、王都。
どこから誰に見られてるか、何が潜んでるか、わかったものじゃないからね……。
一応、油断せずに行きましょう、ということで。
十五分後。
目的の建設現場へ到着。
この周辺は灯火もない。月明かりのおかげで、かろうじて足元が把握できる程度の薄暗がり。
念のため『暗視』を掛けて、視界を確保。
あたりに人影はない。さすがに夜は作業してないみたいだね。
建物へ歩み寄ってみる。予定では建物の周囲は煉瓦で舗装され、遊歩道として整備されることになってるし、男子寮と女子寮の間には芝生が敷かれて、立派な庭園になるという。まだそのへんは手付かずらしく、地面には砂利が敷かれている。
ゲームでは結局、完成しなかったんだよね、新学生寮。ルードビッヒと生徒会メンバーらの死亡直後、予定地は封鎖され、更地に戻されてしまった。
後日、主人公ルナちゃんが、第四王子アレクシスとともに、ここを訪れたときには、それはもう立派な石碑が祀られた慰霊廟になってたというね……。
地面はともかく、敷地内に大きく間隔を開けて並ぶ二棟の建物は、ほとんど出来上がってるみたい。まったく同じデザインで、どっちが男子寮でどっちが女子寮なのか、見分けはつかない。これから内装に着手、ってとこだろうか。
ものすっごく頑丈そうな石造建築。屋根や外壁のデザインなども凝っていて、そこらの大貴族のお屋敷にも全然見劣りしない絢爛豪華なつくりだ。。
この状態からいきなり自然に崩落ってのは、ちょっと考えにくいな。最初から設計に致命的欠陥があったか、もしくは後から人為的にそういう細工をするか、どちらかだね。
そんなことを考えながら、しばし周囲を歩き回って、建物を観察していると。
……わたしの『遠隔走査』に感あり。
誰かが、この敷地内に入り込んできたみたいだ。二人組。
こんな夜に、一体ここに何の用が? 怪しい。不審者だ。
それを言ったらわたしだって充分、不審者だけど。
いやわたしは見学に来ただけですから、怪しい者じゃありませんからノーカンですノーカン。
わたしは、ささっと建物の陰に隠れた。
さらに、念のため……。
『陰形』
魔法を発動。これは魔法による迷彩のようなもので、『認識阻害』より強力な眼くらましの効果により、自分の姿と気配をほぼ完璧に打ち消すことができる。かつてガミジンさんに教わった応用魔術のひとつだ。
二つの足音が、ゆっくり砂利を踏みしめ、建設現場へ近付いてくる。
月明かりに照らされた、その姿は……。
……ん?
王立学園の制服?
それも、女生徒の二人組?
どっちも、見覚えの無い顔。襟の徽章は、ともに赤の二本線。二年のBクラスだね。
いったい、こんなところで何をする気なのか。
もしや……あの二人、第二王子派の回し者?
ともあれ監視だな。
何者なのか、こっそり、じっくり、見極めないとね。