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第32話 激突両国

地平線に沈む夕日が、大地を血のように赤く染めていた。

ジュベルキン帝国軍の長い列が、静寂の中を進んでいく。

馬の蹄が硬い地面を叩き、荷車が軋む音が響くだけだった。

軍の先頭を行くのは、銀の鎧に身を包んだグレアスだった。

彼の目は、遠く広がる平原をじっと見据えている。

その視線の先には、もうすぐ姿を現すであろうロレアス王国軍が待ち受けている。

その後ろには、槍を掲げた兵士たちが歩調を合わせていた。

だが、その表情は一様ではない。

決意に燃える者もいれば、明らかに怯えた様子の若い兵士もいる。

中には初陣だという者も少なくなかった。

隊列の中にいた一人の若者、アルノは手にした槍を握りしめながら、隣を歩くベテラン兵に尋ねた。


「この戦争、すぐに終わると思いますか?」


隣の兵士、グスタフはしばらく黙っていたが、低い声で答えた。


「戦争に『すぐ』なんて言葉はないさ。終わるのは俺たちが全員倒れるか、敵が全滅するかのどっちかだ」


その言葉に、アルノの顔から血の気が引いた。


「でも……僕たちは正義のために戦っている。だからきっと勝てますよね?」


グスタフは苦笑いを浮かべた。


「正義だと?それは旗の下に立つ者が決めることだ。この戦場にいる限り、正義も悪も関係ない。ただ、生きるか死ぬかだ」


進軍を続ける一行が、やがて通りかかったのは、すでに住民が去ったと思われる小さな村だった。

家々は崩れ落ち、煙の匂いがまだ漂っていた。

荷車に積まれていたはずの物資はすべて消え、散乱した鍋や壊れた家具だけが残されている。

グレアスは馬を止め、副官のエリオットに尋ねた。


「ここにいたのは、避難民か?」


エリオットは首を振った。


「避難民の村にしては痕跡が荒れすぎています。略奪された可能性が高いでしょう」


その言葉に、グレアスは顔を曇らせた。

彼は馬から降り、一軒の家の前で立ち止まった。

地面には小さな手形がついた乾いた泥が残されていた。

逃げ惑う子供が転んだのだろうか。

その時、兵士の一人が叫んだ。


「殿下! 井戸の中を……」


グレアスが急いで向かうと、井戸の底には何かが浮かんでいた。

暗闇の中にかろうじて見えるのは、ぼろ切れのようになった人間の衣服。

おそらく、村人の遺体だ。


「……野蛮なことを」


グレアスは拳を固く握りしめた。

罪なき人々が殺され、その命が粗末に扱われる現実を目の当たりにするたび、彼の中の怒りと無力感が募っていく。

─────────────────────

夜明け前、ジュベルキン帝国軍は、ロレアス王国軍が待ち構える丘の麓に到達した。

霧が立ち込め、敵の姿はかすんで見えない。

だが、斥候からの報告では、ロレアス軍の布陣は間違いなく丘の上に展開されているとのことだった。

グレアスは、指揮官たちを前に地図を広げ、静かな声で命令を下した。


「敵は高地を占拠している。この地形では正面から攻めれば損害が出る。我々は左右から回り込み、側面を突く。一方は陽動として正面を攻める。準備が整い次第、突撃命令を待て」


彼の冷静な声が、少しでも兵たちの不安を和らげた。

誰もがこの戦いの行方を案じていたが、グレアスの堂々とした態度は一筋の希望の光となっていた。


─────────────────────

ロレアス軍の陣地は、木製の防壁や簡易的なバリケードで覆われていた。

その中で、ジュエルドが敵軍を見下ろしながら立っていた。

彼の顔には焦りの色が浮かんでいるものの、それを無理に隠そうとしている。


「奴らが攻めてくるのは時間の問題だ。全軍に警戒を怠らぬように命じろ」


彼の隣に控えていた部下が頭を下げて命令を伝える。

その背中を見送りながら、ジュエルドは心の中で呟いた。


「こんなことになるなら……クレアとの婚約を破棄するべきではなかったのか?」


その思考を振り払うように、彼は胸の内で自分を叱責する。


「いや、全ては帝国が悪いのだ。彼らがこの王国を脅かしてきたせいで、私がこうせざるを得なかったのだ」

─────────────────────

最初の矢が放たれたのは、朝霧が晴れ始めた頃だった。

丘の上から飛んできた矢が、ジュベルキン帝国軍の前列に突き刺さる。

悲鳴が上がり、兵士たちは盾を掲げて身を守った。


「盾を上げろ! 前進!」


副官のエリオットが怒声を張り上げる。

兵士たちは恐怖に顔を歪めながらも命令に従い、前へ進んだ。

その時、グレアスの声が響き渡った。


「落ち着け! 矢に怯むな! 敵の顔を見て戦え!」


彼の指揮に応じるように、帝国軍の弓兵たちが反撃の矢を放った。

空を黒く塗りつぶすように放たれた矢は、丘の上のロレアス軍に降り注いだ。

防壁を越えた矢がいくつか敵兵に命中し、断末魔の叫び声が聞こえた。


「突撃準備! 槍兵、前進!」


グレアスが剣を抜き、馬を走らせる。

彼の周囲には親衛隊が盾を構えながら付き従っていた。

正面攻撃の陽動部隊がロレアス軍の注意を引きつける一方で、両翼から回り込んだ帝国軍が敵陣地の側面を攻撃した。

突然の側面攻撃にロレアス軍は混乱し、隊列が崩れ始めた。

戦場は次第に混沌と化していった。

剣と剣がぶつかり合う音、槍が鎧を貫く音、そして兵士たちの叫び声が響き渡る。


「くそ……! 俺の腕が……!」


若い兵士が血を流しながら倒れる。

それを見た仲間が彼を引きずろうとするが、すぐに敵の剣が彼の背中を貫いた。


一方、ロレアス軍の中にも同じような光景が広がっていた。


「持ちこたえろ! 敵を押し返せ!」


指揮官の声が響くが、その言葉も届かぬほど戦場は混沌としていた。

戦いの最中、年老いた農夫と思われる男が戦場の外れで膝をついていた。

彼の周囲には、村の家族と思われる遺体が転がっていた。

男は震える手で家族の顔を撫でながら、涙を流していた。


「なぜ……なぜこんなことに……」


彼の声は、誰にも届くことはなかった。

その横を、敵味方の兵士が何も気にせず駆け抜けていく。

戦争がもたらすのは、命のやり取りだけではない。

その裏で犠牲になる者たちの姿が、誰にも気に留められることはない。


─────────────────────


戦いが一旦収束した夜、ロレアス軍は起死回生を図り、夜襲を仕掛けた。

眠っていたジュベルキン帝国軍の兵士たちは、突然の攻撃に驚き、慌てて武器を取った。


「起きろ! 敵が来た!」


エリオットが声を張り上げる。

グレアスも素早く起き上がり、剣を握って部下を鼓舞した。


「冷静に対処しろ! 夜だからと恐れるな!」


しかし、暗闇の中での戦闘は予想以上に難しかった。

味方の兵士同士が誤って斬り合う場面もあった。

ロレアス軍の奇襲はある程度の成功を収めたものの、やがて体勢を立て直した帝国軍に押し返される。

夜襲が終わり、戦場に薄明かりが差し込む頃、両軍は疲労困憊の中で次の戦闘への準備を進めていた。

帝国軍の兵士たちは防御陣を整え、敵の再攻撃に備えていたが、疲労の色は隠しきれない。

グレアス自身も疲れを感じつつ、馬に跨がり陣地を見回っていた。


「昨夜の奇襲で何人の犠牲者が出た?」


彼は副官のエリオットに問いかける。


「軽傷者を含めて約三百人です。重傷者は運び出しましたが、命の保証は難しい者もいます……」


エリオットの顔には深い苦悩が刻まれていた。

グレアスはその言葉を聞いて眉を寄せ、深いため息をついた。


「兵たちを休ませる時間が欲しいが、敵は待ってくれないだろうな」


彼は遠くの丘を見上げた。

まだ完全には見えないが、ロレアス軍の旗がかすかに揺れているのがわかった。

その光景が、じわじわと重圧となって胸にのしかかる。

─────────────────────

一方、ロレアス軍ではジュエルドが苛立ちを隠しきれずにいた。

昨夜の夜襲が完全な成功を収めなかったことに対する怒りが彼の中で燃えていた。


「なぜあれほど準備をしたにもかかわらず、敵を殲滅できなかったのだ!」


彼は指揮官たちに怒鳴りつけた。


「申し訳ありません、陛下……敵軍の反応が予想以上に早く、勢いを削がれてしまいました……」


一人の指揮官が頭を下げながら答える。


「言い訳は聞きたくない!」


ジュエルドはその場にあった酒瓶を床に叩きつけた。


「帝国の兵を叩き潰さなければ、我が国の未来はないのだぞ!」


その言葉を聞いて、誰もが息を飲んだ。

ジュエルドの背後には焦燥感が見え隠れしていた。

内政の混乱を戦争によって覆い隠そうとしている彼の目論見が、徐々に追い詰められているのを側近たちは感じていた。

その日、帝国軍とロレアス軍の間で一触即発の緊張感が漂っていた。

どちらが先に攻撃を仕掛けるのか、互いに探り合うような空気だった。

グレアスは兵士たちの前に立ち、静かに声を上げた。


「兵士たちよ、今日という日は、この戦いの天王山となる。我らが勝てば、家族のもとに帰れる日が近づく。だが、負ければ……」


彼は一瞬、言葉を切り、兵士たちを見回した。


「負ければ、この地に我らの屍が晒される。それを許すな。我らは帝国の誇りを背負っている。皆の力を一つにし、必ず勝利を掴み取るぞ!」


彼の言葉に、兵士たちは力強く剣を掲げ、士気を高めた。

午前中、両軍の偵察隊が交戦したのを皮切りに、大規模な戦闘が再び始まった。

丘のふもとでは、帝国軍の歩兵とロレアス軍の騎兵が激しく衝突し、両軍の死傷者が次々と増えていった。

矢が雨のように降り注ぎ、槍がぶつかり合い、血と泥が戦場を覆い尽くす。

戦場に立ち込める硝煙と血の匂いが、兵士たちの恐怖を一層際立たせた。


「前へ進め! 敵の陣を突破しろ!」


グレアスは自ら馬を駆りながら、兵士たちを鼓舞していた。

一方、ロレアス軍の指揮官も必死に兵士たちを奮い立たせる。


「陛下のために! ロレアス王国の未来のために命を捧げよ!」


両軍のぶつかり合いは熾烈を極め、どちらも一歩も引くことなく激しい戦闘を続けた。

戦場の端では、若い帝国軍の兵士が槍を持ちながら怯えていた。

彼の前には、血にまみれた敵兵が倒れている。

彼は震える手で槍を構えたが、一歩も動けなかった。


「どうして……俺は何をしているんだ……」


彼の後ろから、同じ部隊の兵士が声をかける。


「怯むな! 俺たちがやらなきゃ、国が滅びるんだぞ!」


その言葉に彼は力を振り絞り、前へ進もうとするが、その瞬間、横から飛び出した敵兵の剣が彼の体を貫いた。

戦闘は次第に両軍の損害を拡大させていったが、どちらも決定的な勝利を掴むことはできなかった。

その中で、ジュエルドは最後の一押しとして総攻撃を指示する。


「すべての兵力を前線に投入せよ! 帝国軍を一掃するのだ!」


その命令が下された瞬間、ロレアス軍は再び動き出した。

それを察知したグレアスは、冷静に指揮官たちに指示を出す。


「敵が総攻撃を仕掛けてきた。だが、ここで踏ん張れば彼らの勢いを殺せる。全軍、耐えろ! 必ず勝機が訪れる!」


激しい戦闘が日暮れまで続いた。

帝国軍とロレアス軍は、互いに一歩も引かず、戦場は血の海と化していた。

しかし、両軍ともに疲弊が極限に達し、次第に勢いを失っていく。

夜の帳が降りるころ、戦局を左右する決定的な局面が訪れた。


─────────────────────


グレアスは戦況を冷静に見極めていた。


「敵は焦っている。この総攻撃に全力を注いでいるが、兵の疲れは明らかだ。ここで反撃に出れば、奴らの戦列を崩せる」


彼は副官のエリオットに命じた。


「精鋭部隊を連れて敵の中央に突撃する。私も出る」

「陛下、それは危険すぎます!」


エリオットは制止しようとしたが、グレアスの目は既に戦いを決意していた。


「帝国の未来を守るためだ。兵たちを奮い立たせるには、私が先頭に立つしかない」


グレアスは白馬にまたがり、剣を掲げる。

彼の姿を見た兵士たちは、士気を取り戻したかのように歓声を上げる。


「全軍、前進!」


グレアスの号令とともに、帝国軍は統率の取れた反撃を開始した。

槍兵たちが敵の前線を押し返し、騎兵部隊が側面から突撃する。

グレアス自らが剣を振り、敵兵を薙ぎ倒していく。

その勇姿は、疲れ果てていた帝国軍の兵士たちに再び戦う力を与えた。

一方、ロレアス軍は崩壊の兆しを見せ始めていた。

総攻撃に全兵力を注ぎ込んだため、後方の防御が手薄になり、帝国軍の反撃に対応できなくなっていた。


「なぜ押し返されているのだ!?」


ジュエルドは前線からの報告を聞いて激昂した。


「帝国軍が反撃を開始しました!中央が突破されつつあります!」


部下の報告に、ジュエルドは顔を歪める。


「全兵力を集結させて中央を守れ! 私が直接指揮を執る!」


彼は自ら前線に立つ決意をしたが、その頃には既にロレアス軍の士気は低下していた。

混乱した兵士たちは命令に従えず、後退する者も現れ始める。

帝国軍はグレアスの指揮のもと、ロレアス軍の中央部を突破することに成功した。


「今が勝機だ! 一気に攻め込め!」


グレアスの声が戦場に響く。

騎兵隊が敵陣を切り裂き、歩兵が追撃に加わる。

ロレアス軍の陣形は完全に崩壊し、兵士たちは次々と戦場を離脱していった。

ジュエルドもまた、退却を余儀なくされた。彼は部下に囲まれながら馬に乗り、敗走する兵たちを見て、悔しさに拳を震わせる。


「こんなはずではなかった……。なぜ、なぜだ……!」


戦いは帝国軍の勝利に終わったが、その代償はあまりにも大きかった。

両軍の死傷者数は膨大で、戦場には無数の遺体が横たわり、負傷者たちの苦痛の叫びが響いていた。

グレアスは戦場を見渡しながら、深いため息をつく。


「これが戦争の現実か……。勝利したとはいえ、この犠牲をどう正当化すればいいのだ」


彼は剣を鞘に収め、静かに馬を進めた。

兵士たちは歓声を上げていたが、彼の心には重い罪悪感がのしかかっていた。


「戦いは終わった。しかし、この先の平和を築く責任は、さらに重いものになるだろう」


敗走したジュエルド王は、自国へと戻る途中で馬車の中にいた。


「ここの戦いには負けたが……切り札はこちらにある」


ジュエルドはニヤリと笑っていた。


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