目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第33話 令嬢人質


屋敷に静けさが訪れていた。

それは平和の証ではなく、嵐の前の静けさだった。

グレアスたちが戦場に向かったその夜、クレアはミーシャと共に静かに屋敷で過ごしていた。

だが、その平穏は長くは続かなかった。


「ミーシャ、今日は少し静かすぎると思いませんか?」


クレアが窓の外を見ながらつぶやく。

庭もいつもと違い、見張りの兵士たちの気配が薄かった。


「確かに、妙ですね……確認して参ります。クレア様はここでお待ちください」


ミーシャは不安そうな表情を浮かべながら部屋を出て行った。

クレアはミーシャの背中を見送りつつ、胸に湧き上がる不安を抑えようとしていた。

だが、その不安は次第に確信へと変わっていく。

廊下の方から聞こえてきたのは、かすかな物音───そして、何かが倒れる音だった。


「ミーシャ?」


クレアは椅子から立ち上がり、声を上げる。

しかし返事はない。

静寂だけが耳を打つ。

突然、扉が勢いよく開け放たれた。

クレアが反射的に振り向くと、見知らぬ男たちが部屋に侵入してきた。

武装した彼らの姿に、クレアは瞬時に悟った。


「……ジュエルド様の手の者ですね」


男たちは無言で部屋の中に入ってくる。

冷たく無表情なその目には、明確な敵意が宿っていた。


「お静かに、クレア嬢。無用な抵抗はしない方がいい」


ひとりの男が低い声で言い放つ。


「誰がそんな指図に従うと思っているんですか?」


クレアは背筋を伸ばし、毅然とした態度を見せるが、男たちは彼女の意思を嘲笑うように近づいてきた。


「クレア様!」


廊下からミーシャが駆け込んできた。

だが、その瞬間、別の男が現れて彼女の後頭部を強打した。


「ミーシャ!」


クレアが叫ぶ間もなく、ミーシャは床に崩れ落ちる。


「ご安心を、死んではいません。ただ少し眠ってもらっただけです」


男が冷笑を浮かべながら言う。

怒りと恐怖が入り混じる中、クレアは視線を男たちに向けた。


「これがあなたたちのやり方ですか?卑怯極まりないですね」

「卑怯だろうと何だろうと、命令に従うだけだ」


男たちは冷酷に答え、彼女の言葉を無視して屋敷の残りの者たちを手際よく気絶させていった。

ほどなくして、屋敷の中は完全な沈黙に包まれた。

ミーシャを含む全員が気絶させられ、クレアだけが取り残された。

男たちは彼女を取り囲むように立ち、じっと見下ろす。


「さて、クレア様。これからお連れいただく場所がある。どうぞおとなしくしていただきたい」

「何が目的なんですか?」


クレアは視線を逸らさずに問う。


「そんなことを聞く必要はない。ただ、あなたをジュエルド王の元へ連れて行く。それだけだ」


言葉は冷たく、そこに感情は感じられなかった。

クレアは拳を握りしめた。

自分が連れて行かれれば、グレアスや帝国の足枷になることは明白だ。

だが、武装した男たちに囲まれて、彼女がどう抵抗できるというのか。

しかし、クレアは諦めなかった。


「簡単に従うと思わないでください」


彼女は机の上にあったペーパーウェイトを掴み、近づいてきた男に向かって投げつけた。


「無駄だ!」


男たちは彼女を押さえつけようと動くが、クレアは全力で抵抗する。

掴まれた腕を振り払おうとし、身をよじって逃れようとした。


「やる気があるようだな。だが、逃げられると思うなよ」


ひとりの男が冷たい笑みを浮かべる。

彼らの人数と力の差は歴然としていた。

しかし、クレアの瞳には恐怖以上に強い決意が宿っていた。


「私を連れて行ったとして、あなたたちが無事で済むと思っているんですか?」


彼女の言葉には、相手を震え上がらせるような鋭さがあった。

一瞬の隙を見て、クレアは再び反撃に出た。

テーブルを蹴り倒し、男たちの視界を遮った隙に、部屋の奥へと走る。

だが、彼女を追う男たちの足音がすぐに迫る。クレアは心の中で叫んだ。


「(グレアス様、早く帰ってきてください!)」


部屋の静けさが、かえって恐怖を煽る。

ジュエルドの手の者たちはクレアを囲み、その中心に立つ男が冷たい目で彼女を見下ろしていた。

彼の唇が動き、鋭く突き刺さるような声が放たれる。


「従うんだ、クレア嬢。さもなくば、この屋敷にいる者たち全員の命を奪わせてもらう」


その言葉に、クレアの背筋が凍った。

彼らの目には迷いがなかった。

交渉する余地はない。

抵抗すれば、ここで全員が命を落とす。

それだけは避けなければならない。


「……そこまでしなくてもいいじゃないですか」


クレアの声は震えながらも、彼女の目には決意が宿っていた。


「約束してください。おとなしく従えば、誰も傷つけないのですね?」


彼女は一歩前に出ると、男を見据えた。


「もちろんだ、クレア嬢。ただし、逆らえばどうなるかは分かっているだろう?」


男は嘲笑を浮かべながら、仲間に目配せをした。

武器を構えた数人がわざと床を重く踏み鳴らし、威圧する。

クレアは拳を強く握りしめた。

心の中で何度もミーシャや他の使用人たちの顔を思い浮かべる。

この状況で自分が反抗することで、彼らが犠牲になることは許されない。

その時、クレアの背後から弱々しい声が聞こえた。


「クレア……様……」


振り返ると、気絶していたはずのミーシャがよろよろと立ち上がっていた。

額から血を流しながら、彼女はクレアのもとへと歩み寄ろうとしていた。


「駄目です、クレア様!行かないで……私たちでどうにか……」


その声は震えていたが、ミーシャの瞳には必死の思いが込められていた。


「ミーシャ……」


クレアは苦しそうに呟いた。

だが、男たちの一人が素早くミーシャに近づき、その背中を強く押した。

ミーシャは再び倒れ込みそうになったが、歯を食いしばりながら立ち直ろうとする。


「ミーシャ、もういいのです」


クレアはミーシャの前に立ち、そっと彼女の肩に手を置いた。


「でも、クレア様!」

「大丈夫ですから。ごめんなさいね……」


クレアは静かに謝罪の言葉を告げると、振り返ることなく男たちの方へ歩き出した。

その姿を見て、ミーシャは再び力を振り絞ろうとしたが、限界が近かった。

身体が言うことを聞かず、ついに彼女は床に崩れ落ちた。


「クレア様……行かないで……」


ミーシャの呟きが、薄れゆく意識の中で消えていった。

男たちはクレアを取り囲みながら、彼女の腕を掴む。

そのまま彼女を連れ出そうとするが、クレアは一瞬、彼らを制した。


「手を触れないでください。自分で歩きます」


その毅然とした態度に、男たちは少し戸惑いながらも手を離す。

クレアは振り返らないように強く心を決めた。

もしここで一度でも振り向けば、彼女の心は折れてしまうだろう。

彼女は自分の足で歩みを進め、屋敷を後にする。

屋敷の中には深い静寂が戻っていた。

だが、それは平和の静けさではなく、嵐のような喧騒の後に残された虚無だった。

気絶したままのミーシャや他の使用人たちは、クレアがいなくなったことに気づくこともできなかった。

クレアが連れ去られたという事実だけが、そこに確かに存在していた。

─────────────────────

戦場の喧騒を遠ざけ、ようやく屋敷に帰還したグレアスの胸には疲労とわずかな安堵が入り混じっていた。

だが、その感情は屋敷の中庭に倒れ込むメイドたちの姿を目にした瞬間、無惨に打ち砕かれた。


「どういうことだ……?」


彼は迷う暇もなく馬を飛び降り、兵士たちに命令を飛ばした。


「全員の容態を確認しろ!意識を取り戻させるんだ!」


兵士たちが駆け出すのと同時に、グレアスも屋敷内に入る。

廊下に散らばった使用人たちは皆、気絶しており、誰一人として動く気配がない。

そして、彼の目が探すその人───クレアの姿だけがどこにも見当たらなかった。


「クレア……どこにいるんだ……」


焦燥に駆られた彼は手当たり次第に扉を開け、隅々まで確認するが、彼女の気配は一切感じられない。

胸の奥で鼓動が早まる。

嫌な予感が頭をかすめ、彼は廊下の壁を拳で叩いた。

それから数時間が経ち、屋敷内の気絶していた使用人たちが少しずつ目を覚まし始めた。

庭に横たわっていたメイドたちも、兵士たちの介抱で意識を取り戻しつつあったが、皆疲労困憊の様子で、まともに話せる者はいなかった。

やがて、クレアの専属メイドであるミーシャが息をつきながら、ゆっくりと目を開けた。

彼女の最初の言葉は、愛する主人の名を叫ぶものだった。


「クレア様……!」


グレアスはすぐに駆け寄り、彼女を支えながら椅子に座らせた。

ミーシャは苦しそうに体を起こし、辺りを見回す。


「ミーシャ、無理をするな。だが、何が起きたのか教えてくれ」


グレアスの声は冷静を装っていたが、その瞳は彼女の言葉を切実に求めていた。



ミーシャは顔を歪め、震える声で話し始めた。


「数時間前のことです……突然、屋敷に侵入者が現れました。彼らは……とても訓練された動きで……私たちは次々と倒されて……」


彼女の瞳が潤み、言葉が詰まる。

その姿に、グレアスは歯を食いしばりながら問いかけた。


「クレアはどうした?彼女は無事なのか?」


その問いに、ミーシャは肩を震わせながら答えた。


「クレア様は……私たちを守るために、侵入者たちに従いました。『従わなければ、この屋敷の全員を殺す』と脅され……クレア様は……私に謝罪の言葉を残して……ついていかれました……」


彼女の言葉が終わると同時に、グレアスは拳を握りしめた。

強く握られたその拳からは、血が滲み出ている。

彼女がどんな思いで従ったのか、彼には容易に想像できた。


「どの方向へ行った?奴らの特徴は?」


彼は問いを重ねたが、ミーシャは首を振る。


「それが……気を失っていた私には……」


グレアスは深く息を吸い、冷静を取り戻そうと努めた。

しかし、その胸の奥には怒りの炎が燃え盛っていた。


「クレアを連れ去った者たちは……ジュエルドの手の者かもしれない。」


彼は小さく呟くと、立ち上がった。

兵士たちを招集し、厳しい口調で命令を下す。


「至急、侵入者の痕跡を洗い出せ。目撃情報があればすべて報告しろ。隅々まで調べるんだ。」

「「「はっ!」」」


兵士たちは一斉に敬礼し、すぐに動き始めた。

ミーシャの手をそっと握り、グレアスは静かに告げた。


「ミーシャ、君が無事で良かった。だが、俺はクレアを見つけ出すまで絶対に諦めない。だから安心して休んでいてくれ。」


彼女は涙を流しながら頷いた。

屋敷の広間に戻ったグレアスは、すでに集まっていた数人の信頼できる部下たちを前に、静かに話を切り出した。


「これからクレアを取り戻すための行動を開始する。敵がどんな手を使おうとも、俺たちには必ず突破口があるはずだ」


彼の言葉に、全員が力強く頷いた。

ジュベルキン帝国の兵士たちは、ただの主従関係を超えた絆で結ばれていた。

彼らもまた、クレアという存在に深い敬意を抱いていたのだ。


「準備を整えろ。時間が惜しい」


グレアスの命令が下ると、兵士たちは迅速に動き始めた。

その背中を見送る彼の瞳には、決意と怒りが入り混じった光が宿っていた。


「クレア……絶対に助け出す。そして、奴らにこの報いを受けさせる。」


グレアスは心の中でそう誓い、剣の柄に手を伸ばした。

その握りは、これまでになく力強く、確固たるものだった。

─────────────────────

数日後、屋敷の緊張が張り詰める中、ロレアス王国から一通の使者が現れた。

グレアスは広間で手紙を受け取ると、誰も寄せつけないようにその場で封を開け、中を確認する。

彼の目に映ったのは、ロレアス王国の紋章とともに書かれた、一片の容赦もない脅迫文だった。

『ジュベルキン帝国摂政グレアス殿へ。

クレア嬢は我々ロレアス王国の保護下にある。彼女の命の保証は、貴殿の決断次第だ。我が王国への侵略行為を即刻中止し、軍を撤退させよ。従わぬ場合、クレア嬢に何が起きるか保証はできない。 ご判断をお待ち申し上げる』


その文章を読み終えた瞬間、グレアスの手が震えた。

怒りに目がかすむ。彼は手紙をぐしゃぐしゃに握りつぶし、広間の石床に叩きつける。


「奴ら……卑怯な真似を……!」


拳が音を立てて机を叩き、衝撃で近くの書類が散らばる。

ロレアス王国がこれほどまでに下劣な手段を使ってくるとは予想していなかった。

グレアスは広間の壁に向かって立ち尽くしたまま、こみ上げる怒りを抑えきれなかった。

クレアの顔が脳裏に浮かぶ。

優しい笑顔、困ったように笑う仕草、そしてあの日彼女が連れ去られたことを思い出すと、全身が痛むような感覚に襲われた。


「俺たちを挑発するために……クレアを人質に取るだと?」


彼の声には冷静さが完全に失われていた。

ロレアス王国は戦争で追い詰められた末に、こんな手を使うしかなかったのだ。

それが見え透いているだけに、余計に怒りが募る。


「降伏しろだと? ふざけるな……!」


しばらくして、グレアスの側近であるダリオンが彼の様子を見に入ってきた。

手紙が床に散らばっているのを見て、それを拾い上げ、黙読する。

その顔が瞬く間に険しくなった。


「なんという卑劣な……グレアス様、いかがなさいますか?」


グレアスは息を荒らげながら、側近を見つめた。


「……あの卑怯者どもがどれほど浅はかなことをしているか、見せつけてやるだけだ。」

「ですが、クレア様の安全が……」


ダリオンの言葉に、グレアスは一瞬言葉を失った。

確かに、彼の怒りだけで突き進むわけにはいかない。

何よりも彼女の命が最優先だ。


「……わかっている。」


彼は静かに言葉を紡ぐと、深く息を吐き出した。


「だが、奴らの要求に従えば、クレアが帰ってくる保証もない。いや、それどころか、この帝国が奴らの思惑に翻弄されることになる」


グレアスは肩の力を抜き、手紙をもう一度手に取った。

くしゃくしゃになった紙を広げながら、彼は静かに呟く。


「俺がすべきは降伏ではない。クレアを取り戻し、この戦争に終止符を打つことだ。」


ダリオンは目を細め、彼の決意を察した。


「では、どう動くおつもりですか?」

「まずは情報を集める。クレアがどこに囚われているか、奴らの動きを完全に把握するんだ。その上で、ロレアス王国を叩き潰す計画を立てる」


彼の声には揺るぎない力強さが戻っていた。

ダリオンもまた、その意志に呼応するように頷いた。


「かしこまりました。私も全力で協力いたします」


その後、グレアスは信頼のおける兵士たちを招集し、ロレアス王国の動きを監視する特別部隊を編成した。

彼らに与えられた任務は、クレアの居場所を特定し、可能であれば救出作戦を立案すること。

同時に、戦場での配置を見直し、敵国がこの機を利用してどんな攻撃を仕掛けてくるかも想定した防衛線を築き始めた。

彼にとって戦争はあくまで手段に過ぎず、最終的な目的はクレアを無事に取り戻すことにあった。


「待っていろ、クレア……必ず助けに行く。」


そう誓ったグレアスの胸には、怒りと愛情、そして冷徹な決断力が渦巻いていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?