クレアは冷たい石造りの部屋に座り込んでいた。
窓もなく、唯一の光源は天井から垂れ下がるぼんやりとした魔石の灯りだけだった。
その明かりは空間を暗く陰鬱な雰囲気に包み込み、彼女の不安をさらに煽っているようだった。
足元には薄い毛布が敷かれているが、それもほとんど役に立たない。
壁に背を預けると、冷たい感触がじわりと体に染み渡った。
手首には重々しい枷がはめられており、彼女の動きを制限している。
「……どうしてこんなことに……」
誰にも届かない小さな声で呟く。
屋敷で襲撃を受けたあの夜を思い出すたび、胸が苦しくなる。
ミーシャの叫び声、自分を守ろうとして気絶させられたメイドたちの姿。
あの光景が何度も脳裏をよぎった。
脅迫の言葉を思い出す。
『従わなければ、屋敷の者全員を殺す』
その言葉に逆らうことはできなかった。
もしも自分が抵抗したせいで、大切な人たちが傷つくのなら──そう考えると、全身がすくんでしまった。
連れ去られた後、クレアの生活は完全に制限されたものだった。
食事は日に二度、パンとスープだけが差し入れられる。
味気ないそれを口にするたび、心に浮かぶのはジュベルキン帝国で過ごした日々のことだった。
庭で育てた野菜や穀物、ミーシャやグレアスとともに笑いながら囲んだ食卓。
「あの温かさは、もう戻らないのでしょうか……?」
つぶやく声が震える。
喉の奥がひりつき、胸が締め付けられる。
部屋の隅には硬い寝台が置かれているが、夜になると不安でなかなか眠ることができない。
冷たい石の部屋にこだまするのは、自分の小さな吐息と、時折遠くから聞こえる警備兵の足音だけだった。
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そんなある日、ドアがぎいっと音を立てて開いた。
現れたのは、見知らぬ男だった。
ロレアス王国の軍服を着たその男は、嫌味な笑みを浮かべている。
「お目覚めか、ジュベルキン帝国の姫君よ。」
「……何の用ですか?」
クレアは怯えを押し殺しながら尋ねた。
男は悠然と歩み寄り、彼女の目の前にしゃがみ込む。
冷たい視線で彼女を値踏みするように見つめた後、軽く鼻を鳴らす。
「用があるかどうかなんて、お前が気にすることじゃない。ただ、お前がこの部屋から出られる日は、我々が決める。それだけだ」
その言葉に、クレアは眉をひそめた。
「……私をここに閉じ込めて何をするつもりですか?グレアス様を脅すためですか?」
「ほう、賢い娘だな。その通りだ」
男は薄笑いを浮かべながら立ち上がった。
「だが、脅しが効かなければどうなるか……お前も分かっているだろう?」
男の言葉に冷たい汗が流れる。
クレアは手首に嵌められた枷を無意識に握りしめた。
「大人しくしていろ。それが、お前にできる唯一のことだ。」
そう言い残して、男は部屋を出て行った。
ドアが閉まる音が響き、再び静寂が訪れる。
クレアは膝を抱えながら、天井を見上げた。
彼女を取り巻く状況は絶望的だった。
それでも、心のどこかでグレアスがきっと助けに来てくれると信じていた。
「グレアス様……」
彼の名前を口にすると、少しだけ胸が温かくなる気がした。
彼ならきっと、どんな困難も乗り越え、ここまで来てくれる。
そんな彼を信じることで、自分を奮い立たせるしかなかった。
「私は……負けない。」
彼女は静かに立ち上がり、部屋の中を歩き回る。
何か手がかりになるものはないかと探すが、枷がある以上、自力で逃げ出すのは難しいだろう。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
「待っています……だから、どうか……」
彼女の呟きは、冷たい壁に吸い込まれていった。
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夜の帳が降りる中、ロレアス王国の壮大な城が静まり返っていた。
その荘厳な石造りの城壁に一人の男と一匹の狼が足を踏み入れる。
その姿は堂々としており、闇夜を切り裂く鋭い視線と、まるで自分の存在そのものが光を放つかのような威圧感を纏っている。
ジュベルキン帝国の第一王子、グレアス。
伝説の魔獣フェンリル、フェル。
彼はフェルと共にロレアス王国の城に乗り込んだ。
守衛たちの抵抗を許さず、瞬く間に無力化し、玉座の間への道を切り開いた。
巨大な扉を押し開けると、冷たい空気が彼を迎える。赤い絨毯が敷かれた広間には、背もたれの高い玉座が鎮座している。しかし、その玉座に座っていたのは若き王ジュエルドだった。
「……やはり来たか、ジュベルキンの獅子よ。」
ジュエルドは不敵な笑みを浮かべ、頬杖をついてグレアスを見つめていた。
その余裕のある態度が、グレアスの怒りにさらに火を注ぐ。
「ジュエルド王」
低く抑えられた声が広間に響く。
その声には怒りが込められているが、あくまで冷静さを保っている。
「……クレアはどこだ。」
ストレートな問いに、ジュエルドは眉を上げて笑った。
「ふむ、そういえばそんな女もいたな」
その一言で、グレアスの中に抑えていた感情が再び燃え上がる。
フェルもガルルルと威嚇する。
しかし、彼は拳を握りしめ、冷静さを失うことだけは避けた。
「惚けるつもりか?」
グレアスの鋭い眼光がジュエルドを射抜く。
「惚ける?」
ジュエルドは肩をすくめて立ち上がった。
「いや、正直に言ったまでさ。クレアという娘がどこにいるかなんて、私は知らない。ただ……」
彼は軽く歩み寄りながら、口元に笑みを浮かべた。
「彼女のことをここまで追い求めてくるとはね。やはりジュベルキンの英雄も、女一人には弱いらしい。」
その言葉に、グレアスの表情が一瞬だけ歪む。
「言葉を慎め、ジュエルド」
「慎む? そんなことをして何になる?お前がここに来た理由も、感情に駆られてのことだろう?いや、むしろこの状況を楽しませてもらっていると言った方がいいか」
ジュエルドの態度は挑発そのものだった。
それは自分の立場が優位だと確信している者の態度。
だが、グレアスもまた、簡単にその挑発に乗るような男ではなかった。
「……クレアの命が惜しくないわけではないだろう。」
グレアスは一歩前に進み、静かに言った。
「何が狙いだ、ジュエルド。ロレアス王国がジュベルキン帝国に宣戦布告し、今さら手を引けない状況にあることは分かっている。だが、なぜクレアを巻き込む?」
ジュエルドは一瞬だけ目を細めた。
その表情には一種の憎しみすら見えた。
「それを聞くのか? お前が、ジュベルキンの第一王子であるお前が!」
ジュエルドの声が急に荒々しくなる。
「ジュベルキン帝国の繁栄にどれだけの血が流れたか、お前は知っているか!その血の一滴一滴が、我々ロレアス王国の土地から搾り取られたものだ!」
グレアスはその言葉に微動だにしない。ただ静かに彼を見つめる。
「それとクレアが何の関係がある?」
「関係はない。ただ、貴様が苦しむ姿を見るには十分な駒だ」
ジュエルドの冷たい笑みが戻る。
その瞬間、グレアスの拳が鳴る音が響いた。
だが彼は動かない。
「……お前は、本当に愚かな男だ」
グレアスは低く吐き捨てるように言った。
「この戦争で何を得られると思っている?お前が引き起こした全ての行動が、自国を滅ぼす種を蒔いていることに気づかないのか?」
「黙れ!ジュベルキンの奴隷である貴様に、我がロレアス王国を語る資格などない!」
ジュエルドが剣を抜く音が響いた。
だが、グレアスは動じない。
ただ静かに彼を見つめる。
「ならば、力で語ろう。フェル、お前は手を出すな」
グレアスは剣を抜き、構えた。
その冷たい鋭さが広間全体に張り詰める。
「クレアをどこに隠したか。お前の命が尽きるまでには、吐かせてもらう。」
緊張が最高潮に達する中、二人の剣が火花を散らすことを予感させながら、次の瞬間が訪れる。
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広間の緊張が膨れ上がり、凍りつくような静寂が訪れる。
グレアスは剣を抜き、ジュエルドの目を真っ直ぐに見据える。
その鋭い眼差しに宿るのは怒り、そして決意だった。
対するジュエルドは、不敵な笑みを浮かべながら剣を構える。
その表情には余裕すら感じられるが、その瞳の奥には焦りが見え隠れしていた。
「貴様をここで打ち倒し、ロレアス王国の威光を示してやる!」
ジュエルドが叫ぶと同時に、剣が閃く。
鋭い一撃が広間に音を響かせた。
ジュエルドの剣が振り下ろされる瞬間、グレアスは一歩踏み込んでその刃を受け止める。
金属音が鳴り響き、火花が散る。
「威光だと? お前がしているのは、ただの愚行だ!」
グレアスは言葉とともに剣を押し返し、ジュエルドの胸元を狙って横薙ぎに振るう。
しかし、ジュエルドもまた素早く身を引き、間合いを取る。
「愚行かどうかは勝者が決めることだ!」
ジュエルドの攻撃が再び繰り出される。
その剣筋は荒削りだが、力強さと速さを兼ね備えており、一撃一撃が重い。
グレアスはそれを受け流しながら、冷静に反撃の隙をうかがう。
剣と剣が交錯し、激しい音が広間に響き渡る。
ジュエルドの攻撃は力任せだが、戦場で磨かれた実戦経験が見て取れる。
一方、グレアスの動きは洗練されており、無駄が一切ない。
「その程度の剣技で、私を倒せると思うのか?」
グレアスは軽く息をつきながら挑発するように言った。
「黙れ!この戦いは私の勝利で終わる!」
ジュエルドは怒りに駆られるように突きを繰り出す。
しかし、その隙を見逃すグレアスではない。
「隙だらけだ」
グレアスは剣を振り上げ、ジュエルドの突きに合わせて刃を弾く。
そして、一気に距離を詰め、剣をジュエルドの喉元に突きつけた。
「これで終わりだ」
グレアスの声は冷たく、低かった。
喉元に剣を突きつけられたジュエルドは一瞬動きを止める。
しかし、その顔にはまだ諦めの色がない。
「……まだだ。」
ジュエルドはわずかに視線を動かし、扉の方を見た。
その瞬間、扉が大きな音を立てて開かれる。
「ジュエルド様!」
兵士の声が広間に響き渡り、数人の兵士たちがクレアを引き連れて入ってくる。
その姿を見た瞬間、グレアスの目が大きく見開かれた。
「クレア……!」
彼女の手首には縄が巻かれており、その顔は疲労と困惑で青白かった。
兵士たちはジュエルドの指示を受けたのか、クレアを無理やり突き飛ばし、彼女は倒れ込みそうになる。
「クレア!」
グレアスは剣を下ろし、駆け寄ろうとした。
「……ふん。」
その隙を見逃さなかったジュエルドは、すぐさま体勢を整え、剣を振りかざす。
「グレアス様、危ない!」
兵士たちの声が響く中、グレアスは間一髪でその攻撃をかわし、クレアをかばう形で立ちはだかった。
ジュエルドの攻撃を受け流しながら、グレアスはクレアの状態を確認した。
「大丈夫か、クレア?」
「……ごめんなさい、グレアス様……私のせいで……」
クレアは震える声で謝罪する。
グレアスの胸にあるのは怒りではなく、守れなかったという無力感だった。
「謝る必要はない。すべてを終わらせるのは、私の役目だ」
その言葉を聞いて、クレアの瞳にわずかな光が戻った。
グレアスはゆっくりと立ち上がり、再び剣を構えた。
フェルはクレアを守るように立つ。
「ジュエルド、これ以上の愚行は許さない。クレアを巻き込むことで手に入れたものなど、何の価値もない!」
ジュエルドは唇を噛み締めながら、しかしその態度は変わらなかった。
「価値がないかどうかは、貴様が決めることではない!」
再び剣が交錯する音が広間に響き渡る。
勝負の決着は目前に迫っていた。