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リシュアとラベンダーは宿に戻り、エシカとローゼリアの二人はリンディの管理する教会に泊まる事になった。
教会の二階にちょうど空き部屋があり、毛布とシーツを二人は渡された。空き部屋といっても、内装は素晴らしく、天井は天使が描かれたステンドグラスが張り巡らされていた。とても不思議な空間だった。
「教会に泊まるのなんて、私、初めてですわ」
ローゼリアはウキウキとしていた。
「そうなんですね。私はシャイン・ブリッジという街に訪れた時、リシュアと一緒に泊めて戴いた事があります。もっとも、そこの神父さんは狼男で、襲われたので、私とリシュアの二人で退治する事になってしまったのですけどね」
エシカは少し苦々しい口調になる。
神父フェザーは本当に優しい感じがした。だが、二人を教会に泊めてくれたのは後々に仲間と一緒に二人を食べようと考えての事だった。
「狼男ですか……。私がもっとも汚らわしいと思っている種族の一つですわ」
そう言えば、ペイガンに行く途中、とある森の中で狼男達の集落に辿り着いた。ローゼリアは彼らをかなり毛嫌いしていた。吸血鬼全体が狼男が嫌いなのか、それともローゼリア個人が狼男が嫌いなのかは分からない。エシカはあえて聞こうと思わなかった。
それよりも、この幻想的な部屋の内装。天井を眺めながら一夜を明かすのは、とても心地良かった。
「それにしても…………」
ローゼリアは何か物想いに耽っていた。
「どうされました? ローゼリアさん」
「いえ。何というか、この教会」
「なんです?」
「何となく、血の匂いがするんですの。エシカ、貴方は人間だから気付かなかったみたいですが。私は吸血鬼ですので、血の匂いに対しては敏感でして…………」
一瞬、不穏な空気が流れる。
ローゼリアが言うのだから間違いない。
そう言えば、確かにあのリンディという少女は本当に正体不明だ。
得体の知れない旅人を泊まらせようとするのも妙だ。……もっとも、世界各国の教会の多くは、困っている者達を助け、旅人に宿を貸す場所も多いと話には聞いているのだが。
「まあ。また何かトラブルに巻き込まれましたら、それも楽しみましょう。私達の旅は、そういうものですよね?」
ローゼリアは不敵に笑った。
「はいっ!」
エシカも不敵に相槌を返す。
もう、みなの間で、トラブルはある種の楽しみにさえなっていた。確かに旅をしていて危険な目に合う事は多い。だが、それも含めての旅路だ。
エシカは立ち上がり、窓の方を見る。
やはり、窓から見える暗闇の中にある沢山の教会は、十字架も目立って墓石の群れに見える。この村も見た事の無いような場所だった。この不気味さが慣れてくると何とも心地良い。
ローゼリアは寝っ転がったまま天井を見ながら、何かを思索しているみたいだった。
「地下の辺りから、血の匂いがしましたわ」
ローゼリアの言葉を聞いて、エシカは訊ねる。
「あのリンディさんという方も人間ではない? もしや狼男とかだと思います?」
「いえ。狼男には独特の隠せない獣臭がまとわり付いております。人間を騙す事は出来ても、吸血鬼の鼻を騙す事は出来ませんわ。おそらくですが、あのリンディという女。かなり裏側で人を殺しているんじゃないかと」
ローゼリアは起き上がる。
エシカは首を傾げた。
「どうしても、そのようには見えなかったんですけど。私、人を見る眼無いんですかね?」
「エシカさん。確かに、貴方はそこまで目が肥えているとは、私はどうにも思えませんわ。まあ、でもあの修道女……。調べてみる価値はありそうですわね」
そう言うと、ローゼリアは毛布に包まる。
「でもまあ。明日でもいいかな、と。もう私は眠いですし」
そう言うと、吸血鬼の少女はすぐに寝息を立ててしまった。
エシカもつられるように、欠伸をする。
「確かに、今日は旅の疲れが残っていますね。私も寝ます。……寝込みを襲われるような危険は無さそうですし」
そう呟きながら、エシカは毛布に入った。
†
真夜中の事だ。
何処からか地下深くからか、唸り声のようなものが聞こえてきた。
エシカは不用意だが、物音がする場所へと向かってみる。
奇妙な声のようなものも聞こえた。
人間とも、動物とも、どちらとも言えない声だ。
エシカは階段を降りていく。
一度、明かりが消えた礼拝堂内に辿り着く。
教会の奥へと続く扉があった。
扉の奥には、何やら、地下へと続く階段があった。
エシカはゆっくりと、地下へと降りていく。
階段がぎぃ、と、軋む音がする。エシカはゆっくりとなるべく物音を立てないように階段を降りていく。一段、また一段と。
何者かが呟いているような声が聞こえた。
更に半開きの扉があった。
エシカは扉の奥を覗き込む。
そこには、リンディが何者かに祈りを捧げていた。
祈りを捧げられたものは、人間なのか、動物なのか分からない、まるで異世界から発せられるような音で声を出していた。
エシカはもう少し近付いて、リンディが祈っているものを見ようと扉の奥を見る。この角度からだと余り分からない。
リンディは何か呪文のようなものを唱えていた。
ふいに、エシカは背後から背中をつかまれる。
そして口元を押さえられた。
ローゼリアがそこにいた。
人差し指を唇に近付けて、沈黙をうながす。
ローゼリアはいったん、エシカが戻るように手を引っ張る。
だが。
「そこにいるんですよね? お二人共。入ってらっしゃい」
地下の奥の少女は、二人にそう告げた。
エシカとローゼリアの二人は、修道女に言われて部屋の中へと入る。
リンディは祭壇のようなものに祈りを捧げていた。
それは、人間の皮膚に爬虫類の鱗、カニの甲殻など様々な生き物達を混ぜた存在の壁画のようなものが祭壇の装飾として飾り付けられていた。
そして、更に奥には何か異空間へと続く“ひずみ”みたいなものが生まれていた。
その姿は、ヒュペリオンの像であるキマイラのような生き物の上に乗った漆黒の甲冑を纏った男だった。その男の周りには、無数の人間の腕がある。
「これは……悪魔…………」
ローゼリアが呟く。
言われて、リンディは不気味に微笑んだ。
「貴方は修道女の身でありながら、悪魔に祈りを捧げているんですの?」
ローゼリアは息を飲み、エシカは絶句していた。
「はい。私はこの御方を崇拝しています。正確には、この御方は未だ肉体の一部しかこの世界に顕現しておりません。この御方の本来、住んでいる場所は異世界なのですから。ふふっ」
リンディの顔がますます不気味になっていく。彼女は何処か虚空を見つめながら、強い人の身では叶えるべきではない願望をその心に有している眼をしていた。
「貴方は、この悪魔に何を願っているのですか?」
ローゼリアは思わず詰問口調で訊ねる。
「私がバヤルザード様にですか?」
どうやら、この悪魔はバヤルザードという名であるらしい。
「私の大切な恋人であるロゼリオは、ある日、魔術の研究の際に、誤って異界の扉を開いてしまい。その肉体も、魂も異界へと囚われてしまいました」
リンディはくすくすと薄気味悪く微笑む。
「私は彼の身体と心を取り戻したい。だから、こうして毎夜、バヤルザード様へとお祈りを捧げているのです」
「そうですの。それにしても、リンディ様。貴方はネクロマンシーの力を使っていますね。それからその身を不死にする力も。まだ年端もいかない十代の少女に見えますが、一体、どれくらいの月日、その悪魔に祈りを捧げているのですか? 少なくとも、外見の年齢の数倍は生きているのでしょう?」
ローゼリアは警戒心を露わにしていた。
「……私は貴方達二人と争うつもりはありません。どうか此処からお帰りになってください。私は亡くなってしまい、魂も異世界に囚われた恋人と取り戻したいだけなの……。たとえ、これから何十年、何百年かけてでも…………」
「その代償は?」
人の命なのだろうか?
リンディからは死臭がする。そしてこの部屋からは血の匂いがする。ローゼリアは小さく溜め息を付く。
「エシカ。どうします? 眼の前の女は、正真正銘の魔女ですわ。修道服にその身を包んだ魔女。まごう事無き悪しき者です。エシカ。リシュアから聞いたところ、貴方は貴方の“罪を償う旅をしている”のだとか。そのような事に私がとやかく言うつもりはありませんが。間違いなく、眼の前にいる少女の姿をした者は、邪悪な存在と言っても過言ではありませんわ」
邪悪である、と、ローゼリアは断言する。
この吸血鬼の少女は、何処か人間の倫理観のようなものに対しての分別を持ち合わせている。
「私は何も見なかった事にします。……大切な人を取り戻し合いというお気持ちを批判する事が出来ません。もし……」
もし、リシュアが異世界に魂を取られたのなら、エシカだって同じように彼を取り戻す為に色々な事をしなければならない。ペイガンで自らの記憶を悪夢の中で想い出して、エシカは自分が悪人や倫理観に反した者を咎める事が間違いではないかと思うようになった。他者の悪行を罰する資格など自分にあるのだろうか…………。
「今夜、私達はこの地下室の事を忘れます。それは双方にとって良い事だと思うのですが、いかがいたします?」
ローゼリアはエシカの表情を見ながら、引く事にした。
リンディは薄ら笑いを浮かべていた。
「そうですね……。貴方達は、私の悪魔バヤルザードとの取り引きを見た。本来なら生かして帰したくないのだけど。貴方達は相当な実力者。そしてそこの黒いドレスの方、エシカさん。貴方もネクロマンシーを使えるのでしょう? 私のやっている事をご理解いただけるかしら?」
リンディが半ば挑発するように言う。
「私はシャイン・ブリッジという街での、死体の記憶を読んで以来……ネクロマンシーに類する魔法は一切、使っておりません。そう誓いましたから」
エシカに言われて、リンディはくくっと笑う。
「この部屋の奥には、更に部屋があるの。貴方達はそれを見て、私を知って、断罪すべきかどうか決めて。それにしても、真っ黒なドレスの貴方も、吸血鬼の貴方も、血と死臭がするわ。本当に、罪人が罪人を断罪するなんておかしな事」
そう言って、リンディは心から楽しそうに笑った。
†
まるで脅すように、あるいは嘲り笑うように二人は“悪夢の部屋”を見せられる。
部屋の中はリンディがおそらくは沢山の旅人を襲って悪魔の生贄として捧げたのだろう。人々の苦痛、恐怖がこの部屋には充満していた。無数の解剖道具。人骨が入った鉄のゆりかご。血塗れの手術台。人々の身体の部品などが、邪悪な修道女が契約する悪魔の心を躍らせる為に並んでいる。犠牲者は旅人ばかりなのだと彼女は言う。
「良い趣味をしていますわね」
ローゼリアはそれだけ言った。
「ふふっ。良い趣味でしょう?」
彼女は恋人であるロゼリオを取り戻す為に、契約した悪魔に対して生きた人間の苦痛と恐怖を与え続けている。ローゼリアもエシカも嫌悪感しか抱かなかった。同時に、リンディという女が哀れにも思えた。……きっと、どんなに人間を生贄に捧げても、彼女のかつての恋人は蘇らないだろう。あるいは不完全な化け物として蘇らされるかもしれない。
「ふふっ、貴方達は、この邪悪な私を罰する?」
リンディは挑発する。
「いいえ、やめておきますわ。貴方はともかく、貴方の背後にいる悪魔バヤルザードと戦いたくありません。私達は此処はおとなしく引きますわ」
そう言って、ローゼリアは溜め息を付いた。
「そう? じゃあ、此処で見たものは全部、忘れてね。その方がお互いにとって幸せだと思うから」
「……もう、この村を出ます。道を教えてくださらない?」
「それでしたら。村を出て更に北に向かうと、シンチアという村があります。シンチアは特殊な民族達が集まる、いわば難民キャンプと化していますが。それで良ければ。なんでしたら、村へと向かう地図もお渡ししますし」
クスクスと邪悪な修道女は笑っていた。
その瞳は何処か虚空を眺めているようだった。
エシカとローゼリアの二人は、決してこの部屋で見たものを忘れると約束する。帰りに二人は悪魔の拷問士であるリンディからサンドイッチを貰った。サンドイッチには肉が入っており、結局、二人は口にする気は無かった。やがて、夜が明け、二人はリシュアとラベンダーと合流して、あの教会の地下の事には一切触れなかった。