夜中の展覧場は、静謐としていた。
禍々しい呼気が溢れ出していく。
夜の帳の下、リシュアは展覧会場の中へと侵入して、その場所へと向かっていた。
リシュアの意識は朦朧としていた。
ただただ、魔剣が展示されている場所へと彼は向かっていく。長い階段だった。長い階段を登り終える。
そして、リシュアは魔剣を引き抜いた。
<遅かったか>
ラベンダーは溜め息の言葉を吐く。
後ろにはエシカとレンディも控えていた。
リシュアは魔剣に飲み込まれようとしていた。
膨大な量の魔力がリシュアの身体を駆け巡っていく。
もはや、それは一つの怪物へと変わっていく過程だった。
あらゆる感情が、その場に渦巻いていた。それは憎しみや悲しみ、悪意や怒り、ありとあらゆる負の感情が『アビス・ブリンガー』と呼ばれた魔剣から滲み出ていく。それは一つの強大な生き物であり、リシュアはその生き物の体内へと取り込まれている、という処だった。
リシュアの魂は、魔剣に飲み込まれてしまうのだろうか。それも未来永劫に。どうしようもない悲しみがエシカを襲った。
エシカの中で、何かが込み上げようとしていた。
過去の罪。
贖罪へと歩む未来。
もしかすると、大いなる力に振り回されたのは過去のエシカもそうだったのかもしれない。無限の重力の重しのような感情が自身を踏み潰そうとしているかのようだった。
そして、もし魔剣に、力に飲み込まれてしまったのなら、リシュアもエシカと同じような感情に囚われるかもしれない。果ての無い罪悪感。あらゆる者達を傷付けて、そして殺してしまったという事実に、そう考えると、リシュアにはエシカ自身の鏡像が見えた。リシュアの未来に。
彼が魔剣に囚われて、沢山の者達を傷付け殺す未来。
何としてでも、それだけは止めなければならない。
爆炎が室内に溢れ出していた。
リシュアの両腕が、炎によって包まれていく。
エシカが放った炎の魔法だった。
リシュアの身体に何か防御の方陣のようなものが張り巡らされていた。魔剣は魔力を放ち続けている。既にリシュアの意志を乗っ取ったのかもしれない。リシュアの身体が少しずつ浮き上がっていく。ぱくぱく、と、リシュアの声から何かが聞こえてきた。それは低い獣のような唸り声だった。
「我は魔の王になり。我にたてつく者達は何者だ?」
リシュアの声であり、リシュアの声で無いそれはエシカ達に訊ねる。辺り一面に嵐が巻き起こっていくガラス窓が割れていく。リシュアの身体から黒光りの光が放たれていく。
「私達は貴方が奪った人を大切に想っている者達ですっ! その身体を返してくださいっ!」
エシカは叫ぶ。
ラベンダーは雷撃を周辺に撃ち込もうとしていた。
だが…………及ばない。
今までドラゴンや悪魔、異形の天使など、様々な者達と出会ってきた。狼男や吸血鬼、死霊術師とも対峙してきた。だが、この呪われた魔剣。奥に眠るであろう呼び覚まされしは魔の王。魔の王と対峙した事は無い。それは神話の怪物よりも遥かに強大な存在だった。……勝てない、どうしようもない。
「何故、リシュアに執着するのですか!?」
エシカは訊ねる。
リシュアの口元は薄っすらと笑う。
「それはこの少年の身体が、とても馴染むからなのだよ。この肉体は本当に素晴らしい、本当に素晴らしいのだよ。力がどうしようもない程に溢れ出してくる。それがこの少年の天賦の才、器としての才なのであろうなっ!」
魔の王はリシュアの口を借りて叫ぶ。
かつて、古き時代、その者はある者の肉体を乗っ取り、力を振るった。そう言えば、魔剣に囚われた者はエシカ自身にとても酷似していると思った。力に囚われて、力を振るって、多くの者達を不幸にしてきた者。
そう、止めなければならないのだ。
エシカはリシュアと自分自身の為に、眼の前にいる者をっ!
エシカとラベンダーが同時に、炎と雷撃の魔法を放っていた。
周辺一帯が爆破炎上していく。
リシュアには強大な壁のようなものが生まれていた。バリアのような魔法を張っているのだろうか。やはり、強大な魔力だった。エシカは“災厄の魔女”として強い魔法使いだった。ラベンダーも強いドラゴンだった。だが、眼の前にいる者は………………。
闇を統べる王。
それを感じる。
かつて、この魔剣に呪われた者は、一体、どのような方法で封じ込まれたのだろうか?
時の英雄によって、封じられ倒されたのだろうか?
分からない。
分からないが、どうにかして、仲間を止めるしかない。そして安易な知略では敵わない相手という事も気付いていた。かつて旅を共にした仲間達。ローゼリアやティアナがこの場にいたとしても、とても戦力にならないだろう。
ふと。
少しだけリシュアを纏う闇の瘴気が収まっていく。
どうやら、レンディが何らかの形で封じ込めているみたいだった。レンディは魔剣に魂を囚われた者、ならば、魔剣の一部といっても良いのかもしれない。彼女が全力で動けば、リシュアはどうにかなるのかもしれない。分からない。
だが、大切な人を取り戻す為に、どうにかするしかない。
ただ、此処に来て、余りにも自分という存在は無力なのだと感じた。
無力過ぎて、自分自身がどうしようもない程に赦せない。
ただ、リシュアが奪われるのだけは嫌だった。
それだけが、ひたすらに嫌だった。
エシカは眼の前が真っ暗になる。
気付けば、自分が自分で無い感覚に襲われる。
自分という存在がかなり、希薄なものへと変わっていく。
とてつもない力の奔流が、エシカの中で駆け巡っていた。
ふと、何処かの景色。
もう一人の自分がこちらを見て眺めていた。
何か大きな力。大きな自分では抑えきれない何かだ。これはもう一人のエシカの像だった。一体、何なのか分からない。もう一人のエシカは、エシカに対して手を差し伸べようとする。エシカも手を取る。それはどうしようもない程の力の奔流だった。ただただ力ばかりが溢れ出していく。身体がどうしようもない程に疼いていく。灼熱していくかのようだった。
エシカはもう一人の自分の手と手を取り合う。
瞬間、辺り一面に灼熱の炎が溢れ出していく。熱気が燃え広がる。
“災厄の魔女”としての力。それが彼女の底から込み上げてくる。大量に人を焼いた力。死人の軍勢を率いた力。それらの奔流が溢れ出してくる。自分は邪悪なるもの。魔に属する者。それらをエシカは想い出そうとする。それは触れてはいけない力だった。取り戻してはいけない力だった。
魔剣の主は、高らかに哄笑していた。
「良い、本当に良いぞ。お前は面白い女だ。本当に面白い女だ」
愉悦。
とてつもなく愉悦感に浸っていた。
エシカは何もかもを壊してやりたいという衝動に駆られていた。そう、何もかもだ。燃やして、焼き尽くしてしまいたい。大切なリシュアを取り戻せるのなら、願わくばそうするだろう。
爆炎が辺りにまき散らされていく。
それは生ある者達が近付いてはならない炎だった。エシカの力だ。災厄をもたらす力だった。エシカはリシュアを取り戻したい一心で力を振るっていた。辺りが炭化していく、建物に炎が点火していく。
この魔の王を倒す事はどうやっても出来ない。
ならば、リシュアごと焼き焦がす以外に他ならないのだろうか?
いや、違う。
魔剣だ。
魔剣から、彼を引き剥がさないといけない。
「私の事は構わないでくださいっ! 私は元々は魔剣に魂を封じられていた身、ずっと覚悟はしていましたっ! ですから、私の事は大丈夫です。私の運命は、きっと、あの魔剣を封じる事にあるのでしょうっ!」
レンディは覚悟の言葉を叫んでいた。
ならば、魔剣に封じられているという彼女の恋人の運命もそうなのだろうか。……やるせない。どうしようもなくやるせなかった。だが、それでも、大切な人を想う気持ちの形は違えど、エシカはその覚悟を受け取った。
熱い、真紅の焔がリシュアの手の辺りに燃え盛っていく。
魔の王はせせら笑っていた。
「いいだろう。この小僧の身体は、返してやろう。俺は面白いものを見れたのだからな。さて、そろそろ、終わりにしようか」
そう言うと、リシュアは魔剣を放り投げた。
からん、と、魔剣は地面に放り出される。
辺り一面はエシカの放った炎によって包まれていく。
<逃げるぞっ!>
ラベンダーが巨大化してリシュアの身体を持ち上げる。
その後は、エシカをカギ爪で拾い上げて、空中高く舞っていた。
そして、大火災は広がっていた。
エシカは、災厄の魔女としての力を取り戻してしまった。
そして、それを手放したいと思った。
エシカは涙を流していた。
リシュアと心の距離が開いていくのではないか? そんな気持ちでいっぱいになった。
火災は続いていく。
†
何故か、警官隊達はエシカの事を想い出せずにいるみたいだった。
レンディもどうなってしまったのかは、分からない。
分かったのは、あの魔剣の展示場が燃えてしまったという事だけだった。
魔剣の所在はどうなったか分からないらしい。
魔剣を観光の道具に使っていた、このブリンガーという街は、今後、どうなるのか分からない。市長も考えを嫌でも改めないといけなくなるだろう。
とにかく、エシカ達にとって嬉しかったのは、リシュアを取り戻す事が出来たという事だ。あれから、リシュアは何の後遺症も無い。あの時の記憶はまともに無いが、何があったのかを確信しているみたいだった。
「ただ。もしかすると、俺の中に、あの『アビス・ブリンガー』の魔の王が眠っているかもしれないんだ」
リシュアはそれだけ言った。
彼は両腕の火傷が疼いているみたいだった。
それは、ロンレーヌが使う治癒の魔法によって少しずつ治していった。
呪われた魔剣の街は、これから一体、どうなっていくのだろうか。
焼け跡から、あの魔剣は見つかるのだろうか。
それはエシカ達には、伺い知る事が出来ないものだった。
ただ、強い不穏さがこの街全体を覆っていた。
「もう、この街は去ろう。この街には何も無いよ」
リシュアはそう言う。
みなも頷く。
出来れば、レンディと彼女の恋人もあの魔剣から魂を解放して上げたかった。……だが分かった事は、旅をしていて、誰も彼もを救えるわけではない。この地にて、みなが出来る事はもう何も無い。
青く美しいネモフィラ畑を見ながら、無情さと暗澹さ、悔しさの入り混じった感情に襲われる。旅にはこういう事だってある、痛みが残る事だってある。ある意味で言えば、それはどうしようもない事なのかもしれない。出会いと別れ、別れが再会を暗示する事もあれば、別れが辛い事もある。レンディの事は忸怩たる想いだった。…………けれども、こういった別れもあるのだ。
『負の遺産』を観光産業にしてきた者達。
もしかすると、この街は衰退していくのかもしれない。
それはどうしようもない運命なのだと、エシカは想うのだった。