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33:吸血鬼、うっすら自覚

 食後の紅茶も二人で楽しんでいると、あっという間に二十一時半を過ぎていた。ファリエはふと壁の時計を見て、椅子の上で小さく飛び跳ねた。同時にギャッと悲鳴も上げる。

「ご、ごめんなさいっ! もうこんな時間で……引き留めちゃって、ほんとにごめんなさい!」

 謝りながら立ち上がった彼女へ、ティーゲルは肩をすくめて微苦笑を返す。軽く首も振った。

「いや、こちらこそ長居し過ぎた。実家のように居心地がよかったもので、すまない」


(もしかして……わたしって、生活臭がすごいのかな?)

 褒められているのか分からず、レモンを噛みしめるような苦悶の表情を返す羽目になった。苦み走った顔で立ち尽くす彼女に気付き、ティーゲルも焦ったように立ち上がる。

「ち、違うぞ、落ち着けたという意味だからな! いい意味だ! しょ、所帯染みてるとか、そういう意図はないんだ!」

「……それなら、はい、よかったです」

 彼のやや後ろめたそうな語調から察するに、所帯染みていると思ったのも事実のようだ。ただ、それを揶揄していないのならいいか、とファリエも渋い顔をやや緩める。


 ティーゲルは皿洗いを買って出てくれたが、そこは気持ちだけありがたく受け取ることにした。二人分の食器などたかが知れているし、何より自分が益体やくたいもない会話で彼を引き留めてしまっていた自覚はある。今日も今日とて疲れているだろうし、早々に帰って休んで欲しかった。


「しかし、俺はごちそうになっただけで、何も礼が出来ていないのだが……」

「それならまた、ご飯を食べに来てくれませんか? その時に、お皿洗いをお願いしますし」

 彼の前を歩いてドアの内鍵を外し、笑顔でそう言った。しかし背後の彼から、返答がない。

 訝しんだファリエが振り返ると、どういうわけか真顔のティーゲルがいた。彼の内なる地雷を踏み抜いてしまったのか、と思わず身をすくめてしまう。たれ目もつい潤んだ。

「あ、あの、隊長……?」

「その……一つだけ、訊いてもいいだろうか?」

 が、続く声は怒っているというよりも、どこか思い悩んでいるような暗いものだった。


「え? あ、はい、どうぞ……」

 目をぱちくりさせつつ宙に手を差し出して、続きを促した。ティーゲルは一つ息を吸い、少し身をかがめてファリエとの距離を近づける。

「その……こういう世話は、他の団員にも、よく焼いているのか?」

「こういう、お世話とは?」

 世話を焼いた自覚がないため、ついオウム返しで首を傾げた。それでも彼は不快感を示す様子もなく、問いを噛み砕いてくれた。


「こうやって自宅に招いて、夕食を振舞ってやるような世話、なんだが」

 なるほど、とファリエは手を打った。

 たしかに彼女はティーゲルに夕食を振る舞ったけれど、それは趣味である料理の試食役も兼ねてもらっているつもりだった。男性は女性よりも味の濃い料理を好む、と聞いたことがあったので、女友達以外にも味を見てもらいたかったのだ。

 なのでファリエとしても、今日の食卓は実りのあるものだった。


 しかし彼は丸ごとの善意で面倒を見てもらった、と考えていたらしい。

(そんなこと、別に気にしなくていいのに)

 人の好い彼らしい提案に、ファリエはふっと表情を緩めて記憶を引っ張り出す。

「んー……そうですね。アルマさんは、何度かお家に来てますね。寮の献立が好みじゃない時とか、お休みの時とか」


 特に前者の理由の場合、アルマは食べたい料理の材料をわざわざ買って乗り込んでくる。おかげでファリエでは買わなかったであろう、本土西部でよく使われる調味料が自宅に増えつつあった。料理の幅が広がり、嬉しい限りだ。


 他にも女友達を集めてお茶をすることもある、とも続けると、ティーゲルの肩から少し力が抜ける。

「そうか。ちなみに君は、ヘイデン君とも仲がよかったと記憶しているが」

「あ、はい、そうですね。教育係をしてもらってたので今も、一緒にお茶したりします」

「ここで? 二人で?」

 ぐい、と身を乗り出されたので、ファリエは思わず半歩たじろいだ。


「い、いえ……ヘイデンさんは婚約者がいますし、カフェで、アルマさんやメアリさんたちと一緒に……ですけど」

 メアリとは、第三部隊で共に働くもう一人の魔術師だ。ヘイデンより更に十歳ほど年上のため、お姉さんというよりお母さんと呼びたくなるような頼もしさがある。本人に言えば絶対に怒られるだろうが。


 色恋に疎いファリエでも、恋人や伴侶のいる異性と二人きりでの食事はさすがによろしくない、と承知している。妙な誤解を招きかねないだろう。

 もちろん誠実なヘイデンの方も、そんな婚約者に疑われるような真似は犯さないのだ。

 ただティーゲルがここまで真剣な顔で尋ねるということは、ひょっとして彼も仲間外れにせず、自宅に招き入れた方がいいのだろうか。アルマと一緒に招待すべきか。


「もしかしてヘイデンさんも、お招きした方がいいで――」

「いや、絶対に呼ばなくていい」

「ひゃっ、ひゃい……」

 真顔で食い気味に否定された。声も硬く、やっぱりちょっと怖い。


 おののくファリエにも構わず、更にティーゲルが詰め寄った。いい顔が至近距離に迫り、圧に耐えかねた顔が熱を帯び始めた。

「ヘイデン君とは今後も必ず外で、複数人を連れて会うように」

「あ……えっと、は、はい」

「アルマ嬢や女性の友達は引き続き、自宅に招いて楽しい時間を過ごしなさい」

「は、はい……」

 目に力を込め、首を精いっぱい上下に動かし、何度もうなずいた。ようやくティーゲルも納得あるいは満足したらしく、屈めていた体を戻す。


 そして、いつも通りニコリと笑った。距離が生まれたことと、見慣れた笑顔に戻ったことに安堵して、ファリエも表情を緩める。

「それじゃあ、俺はこれで帰るから。戸締りには、くれぐれも気を付けてくれ」

「はい、ありがとうございます」

 狭い玄関で壁際に一度寄り、ティーゲルと立ち位置を入れ替えた。靴を履いた彼がドアを開けるのを、なんともなしに見つめる。


「ただ、その――」

 ドアノブに手を伸ばしかけたところで、ティーゲルが前を向いたまま出し抜けにそう呟いた。彼の広い背中をぼんやり眺めていたファリエは後半を聞き逃してしまい、上半身を乗り出す。

「え? すみません隊長、どうしました?」

「いや……先ほどの返答なのだが」

「あ、えっと、はい」

 何か立ち消えになっていた質問があっただろうか、と頭の片隅で会話を辿りつつ、口は生返事をした。


 ティーゲルがドアノブを握ったまま、顔だけでこちらを振り返った。気のせいかもしれないが、少し頬が赤い。表情もまた固く強張っている。

「君の負担にならないのであれば、また夕飯をごちそうになってもいいだろうか?」

「えっ?」

「どうにもこのまま一人では、自堕落な食生活を続けてしまいそうで不安なんだ。もちろん食費や手間賃などは払うし、今日の分も含めて後片付けも必ず請け負おう」

「い、いえっ、そんな、食費なんて……手間賃なんてもってのほかですっ」


 なんだか事が大きくなりそうで、慌てて両手を振って固辞する。

「わたしも、隊長に味見役をしてもらって、ありがたいですから。お皿を洗ってもらえれば、言うことなしです」

「そう、なのか?」

「はいっ」

 にっこり笑って大きく首肯する。こちらの真意を探るようなティーゲルの眼差しも、和らいだ。


「ありがとう。それでは今度は、せめて手土産を持たせてくれ」

「はい、楽しみにしてます」

 それぐらいならアルマからも受け取っているので、大歓迎だ。両手を軽く打ち合わせ、ファリエもはしゃぐ。

「よかった――ではファリエ嬢、今日はありがとう。おやすみ」

「いえいえ。夜道、気を付けてくださいね。おやすみなさい」

 静かにドアを開けたティーゲルの、小声の挨拶に同じく小声で返し、ついでに手を振って見送る。自警団屈指の武官である彼が易々と危険にさらされるとも思えないが、念のため道中の注意も促した。ティーゲルも笑顔でうなずき、ゆっくりドアを閉める。


 少し時間を置いて、ファリエは丁寧に内鍵を閉めた。乱雑な施錠音がもしも外にまで聞こえたら、彼に嫌な気持ちを与えてしまいそうだからだ。

 ドアに備え付けのチェーンもはめ、玄関の真横にある台所にまで戻りながら、ふと考えた。


 どうして彼は、ヘイデンが自宅に来ているかどうかを気にしたのだろう、と。

 それは年長者として上司として、ファリエの私生活を案じる言葉だったのか。それとも、色恋を含んだ男性としての言葉だったのか。

「……え、違う、よね……?」

 後者の考えが浮かんだ途端、全身が熱くなって思わず独りで呟いた。


 両頬を手でしきりに仰ぎながら、勘違いしないよう己を戒める。

(違う、違う。ティーゲルさんはそんな人じゃないもの。優しい人だからきっと、上司として心配してくれただけだし、自分でもいやらしいことをするつもりはないって、ちゃんと言ってたし……ん? ううん、待って。あれは女の子に無理やり乱暴する人もいるよって、話だったよね。恋愛対象じゃないよ、とは言ってなかったよね……?)

 幸か不幸かファリエは頭がそれなりにいい。会話の流れも、おおまかに覚えていた。そのため一つの可能性に思い至り、扇子代わりに使っていた手が止まる。


(じゃあ、わたしのことを女の子と思ってるかもしれない、こともないような、あるような、そんな可能性がなきにしも、かも……え、うそ、どうしよ……)

 途中で思考がこんがらがってしまい、真っ赤な顔を両腕で覆い隠してしゃがみこんだ。今は自宅に、ファリエ以外誰もいないというのに。


 そのまましゃがみこんで、しばらくうなっていたものの

「……どうしよ、ちょっと嬉しいかも……」

つい本音が、弱々しい声音でまろび出てしまった。ティーゲルの不摂生を案じてばかりで、己の感情にまで目が向いていなかったが。どうやら自分も案外、満更ではないらしい。

 この本音にまた、気恥ずかしさで悶絶してしまう。顔を覆い隠したまま、いつかのように床でジタバタともがく。


 結局この夜、ファリエは夜中まで「もしかして」「違う違う」の一人押し問答を繰り返す羽目となった。

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