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37:鼻水はギリギリ垂れてない

 可愛く見せよう、庇護欲を誘おうなどといった目論みゼロの、色々あけっぴろげで大層ファニーな泣きっ面を晒しているファリエへ、ティーゲルが正座の姿勢のままおずおずとティッシュ箱を差し出す。


「ファリエ嬢、そこまで心配してくれていたとは知らず、すまなかった。俺が言えた立場では全くないのだが、どうか泣き止んでほしい」

 眉が思い切り垂れ下がった、なんとも情けない顔だ。その顔で見上げられ、情緒がグチャグチャに乱れていたファリエの心がほんの少し凪いだ。彼の困り顔に、うっかり和んでしまったのだ。

「は、はいっ……ありがとう、ございます……」


 しかしファリエの心に若干の余裕が生まれた途端、恥も外聞もなく号泣した事実が襲来した。先ほどとは違う理由で顔を熱くさせ、ティッシュを手早く何枚か引っこ抜く。そのまま、蒸しタオルの要領で顔全体を覆った。


 なおこのティッシュ箱の持ち主は、相変わらず酸っぱい表情のシリルである。眼前にある、彼の机から無許可で拝借したのだ。

 だがティッシュ自体は自警団の備品であり、またシリルも号泣する人間にティッシュを分け与えない程の冷血漢というわけでもない。今回のティッシュ横流しによる、ティーゲルの姑息な点数稼ぎも黙認した。


 むしろ自分にぴったりくっついたままのヘイデンが鬱陶しく、彼を肘で小突いて斜め後ろに追い払うのに精一杯だったのもあるが。

 ヘイデンはヘイデンで、ファリエの泣き顔を彼に見られないよう、視界を邪魔するのに必死だ。シリルとにらみ合い、無言で応戦する。


 しばしの小競り合いの末、ファリエがようやく泣き止んでくれたので、ヘイデンも大人しくシリルの背後に戻った。そして彼は、熱くなった頬を手で扇いでいるファリエへ笑いかけた。

「ファリエちゃんは隊長のご飯作りを、嫌がってないってことは分かったけどね。でもお夕飯のことはもちろん、このお弁当のことも、周りに知られないよう気を付けてね」

 少し重くなったまぶたを持ち上げ、ファリエはキョトン顔になる。その顔のまま彼の言葉をしばらく反芻はんすうし、ややあって表情を引き締めて大きくうなずいた。


「もちろんですっ。だってそんな、大したものも作れませんし。偉そうに宣伝できるものでもありませんから」

 人が好いのか料理に対してストイック過ぎるのか判断しかねる返答に、シリルは呆れ顔、ティーゲルとヘイデンは苦笑となる。

 代表してヘイデンが、違う違うそうじゃない、と右手を振った。

「あのね、おかずのレパートリーが問題じゃなくてね。わざわざご飯を日常的に作ってあげる関係なんて、普通は家族や恋人ぐらいだよね? だから隊長との関係も、恋人なのかもって周りから思われちゃうでしょ」


 その一言はファリエに、四方から剣でぶっ刺されたかのような衝撃をもたらした。

「あ、はい……そ、そう、ですね……なるほど……」

 冷や汗混じりでたどたどしく返答しつつ、ファリエの脳内では雷鳴が轟き嵐も吹き荒れ、ついでに山火事も発生し、大惨事だった。

 ヘイデンが指摘した発想は、吸血鬼のコミュニティでは生まれるはずのない代物なのだ。

 なにせ彼らはいつでもどこでもご飯を済ませられ、「一家団欒だんらんの食卓」という概念とは無縁の種族である。食事の重要度が、著しく低い。


 ファリエにとって手料理を振る舞うことは、すなわち趣味の披露であった。気心の許せる相手に、自作の絵や手芸作品を見せるのと同じ感覚である。

 だから食事という大義名分があるので、ティーゲルを家に招待しても角が立たないと思っていたぐらいなのだ。


 ファリエは再び顔を真っ赤にした末、ようやく彼らが何を心配していたのかに気付いてうなだれた。

(これからは気を付けないと……隊長がいい人でよかった)

 自身の頓珍漢とんちんかんぶりと、妙な勘違いを起こさずに食事だけを楽しんでくれたティーゲルに感謝したところで、はたと気付く。


(あれ? でもやっぱり隊長も人間だから、お家でご飯を食べるのが特別って知ってるんだよね? やっぱりわたしのこと、満更でも……違うから! 駄目、これ以上変なこと考えちゃ! でもでも、他の男の人は家に招いてほしくないって言ってたし、やっぱり……え、どうなんだろう……今訊いちゃ、駄目だよね?)


 色々と鈍いファリエですら、今ここで「わたしのこと、恋愛対象として見てるんですか?」と訊くことは、穏やかさを取り戻しつつある現場に一石どころか、巨石を投じる愚行だと判断できた。なので唇を引き締めて、黙る道を選ぶ。


 ――とはいえどうしても、気になってしまい。つい隣で行儀よく座るティーゲルを、ちらりと見た。彼も視線に気付き、優しい表情でファリエを見返す。

(ううう……顔がいいよぅ……)

 少なくとも自分は彼に、ほのかな恋心を抱きつつあるだろう。なにせ元々が話しやすい相手であり、今も何かとファリエを気にかけてくれるのだ。なんとも単純な話である。

 再度顔を伏せて、自身のブーツの先っぽをにらむ。ちょっと泥で汚れているので、近々洗うべきか。


 こちらを見た、と思ったらすぐにうつむいてしまったファリエを不思議がるティーゲルだったものの、シリルから名前を呼ばれてすぐに顔を真正面に戻す。

「隊長におかれましても、ファリエさんをこれ以上困らせる事のないよう、またこれ以上彼女にたかられる事のないよう、節度を持った清きヒモ生活を送って頂ければ幸いです」

「さすがに俺も一応、食材費は払ってるんだが……いや、うん、気を付けるよ」

 口をすぼめてささやかな抵抗をするも、氷点下の目で見下ろされたので素直にうなずいた。


 ティーゲルが犬であれば腹を見せて屈服していそうな光景に満足したらしく、シリルも鷹揚にうなずき返す。

「分かって頂ければ何よりです。またファリエ嬢は、若手の男性団員から特に人気もございますので。下手に喧伝けんでんすれば刺されかねません。そちらも努々ゆめゆめ、お気を付けください」

「うむ、もちろん気を付けるよ……」

 ファリエ自身はそんなこと、初耳である。物分かりよく応じたティーゲルも信じられず、思わず顔を跳ね上げて二人を見た。

 愕然と呼ぶにふさわしい表情の彼女と目が合い、シリルは仏頂面のまま肩をすくめる。


「ヘイデンさんが過剰なまでに不安視されているのも、この事が原因の一つですよ」

「し、知らなかった、です……」

 好かれて嬉しくないわけではないが、平静でいられる自信もないため、出来れば知りたくなかった。すでに視線が左右にさまよい、手も無意味に上下する。


 露骨に動揺するファリエへ、シリルはいつも通り淡々と続けた。

「もっとも、多くの団員は貴方を孫かペット、あるいはマスコットと同等の立ち位置だと見なしておりますので。そのように、あまり身構えられなくてもよろしいかと」

「それも、知らなかったん、ですが……」

 こちらについては、全くもって知りたくなかった。孫はまだ人型だが……ペットとマスコットはどういうことなんだ。ひょっとして昨今の人間には、吸血鬼を犬猫と同列に扱う風習があるのか。


 シリルはおろおろと困惑中のファリエへ、ほんの少しだけ口角を上げて笑いかけた。

「ええ、そうでしょうとも。貴方のそういった、如何ともしがたい鈍くさく頼りない挙動を拝見する度、周囲が密かにほっこりと和んでいるだけですので」

「えっ」

「ですので今後も、引き続きスローライフな生き様を貫かれて、皆様方に癒しを与え続けて下さい」

 違った。単純に自分の運動神経の悪さが、マスコットという立ち位置を呼び込んだらしい。なんという不本意。

「ううう……分かり、ました……」


 しかし気の小さいファリエが、その立場に異議を唱えられるわけもなく。不甲斐なさで再度涙目になりつつ、弱々しくうなずくしか出来なかった。

 シリルの斜め後ろに立つヘイデンは、哀れみの目を彼女へ向けている。話し合いが終わった後、こっそりおやつでも渡すつもりなのだろう。なにせ彼も、ファリエを妹兼マスコット扱いしている一人なのだ。


 ファリエへ自衛を促して満足したシリルが、壁にかけられた時計に目を向けた。

「そろそろ朝礼の時間ですね。ファリエさんは特にまぶたが大変な事になっておりますので、一度お手洗いに行かれる事を推奨いたします」

「ひぃっ、分かりましたっ!」

 淡白な言い方だからこそ、余計に危機感を覚えてしまった。思わず目の上に手をかざしたまま、ファリエはアワアワと執務室を出てトイレに走る。


 だから彼女は、その後で三人が行った会話については全く知らなかった。


 正座し続けたことで足が痺れてしまい、ゆるゆると立ち上がったティーゲルへ

「もしもファリエさんを本気で落とされたいのであれば、血液以外の返報――何か気の利いたプレゼント等もお贈りすることを、お勧めいたしますね。幸い、彼女もすっかり貴方にほだされていらっしゃるようですので、もう一押しかと」

と、シリルが温度のない声で発破をかけたことも。


「は……?」

 猫目を見開いて、中腰のまま固まったティーゲルを見据え、シリルがなおもこう続けたことも。

「馬鹿が付くほど真面目でいらっしゃるお二人の場合、長々とじれったい状況を維持するよりも、さっさとどうにかなられた方が、業務効率も上がるかと推察いたしましたので」

「はっ? えっ? へっ?」


 おまけに表情を引き締めたヘイデンも、そこで身を乗り出し

「ファリエちゃんはとにかく奥手で、恋愛とは無縁の子なんです。なのでそういうつもりならちゃんと、あの子の歩調に合わせてあげてくださいね! ファリエちゃんを泣かせないなら、僕も応援します! 隊長、忙し過ぎて浮気の心配なさそうですし!」

と、身も蓋もない激励をかましていたことも。


「……あー、うん、うむ……そうだな、ありがとう……だが、君たちがそこまで言ってくれるならば俺も全身全霊で誠意を込めて、彼女の心を射止められるよう努力しよう!」

 居たたまれなさで赤面こそしたものの、最後には開き直ったティーゲルが右手を高々と掲げて、半ばやけっぱちにそんな宣誓をしたことも、もちろんファリエはまだ知らなかった。


 もっとも世の中は、知らなくていいことの方が案外多いのだけれど。

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