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38:夜勤前の風景

 第三部隊が夜勤を担当する日が、回って来た。夜勤は大まかに、日勤組の退勤後から日付が変わるまでを担当する前半組と、日付が変わってから日勤組が出勤するまでを担当する後半組の二組がある。

 本日のファリエは、後半組だった。メンバーは彼女以外にティーゲルとヘイデン、そしてアルマの三人だ。


 自警団本部から徒歩圏内の寮に住むアルマとヘイデンはともかく、徒歩二十分の距離に住むファリエはバスの最終便に乗らないと苦難が待っているため、本来の始業時間よりかなり前倒しでの出勤となる。

 とはいえ他に誰もいないバスの車内から、夜闇にすっぽり包み込まれた市街地を眺めるのは案外楽しいので、早めの出勤もさほど苦ではない。それに日傘を持たずに街の巡回が出来るのも、なかなか快適なひと時なのだ。


 仮眠から目覚めたファリエは、疑似血液で腹ごしらえをしてから顔を洗って歯を磨き、身支度を整えた。今日はお気に入りの、ピーコックグリーンを基調としたチェック柄のワンピースを選ぶ。ワンピースには袖がないため、共布ともぬので作られたボレロも上から羽織った。

 化粧や髪のセットも、いつもより少しばかり念入りになる。何故なら夜勤は元々出勤人数が少ないうえ、ティーゲルとのコンビで巡回に出られるのだ。それを考えると自然と、口元も緩んでしまう。


 出勤してしまえばいつもの黒い制服に着替えるとはいえ、せめて気持ちぐらいはお気に入りの服をまとっていたいものだ。また薄暗い室内や夜道で少しでも血色がよく見えるよう、口紅も普段より色の濃いものをわざわざ買っていた。

 ――が、そこは元来が気の弱いファリエなので、ザクロのような鮮やかな色を唇に落としかけて、はたと気付く。


「……変に思われたら、どうしよう。それに似合わない、かも……」

 ティーゲルは無論、アルマもヘイデンも優しい。仮にファリエが、ピエロのような白塗りスタイルで現れようとも笑ったりしないはずだ。しかし気を使われ、何も言われないのが一番怖い。

 また一方で自分が頼りなく幼い外見であることも承知しているので、大人びた色合いの口紅を使いこなせないのでは、という不安もよぎったのだ。こういう不安は買う前に、よぎってほしいものである。


 寝室に置いた小さなドレッサーの前で座り込んだまま、新品の口紅としばしにらみ合っていると、隣の居間からベルの音がかすかに聞こえてきた。

 遠隔地との会話が可能な、伝声器でんせいきという通話用魔道具の着信音だ。

 気の小さいファリエは、顔の見えない相手から突然話しかけられてしまう伝声器自体があまり好きではないのだが、こんな夜更けの着信だと余計に不穏な気持ちにさせられる。


(ひょっとして、お父さんが倒れた……とか……まさか、お兄ちゃんが車にはねられたり……?)

 思わず悪い予感がよぎり、つい速足で隣室に向かった。木と真鍮で作られた伝声器は、本体中央の赤い魔石が苛立たしげに点滅している。着信が切れない内に、受話器を素早く持ち上げた。


「……はい」

 次いで名乗らず、相手の出方を窺う。伝声器に出ても無闇に名前を言わないよう、アルマに以前教え込まれていた。相手が悪質な犯罪者の可能性もあるため、自分の情報は出来るだけ渡してはいけない、とのことだ。


 しかし今回、諸々の不安は次の瞬間に吹き飛ばされた。

「夜分に失礼します。ティーゲル・ホロウェイと申しますが、ファリエ・シュタイア嬢のお宅で間違いないですか?」

「えっ、隊長っ?」

 かしこまったフルネームでの挨拶に、ファリエは裏返った声を出してのけぞった。予想外過ぎる相手だ。というか、どこで電話番号を調べた――職場の連絡網か、と半ば混乱しつつ出所に思い当たる。


「ああ、よかった、ファリエ嬢だな。今、少しいいだろうか?」

 幸いティーゲルは、ひっくり返った声でもファリエと認識してくれたらしい。先ほどの堅苦しい物言いから一転して、いつもの朗らかな口調に戻る。

 ファリエはちらり、とテーブルの近くにある壁掛け時計へ目を向けた。幸いまだ、バスの時間まで余裕もある。

「はい、大丈夫です」

 そう答えつつ、こくりとうなずいた。


 よかった、ともう一度繰り返したティーゲルが少し沈黙の末、

「今日の出勤なんだが、よければ家まで迎えに行こうか?」

そんな申し出をした。まさかの誘い文句に、ファリエは束の間頭が真っ白になる。

「へ?」

「寮を出た時に、夜勤でも動きやすいよう車を買ったんだ。ファリエ嬢はバス通勤だと聞いていたから、君が嫌でなければ足として使ってやってくれないか?」

「えっ、でもっ、あの……」


 彼のお誘いで最初に湧き出たのは、喜びだった。だが喜び任せに応じるよりも早く、懸念が猛ダッシュで追いかけてきた。

 ティーゲルは夕食と、最近ではすっかり昼食もお世話になっていることを恐縮していたから、こんなにも気を使ってくれているに違いない。

(でも、わたしは全然気にしてないのに……そんなほいほい足に使って、いいのかな。幻滅されない?)

 ファリエはそんな懸念に絡めとられ、ふるりと身震いもしてしまった。


 冷静に考えれば、自分から言い出しておいて、相手が快諾するや否や幻滅する輩はどうかしているのだが。そこは気が小さい心配性のファリエである。すっかり言い淀んでしまった。

 受話器の向こうで思い悩む彼女に気付いたらしく、ティーゲルも先ほどより少ししょげた声で言い添えた。


「すまない、もし迷惑だったらいいんだ。急に変なことを言い出して申しわ――」

「ち、違うんですっ。むしろ、わたしこそ、ご迷惑かけちゃうんじゃって……!」

 ファリエは柄にもなく彼の謝罪を遮って、アワアワとそう打ち明けた。このまま通話を打ち切られそうな気がしたのだ。

 受話器と本体をつなぐコードを指に絡ませて、自分以外に誰もいないのに無闇に左右へ視線をさまよわせつつ、たどたどしく続けた。


「あ、あの、一緒に行けるのは、とっても嬉し――あ、いえ、助かり、ます……でも、隊長のお家、たしか、ちょっと遠いですよね? だから、いいのかなぁ……って」

 弱々しい声での主張を、ティーゲルは朗らかに笑い飛ばした。

「なるほど、そういうことか。車ならたかが知れている距離だ、全然構わないとも。むしろ快く夜勤に出てくれる君に、礼が出来て何よりだ」


 優しい声に励まされ、そしてあわよくば彼に見てもらいたいと思っていた、お気に入りのワンピースを視界に入れて、うん、とうなずいた。

「それじゃあ……あの、お願い、します」

「うむ、任された!」

 弾むような快諾に、ファリエもへにゃりと微笑む。

 その後、迎えに来てもらう時間を打ち合わせて、通話は終了した。伝声器に戻した受話器をしばらく見つめ、ファリエはだらしのないニヤニヤ笑いのままだった。


 が、彼女はすぐに顔を持ち上げて、寝室に軽やかな足取りで引き返す。

 通話前に自分が座り込んでいた、ドレッサーの前に再度腰を下ろした。目の前には先ほどまでの悩みの種だった、新しい口紅がある。


「……せっかくだしね。どうせお茶飲んだりしたら、すぐ取れちゃうんだし」

 そんな言い訳を、誰にするわけでもなくゴニョゴニョと続けて。

 ファリエはぽってりとした唇に、鮮やかな赤色を重ねた。真っ白な肌に深い赤色が、思いがけずよく映えている。

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