お気に入りのワンピースを身にまとい、そしていつもより少しお化粧にも気合を入れ、浮かれていたのも今は昔――
そこから三時間ほど経過したファリエは、ちょっとばかり落ち込んでいる。いや、むくれていると評した方が正しいか。
「君たち吸血鬼は、本当に夜でもよく見えるんだな。助かったよ、ファリエ嬢」
「いえ……そんな」
夜間の市街地の巡回を終え、自警団本部へ戻る道すがらティーゲルに礼を言われたファリエは、そっと目を伏せた。声にも覇気や嬉しさがない。
意気消沈気味の反応が意外だったのか、ティーゲルは元々大きな猫目を更に大きくした。
「どうしたんだ? どこか具合でも悪いのか?」
「いえ、大丈夫、です」
ファリエは慌てて首を振るけれど、顔は持ち上げられなかった。彼と目が合ったら最後、こらえきれずちょっと涙ぐんでしまうかもしれないからだ。就職二年目の社会人とは思えぬ、情けない話である。
――事の発端はファリエが自宅で、ティーゲルとの通話を終えた後にまで遡る。彼の車は、約束の時間の五分ほど前にはファリエの自宅近くに到着した。
十分前には彼女もアパートの下まで出ていたので、そのまま丁寧に礼を言って同乗した。
ここまではよかった。
が、彼はファリエの出で立ちについて、一切言及しなかったのだ。ファリエはそのことが、卑しくも残念だった。
もちろんティーゲルが、いちいち女性の服装や髪型に気を回し、適時適切に褒められるような器用さを持ち合わせていないことはファリエも薄々気付いていた。彼女の女性としての直感あるいは本能が、「この人にそういったときめきを期待するな」と訴えかけていたのだ。
それに万が一、面と向かって彼に賞賛されたところで、気恥ずかしさから悶絶していたことも必至なのだが……分かっていてもやはりがっかりしてしまうのだ。
彼のことを、ここに来てようやく異性として認識してしまったのだから――
以上のような非常に身勝手かつ乙女な理由から、今のファリエはやや気落ちしていたし、そんな自分に腹も立っていた。よってどうしても、会話が弾まないのだ。
ティーゲルも仕事中はあまり雑談を行わない性質のため、待ち望んだはずの夜間の巡回だったのに会話はほぼないに等しかった。
その中での希少な会話の一つが、先ほどティーゲルから振ってくれた「ファリエによる酔っ払い発見」というお手柄である。
吸血鬼は元々夜間に行動することが多かったので、今も人間より夜目が利くのだ。
おかげで大通りから一本入った路地の、街灯の灯りが届かないゴミ箱の裏で眠りこけている酔っぱらいを発見出来た。
無事に彼を自宅まで送り届けたことへの賛辞が、先ほどの彼の言葉だったのだ。
あいにくファリエの欲しい賛辞はそれでなかったため、つい普段のように喜ぶことが出来なかった。いつもだったら真っ赤になって照れたであろう出来事に、ほぼ無反応の彼女が気にかかり、ティーゲルも悩まし気な表情になっている。
そんな具合で自警団本部まで戻ったものだから、出入り口を見張る警備担当からは訝しがられ、もちろん第三部隊のオフィスで待っているアルマとヘイデンも首を傾げた。
二人の待機中もこれといって事件は起きなかったらしく、机を向かい合わせに二つくっつけて、ボードゲームに興じていた。遊んでいるのは人生ゲームらしい。
「お二人さん、なんかケンカでもしたん? めっちゃギスギスしてるけど」
子沢山の駒を手にしたアルマの指摘に、ファリエはギクリと肩を跳ねさせた。床をにらみ続けていた視線も、がばりと持ち上げる。約束手形の束を抱えたヘイデンも気づかわしげで、どういうわけかティーゲルをちょっと恨めし気に見ている。
(ヘイデンさんが勘違いしちゃってる? どうしよう、ティーゲルさんは悪くないのに!)
喧嘩をしたという疑惑もとい濡れ衣を、彼に被せるわけにはいかない。ファリエは角が立たないよう何か言い訳を、と焦る頭で考える。
(ちょっと熱っぽいってことにしようかな……ううん、だめ。さっきティーゲルさんに、具合は悪くないって答えちゃったし……あ!)
妙案得たりと、脳内でポンと手を打った彼女はわざわざ挙手をして
「喧嘩じゃないんです! わたしちょっと、お腹が空いて、それで元気がなかっただけです!」
と宣言した。
なんとも平和なことこの上ない不機嫌の理由であり、現に
「なんや。ご飯食べて来んかったん?」
ファリエも愛想笑いで応じる。
「はい。久しぶりの夜勤だったので、うっかりしちゃってて……」
「ほんまやで」
そのままケラケラ笑うアルマだったが、途中で何か閃いたかのように手を一つ打つ。
「せやったらほら、非常食さまの出番やん!」
「非常、食?」
キョトンとオウム返しをするファリエの右隣辺りへ、アルマが人差し指を向けた。短く切った爪に水色のネイルを施した、彼女の指先が示す方向へ顔を向けたファリエは、ひゅっと喉の奥を鳴らした。
右隣に立っているのは、当然一緒に巡回に出ていたティーゲルであり、彼も自分自身を指さして
「ふむ、なるほど。そういうことならば非常食として役に立とう! ファリエ嬢、ぜひ吸ってくれ!」
何故かキラキラと、非常にいい笑顔でこちらへ身を乗り出して来た。これは知らず知らずのうちに、墓穴を掘ったようである。
ぶわり、とファリエの額や首筋に嫌な汗がにじみ出る。晩夏の夜道を歩いたおかげで剥げかけていた化粧が、もはやほぼ全て流れ落ちてしまった気がした。さようなら、つい三時間前のなけなしの努力よ。
「いいいいっ、いえ! そんなっ、めっそうもないです! ぎっ、疑似血液っ……ありますしっ!」
ファリエは化粧に続いて髪が乱れるのも構わずに、全速力で首も左右に振った。現在のところ無言を貫いているヘイデンにも、涙目で助けを求める。
縋りつくような視線に気づいたヘイデンが、椅子の上で方向転換。こちらへ向き直り、ひょいと細い肩をすくめる。
「せっかくだし、もらっちゃいなよ。隊長の健康診断も兼ねてさ、ね?」
まさか彼までも、ティーゲル陣営に加勢するだなんて。
ファリエは遠い東国の歴史書に出て来る、四面楚歌という故事成語を思い出した。四方を敵軍に包囲され、どうにも出来ない孤立無援の状況に由来する言葉らしいのだが、今の自分にぴったりである。
「うっ、うぇっ……」
ファリエは裏切者、とヘイデンを罵りたかった。てっきり彼だけは味方をしてくれる、と信じていたのだ。
しかし性根がとにかくお人好しな彼女は、罵る直前である仮定を思いついてしまった。
(ヘイデンさんは、ほんとに親切心で言ってくれてるのかも……? だってこの後、非常しょ――ティーゲルさんは仮眠するんだから、吸血した方が寝つきもいいだろうし……たしかに、健康診断も出来るし)
もちろん、そんなはずはない。ヘイデンは完全なるお節介仲人気分での発言なのだが、これまでに培った信頼関係故にファリエはお花畑な結論にたどり着いたのだ。加勢された非常食ことティーゲルの方が、胡散臭そうに彼を見据えているというのに。
好意的解釈をこじらせたファリエは、文字通り頭をかかえて懊悩した末、
「えっと……それじゃあ、あの、ちょっとだけなら……」
これが飲み会へのお誘いであれば、弱々しさを突かれて結局二次会まで連れ回されそうな返答をする羽目になった。
なんとも気の小さい了承であるが、ティーゲルは自分の胸板を豪快に叩いて快諾する。
「うむ、好きなだけ飲んでくれ!」
「そっ、そんなことしません!」
ティーゲルの勢いにつられて、ついキツい口調になった。ファリエは慌てて自分の口を覆ったが、一連の挙動を眺めていたアルマがのけぞって大笑いする。自分の膝もバシバシ叩いていた。
「せっかくやから多めに吸ったげて、隊長に黙ってもろたらええんちゃう?」
そんな無責任な提案をしてから、彼女は立ち上がった。次いでヘイデンにも目くばせ。彼も一つうなずいて、自席から立ち上がる。
「それじゃあ僕たち、巡回に行ってきますね」
「ファリエはちゃんと、ご飯食べぇや? ほんで隊長は、ちゃんと食べられたってくださいね?」
むちゃくちゃなことを言い残すアルマに、ファリエは頬をひくつかせて、ティーゲルは快活に笑った。
「ああ、非常食の役目は果たそう!」
彼の言葉に二ッと笑い返したアルマが、高い位置に結った茶髪を翻してファリエたちの横を通り、オフィスを出て行く。ヘイデンも二人へバイバイと手を振り、軽やかな足取りでそれに続いた。
軽い調子で彼に手を振り返したティーゲルが、オフィスの両開きドアが閉じると同時にファリエを見る。
「ここで吸血、というのも不用心だな。いつも通り執務室でいいか?」
「えっ、あ……はい……」
とんとん拍子でここまで話が進み、今更「腹ペコというのは方便です」とは言えなかった。死んだ魚の目で、ファリエもティーゲルの提案に応じる。
何が楽しくて、「いいな」と思っている男性を非常食扱いせねばならないのか、と己のうかつさを呪いながら。