執務室にある自分の椅子に座ったティーゲルと、ファリエは向かい合わせに立つ。すっかりお馴染みとなった、恒例の吸血ポジションである。
毎回嫌々で行っているとはいえ、回数をこなしていればそれなりに手際もよくなる。さっさとジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを数個開けたティーゲルへ一言断り、ファリエは流れ作業のように彼の両肩へ手を置き、かぷりと噛みついた。
ここで隙間時間を設けると余計なことをあれこれ考えた結果、羞恥心で死にたくなる。よって出来るだけ無の状態を保ち、手っ取り早く終わらせるに限るのだ。噛みついた時にティーゲルがふとこぼす吐息に、今も変わらず動悸が起きてしまうし。
咄嗟についた嘘に反して、ファリエは全く空腹でないため、いつもの半分ほどの量だけを吸うことに決めた。
だが、満腹状態でも彼の血は美味しかった。ファリエが食事の面倒を見るようになって、格段に風味が磨き上げられている。そのためうっかり、いつも以上に吸ってしまうところだった。
(これが、デザートは別腹っていうことなのかな)
アルマや先輩魔術師のメアリと食事へ行った際、彼女たちがよく口にする言い訳を今になって実感できた。人を食へと駆り立てるのは、何も空腹だけではないらしい。特別で美味しいものもついでに食べたい、という生存欲とは異なる欲望もまた存在するようだ。
結果として理性を総動員して、普段の七割ほどの量で吸血を終えることになった。いつも通り、名残惜しさで緩慢に顔を離してから、噛み痕へ治癒魔術をかける。
「痛く、なかったですか?」
ついついこう尋ねてしまうのも、定例の吸血の際と同じ流れだ。ティーゲルも笑って、いいやと応じる。
「大丈夫だ、痛みはほとんどなかったよ」
これも、いつもの流れだ。
普段と変わりない様子にホッとしたファリエだったが、治癒魔術で傷の塞がった彼の首筋に視線を落とし、思い切り目を見開いた。
治癒魔術によって止血は完了しているし、何より牙を抜くと同時にティッシュで傷跡も押さえていたのに、噛みついたところを中心に、円を描くような赤い跡が残っているのだ。
だがよくよく見れば、それは血に由来する赤ではなく、もっと艶やかかつ華やかな色味だった。
それはファリエの唇に塗られていた、口紅の跡だった。そのことに気付き、ファリエは血の気が引いた。手指の先もひんやりしてくる。
定例の吸血であれば、きちんと歯を磨いて口紅も拭い取った状態で行っている。だが今日は思いがけぬ吸血だったため、そのことを思い切り失念していたのだ。幸いにして出勤前に歯は磨いているし、それ以降も水しか口にしていない。衛生面の問題はないはずである。
今すぐにでも強引に拭き取ってしまいたいが、こうもくっきり残っていれば、少々手荒にこする必要があるだろう。ティーゲル本人に気付かれずに済ませるのは、無理があるように思えた。
現に彼も今、自分の首筋を凝視したまま見る見るうちに青ざめるファリエを目の当たりにして、異常事態を察したらしい。表情が曇っている。
「ファリエ嬢、どうしたんだ? 何か……俺の首に、問題が?」
「あっ!」
ティーゲルは恐る恐る尋ねながら、噛まれた部分を指で触った。そして皮膚に残る、油分多めのペトリとした感触にたどり着いた。
「ん? 何か付いて――」
「ごっ、ごめんなさい! あのっ、今日、口紅落とすの……忘れちゃって……」
訝しげな彼が、指についた赤色を眺めるのと、ほぼ同時にファリエは頭を下げた。
「口紅……」
頭を下げたまま震えるファリエを見つめ、ティーゲルは小さく呟く。次いで、得心したように大きくうなずいた。
「そうか、なるほど。今日はいつもより顔色が元気だと思ったら、口紅が赤かったのか」
(あ、今そこに気付くんだ……)
しみじみと発せられた言葉に、そんなどうでもいい感想を持ってしまう。一応彼も、化粧の変化をなんとなーく察してはいたらしい。
おっかなびっくり少しだけ顔を持ち上げたファリエと目が合い、ティーゲルは朗らかに笑い返した。
「ふむ。やっぱりファリエ嬢は赤も似合うんだな」
首筋に無許可でキスマークを残されて言う感想ではなさそうなのだが、ファリエは彼の期待に応えるかのように顔も真っ赤に染めてしまう。
「きょっ、恐縮、です……でもほんと、口紅はごめんなさい。すぐに責任持って、きれいにします」
「そこまで気にしなくていいよ。拭けば取れるんだろう?」
本当に一切機嫌を損ねていないどころか、むしろ少し嬉しそうに琥珀色の目を細め、ティーゲルは机のティッシュを引っこ抜いた。だが、手鏡など持ち合わせていない彼が正確な場所を知るわけもないので、ファリエがあわあわとそれを手伝う。
「クレンジングオイルがあればよかったんですが……ちょっと強くこするので、痛かったらごめんなさい」
「ああ、分かった」
大らかにうなずいた彼だったが、途中でファリエに視線を縫い付け、そのまま真っすぐに凝視する。ひょっとして口紅が色移りした際に、彼女の口周りも愉快なことになったのかもしれない。ファリエは慌てて口元を隠そうと手を動かしたが、途中で硬直する羽目となった。
ティーゲルが、彼女の目元に指を添え、そのまま指先で優しく目尻を撫でたのだ。
彼から触れられることなど滅多にないうえ、こういった親密な接触は初めてだ。ファリエは思わず、呼吸も忘れてしまった。