「あの……た、隊長?」
ファリエが赤い顔で目を潤ませ、おずおずとティーゲルへ呼びかける。
突然彼に触れられて仰天のあまり固まっていたのだが、いつまで経ってもティーゲルが手を離しそうにないため、とうとう気恥ずかしさと背徳感が限界を超えたのだ。
涙目での呼びかけに、真剣な面持ちで彼女の顔をのぞきこんでいたティーゲルもハッとなった。視線を斜め上に慌てて飛ばし、体も同じく斜めにそらしてファリエから手を離した。
「すまない、急に触ってしまって! 実は、前から気になっていたんだ……君の、瞳の色が変わるのが珍しくて」
「瞳、ですか?」
小首をかしげ、ファリエも先ほどの彼のように自分の目元に指を這わせる。どうやらティーゲルは色っぽい事情というよりも、単純明快な好奇心でファリエの顔に触れていたらしい。
「ああ。いつも吸血が終わると、しばらく綺麗な赤色になってるんだ」
そっぽを向いたままの彼の言葉に、たちまちファリエは眉を寄せて口角も下げる。うっかりティーバッグを三十分入れっぱなしにしていた紅茶を飲んだ時のような、見事な渋面である。
吸血鬼の光彩は、生き血を吸うと暫く血の色に変わるのだ。元の瞳の色が何色であっても、必ず真っ赤に染まる。更に不思議なことに、いわば生き血の紛い物である疑似血液では、このような現象は起きないのだ。成分はほとんど同じだというのに。
人間や家畜を襲うことがなくなった現代吸血鬼にとって、もはや「知っていても知っていなくても、どっちでもいい」程度だった光彩豆知識のため、ファリエもすっかり忘れていた。まさか毎回、被吸血者から観察されていただなんて。
居たたまれなさで、つい視線を下げる。
「ごめんなさい……これ、吸血鬼の体質なんですけど……気持ち悪い、ですよね」
「そうか? さっきも言ったが、俺はとても綺麗な色だと思っているよ」
ファリエへ顔を向け直したティーゲルが、再度じっと彼女の瞳をのぞきこんだ。次いで歯を見せて快活に笑う。
「ほら、やっぱり綺麗だ」
先ほどの比でなく、ファリエは全身を真っ赤に茹だらせた。鼓動も一気に五倍速になり、耳の奥でもドクドクと音がする。
彼女とて分かっている。この褒め言葉は、変化する光彩の珍妙さや、毒々しいまでの色鮮やかさに対してのものなのだと。例えばその辺の道端に咲いている、名もなき花を見かけた時に発する「綺麗」と、レベルは同じはずなのだ。
(分かってるけど……だめ、顔がにやけちゃう……泣きそう……)
生まれた瞬間から運動能力に問題を抱え、今も昔も泣き虫鈍くさ吸血鬼として周囲に愛でられながら生きてきたファリエは、「可愛い」とは言われても「綺麗」と言われることがほぼ皆無だった。
そんな初見の褒め言葉が、よりにもよってほんのり恋心を抱いている相手から発せられた。これは嬉しさや驚きや疑念が大暴れしても、致し方ないだろう。
結果として赤い顔で濡れた瞳を伏せ、もじもじと両手の指を絡ませる彼女の様子は、傍から見れば非常に蠱惑的だった。恐らく少し前――首にキスマークを残された辺りから重傷を負っていたであろう、ティーゲルの理性へ更なる痛手を与えるほどには。
彼はほぼ無意識に、ファリエの赤い頬へもう一度手を伸ばした。
まさかの二回目だったため、ぴくり、とファリエの肩も小さく跳ねる。だが、彼の手を拒むことはしなかった。
立ち尽くす自分を見上げる琥珀色の目が、見たことがない熱を持っていたのだ。ただ、彼が自分を欲しがっていることだけは分かった。だから動くべきではない、と直感で判断したのだ。
ティーゲルの大きな手は、先ほどと同じく赤く染まった瞳を愛おしむように目尻を撫でる。ファリエが戸惑いながらも抵抗せずに彼の様子を窺っていると、指先はそのまま頬へと下がっていった。
彼のかさついた指先の感触が少しくすぐったく、ファリエはつい口元を緩めて目を細めた。これはくすぐったさで笑ってしまっただけなのだが、彼女は現在の状況を見誤る、あるいはナメくさっていた。
ティーゲルは彼女の淡くほどけた表情によって、業務中に絶対入れてはいけないスイッチが入ったらしい。頬を撫でていた指は更に下降して、口紅の薄くなった彼女の唇に触れた。そのまま柔らかな感触を楽しむように、ふにふにと押したり撫でたりしている。
(あ……これ駄目かも)
終始どぎまぎしっぱなしだったファリエの脳内の片隅の、更に最果てに唯一残っていた冷静な部分が、ここでようやく察した。これ、このままキスされちゃうヤツだと。
(ちょっ、だっ、わたし、さっき、血飲んで……!)
誰かに見られるかもしれない、といった危機よりも先に思い浮かんだ不安点は、これだった。ファリエは恋するお年頃の乙女なので、ファーストキスが血の味という異常事態は避けたいのだ、許してほしい。
殺伐フレーバーなキスの可能性にファリエが怯んだことで、どこか陶然としていた彼女の表情も連動して強張る。この変化を目の当たりにして、ティーゲルも目を見開いてぎくり、と動きを止めた。
次いで彼女の柔らかな唇にちょっかいを出していた手も離し、握りこぶしに変えて、己の頬を思い切りぶん殴った。彼の正面に立つファリエには、メシャッという妙な音も聞こえた。どこか折れたのではなかろうか。
「ひぃっ! ティーゲルさん、何してるんですッ!」
「すまない! つい不埒なことをしてしまった!」
うっかり名前で呼んでしまった、悲鳴混じりのファリエの問いかけに、瀕死の真顔になったティーゲルが裏返った声でそう詫びた。
この程度のセルフ体罰では物足りないと思ったらしく、彼は立ち上がるとシリルの机に向かい、机の端に置かれている花瓶を手に取った。黄色やオレンジでまとめられた花束が活けられた大きな花瓶を頭上でひっくり返し、その水と、ついで花を浴びた。
この奇行については、ファリエも制止や詰問を投げかけられなかった。ただ目を丸くして、ぽかんと見守るばかり。その瞳は少しずつ、普段の深い青色に戻りつつあった。
「隊長にも……そういう欲求、あったんですね」
ファリエはびしょ濡れになったティーゲルが律儀に花を拾い上げ、空になった花瓶へ戻す様子を眺めてぽつり、と呟いた。どこか感心混じりですらある。
アホ面でアホな感心をする彼女をちろり、とティーゲルは横目に見る。彼も耳まで赤くなっており、ついでに不貞腐れているようにも見えた。
「さっきは本当にすまなかった……だが、あるに決まってるだろ。君は俺を、聖職者か何かと思っていないか?」
「あ、そうなんです、ね……えっと、ごめんなさい……」
事実その通りのため、ファリエは両手の指を絡めてへどもどと視線を下げた。図星だったようだ、とその反応でティーゲルも察したらしい。不服そうに、一層渋い顔になっている。
巡回中のような、気まずい空気と沈黙が戻ってきてしまった。
ファリエはこの空気をどうにかしたい、と居たたまれなさに背を丸めながら考え込み、
「でっ、でも、欲求、あってよかったです!」
多分一番言わない方がいいことを言った。元気いっぱいに。
「……へ?」
ティーゲルから先ほどのファリエ以上のアホ面を向けられ、彼女も遅れて失言に気付く。
これでは襲ってほしいと宣言している痴女である。ファリエの額に、大粒の汗がにじんだ。
「いえっ、そのっ、そうじゃなくて……えっと、隊長も普通の男の子だったんだーって、あのっ、安心っていうか、嬉しくて、あ、ちがっ、えっとあの……」
口を開くほどに深くなる墓穴に比例して、ファリエの目に涙がたまる。
混乱の余りとうとう落涙してしまった時に、ティーゲルが気の抜けた笑みになった。
「ファリエ嬢、落ち着いてくれ。なんとなく、励ましてくれてるのは分かったから」
「……よかった、です」
鼻を鳴らしてどうにかそれだけ答えると、ティーゲルは短く噴き出した。
花瓶の水で濡れ、顔に張り付いていた前髪を上にかきあげて、ティーゲルは視界を確保。そしてまだ涙目のファリエを見つめて表情を引き締めた。姿勢も正す。
「ところで、ファリエ嬢」
「はい……?」
「先ほどのお詫びや、いつも作ってもらっている食事の礼も兼ねて、君に何かできればと思うんだが。欲しいものは、ないだろうか?」
不意打ちの申し出に、ファリエの涙もたちまち引っ込んだ。
「えっ、そんな、いいですよ! 気にしないでくださ――」
「そういうわけにはいかない。君には無理を言って補佐官になってもらったうえ、私生活でも世話になりっぱなしなんだ。年長者として上司として、何か報いさせてくれ。頼む」
ここまで言われて、おまけに頭まで下げられて、ファリエはそれ以上断ることが出来なかった。
あまり彼の負担にならず、さりとて「気を使われた」と察しない程度の無難なプレゼントはないだろうか、と頭を抱えて考える。
が、ファリエは途中でついうっかり、あることを思いついてしまった。
(ティーゲルさんはわたしのこと、ちゃんと女の子として見て、くれてるんだよね? もしかしたらって、考えてもいいよね?)
初めての「綺麗」という賛辞に加え、初めての男性とのいい雰囲気により、ファリエの思考はずいぶんと疲弊していたし、きっと諸々が麻痺していたのだろう。
「ちなみに、なんですが……」
「うん?」
「その欲しいものって、何でもいいんですか? 例えば、一緒にお出かけ……とか」
平素の彼女では考えられないようなことを、口にしたのだ。
「ああ、もちろんだ!」
そして問われたティーゲルも、理性が首の皮一枚でつながっているような惨状だったため、爽やかに馬鹿丸出しで快諾した。