目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

45:その頃の元補佐官

 ティーゲルから出し抜けに告白され、大いに慌てるファリエであったものの、今後も口説かれることを了承した――そんな緩やかな時間がニーマ市の片隅で流れていた日の、夜のことだった。

 同市にある市街地には、格子のような形で大通りがいくつか設けられている。大通りの近辺には、活気のある飲食店や各種小売店、あるいは自警団本部のような公共施設がひしめいている。


 一方で大通りから一本小道に入れば知る人ぞ知る穴場があり、そこから更に奥へと潜って行くと、少々店構えも客層も品がない酒場などがこっそりと生息していた。

 かつて第三部隊で隊長の補佐官を務めていた、汚机おつくえ職人ことギデオンがいるのも、そんなガラの悪い酒場だった。


 独身かつ一人暮らしである彼の終業後の楽しみは、少し前までは大通りにあるバーでのひと時だった。立地の良さが示す通り、品位も味もお値段も上等な店だ。

 だが補佐官の職を解かれ、おまけに異動先が閑職――備品管理課の下っ端事務員であるため、給与が思い切り下がってしまった。そのためバーへ頻繁に通えないのだ。


 それもこれも、あの無能で脳みそも筋肉で出来ている馬鹿上司のせいである。たしかにギデオンは愛想がなかったし、ほんの少し“だけ”仕事でも手を抜いていた、かもしれない。

 だが最低限の仕事はこなしていたと思うのだ。


 にもかかわらずこんな仕打ちを受けている現在、今まで以上に酒を飲まねばやってられないのだ。たとえ行き先がこのような、旨くもない安酒とつまみしか出てこない雑多な酒場だったとしても。

 なおギデオンは酒好きの割に酔いやすい体質のため、現在の彼に

「だったら家で大人しく飲めばいいだろう」

という反論は通らない。苦言を呈しようものなら、そのまま隣に座らされて延々と愚痴を聞かされる羽目になるだけだろう。


 ちびちびと酒を飲む、小汚く歯のない中高年男性に囲まれながら、七三頭で面白みのないスーツ姿のギデオンも同様に、匂いのキツい酒を少しずつすすっていた。

 そんな時だ。カウンターに座る彼の背後に、一人の男性が歩み寄って来たのは。

「失礼。隣、いいですか?」

 不意に声をかけられ、ギデオンは一瞬体を震わせた。無作法が横行するこの店で、わざわざ隣に座ることを確認する客などいないのだ。酷い時など、自分の頼んだつまみを勝手に食べ始める不届き者もいるぐらいだ。


 そのためかえって気味悪さを覚えて恐々と振り返ると、体格がよく、しかし清潔感のある身なりの男が立っていた。自警団の武官にいそうな体型ではあるが、どうにも見覚えがない。色々と問題点の多いギデオンだが、人の顔を覚えるのは得意なのだ。

 同僚でないとなれば、ただの丁寧な利用客である。見たところ怪しげな様子もないので、ギデオンも小さくうなずいて許可を出す。


 男も手短に礼を言い、隣の木椅子に座った。そしてカウンター奥の店員にビールを注文する。その仕草にも横柄さや反社会的な匂いはしなかった。

 放っておいても問題なさそうだ、とギデオンは念のためつまみのピクルスだけ近くに引き寄せて、男を無視することにした。


 だが生憎、男はその間もギデオンを横目で窺い続けている。

「自警団さんでも、飲まなきゃやってられない時があるんですね」

 そして出し抜けに、そんな哀れみのこもった言葉をかけて来たのだ。ギデオンがギョッとなって再度男を見ると、店員から受け取ったジョッキ片手に愛想よく笑っていた。

「あなたはいきなり、何なのですか」

 露骨に警戒心を見せるギデオンにも、男は笑みのままだ。

「接客業をしているもので、仕事の愚痴を聞くのは得意なんですよ。色々ストレスも溜まってるようですし、よければ吐き出しちゃいません? もちろん僕がおごりますし」


 日々フラストレーションを溜めに溜め、しかし恋人や友人もいないため吐き出し口が酒以外になかったギデオンにとって、それは天からの福音に聞こえた。

「では、一杯だけ……」

 などと言い訳をしつつ、あっさりと口を開いた。


 もはや爆発寸前だったことと、自制心が緩む程度には酩酊していたため、舌は業務時よりもずっと滑らかに動いた。

 体格がいい上に、よくよく見ると獰猛な目つきの男であったが、前言通り非常に聞き上手である。邪魔にならない程度に相槌を入れてくれ、おまけにギデオンへ大いに同情してくれたのだ。

「酷い上司ですね。美人の部下に骨抜きにされて、今まで支えてくれたあなたをあっさり捨てるなんて」

「そうでしょう! これだから、頭の悪い連中は嫌いなんです! 連中は即物的過ぎるんですよ!」

 こうして二人して、熱のこもった口調でティーゲルのことを罵倒し続けた。


 おかげで来店時は柄にもなく落ち込み切っていたギデオンの心持ちも、グラスを追加で三杯空ける頃にはすっかり上向きになっていた。

「久しぶりに、楽しく酒が飲めた気が……します。ありがとうございます」

 だから素直に礼を言った。他人に礼を言うなど、十年ぶりかもしれない。


 しかし親切で愛想のいい男は、笑顔のまま静かに手を振った。

「いえいえ、こちらも楽しく過ごせましたから――あ、そうだ」

 ウィスキーの入ったグラスを置き、男が分厚い手を一つ打つ。

「たしか今度、秋祭りがありますよね」

「ええ、あと二週間程でありますが」

「僕、ここに越して来たばかりなんです。よければ愚痴ついでに、祭りのことも教えてください」


 そう言ってずい、と男は身を乗り出した。たしかに彼の話し方には、この地方特有の抑揚の付け方がない。生まれは本土の、おそらく東側か。

 もっともこの街自体は、他所よそから流入してきた職人も多く住んでいるため、イントネーションや訛りの違いもさほど目立たない。おそらくこの男も、そんな職人の一人なのだろう。


「ええ、構いませんとも」

 愚痴を聞いてもらえたことですっかりご機嫌になっていたギデオンは、頼られたことへの嬉しさもあって懇切丁寧に祭りのことを教えた。

 議員が来島する予定であることや、自警団の当日の仕事内容なども、細かに。


 しかし、一つだけ――

(今は制服ではないのに、彼はどうして私が自警団の所属だと分かったのだろう?)

という疑問だけは、男に話しかけられた時から頭のどこかでくすぶっていた。


 だがそれもすぐ、アルコールと楽しい会話によってかき消された。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?