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※51:先輩どもの嘆き

 休憩時間中に洗い物も済ませよう、と速足で執務室を出たファリエは、大部屋を出る前にうっかり足を滑らせた。そのまま前のめりになる。

 思いがけない嬉しいお誘いに文字通り、浮足立っていたためだろう。もっとも一番の要因は、自分の鈍くささに違いないが。

 しかしふとした時にすっ転ぶのは、彼女の特技とも言える。執務室からファリエが出てきた時から、実はアルマがしっかり見張ってくれていたので、ティーセットごと転倒する前に体を支えられた。


「あっ、ありがとう、ございますっ」

 支えられ慣れたホールド感に、ファリエがハッとして顔を上げると、苦笑気味のアルマがいた。

「ファリエ、ちゃんと足元――いや、自分は見とってもこれやったな」

「はい……ごめんなさい、足元も頼りなくて……」

「まあ、とりあえず気ぃつけときや。怪我したらあかんしね」

「はいっ」


 アルマ側も、ファリエが転ぶこと自体は受け入れている節がある。ファリエはクツクツと笑う彼女に照れ笑いを返し、今度は少し歩調を緩めてオフィスを出た。

 そして先ほどのティーゲルとの短いやり取りを思い出し、つい頬も緩めてしまった。ほんのり赤い顔のまま、軽やかな足取りで給湯室へと向かう。


 そのため、同時刻に大部屋で男性団員たちの多くがため息をついていたことなんて、彼女はちっとも知らなかった。

 男たちは示し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時にため息をつき、同じような姿勢で力なく机に突っ伏している。

「見た? あの嬉しそうなお顔……」

「うん……あれは、確定だよな……」

「あーあ……俺たちの天使が……」

 このような嘆きをこぼして、実際に涙目の者もいた。


 斜め向かいの席に座っているヘイデンとアルマは、彼らの様子をぐるりと眺めてげんなり。どちらも思い切り、眉をしかめていた。

「そんなガッカリするんやったら、さっさと声かけときゃよかったやん。自分らアホとちゃうん?」

「うん、それもそう。同感だね」

 冷ややかな二人の声に、誰かがぐぅっとうめいた。


 別の人間が涙声で反論する。

「だって仕方ないだろ! 下手に口説いたらファリエちゃん、ビビっちゃって泣くかもしれないじゃん!」

「ほんでずっと様子見して、牽制けんせいし合って、結局ぽっと出の隊長にかっさらわれたんやん。やっぱアホちゃうん?」

 切れ味の鋭い返しに、反論者もまたうめく他なかった。彼の隣に座る同僚が、肩を抱きつつ代わりに叫んだ。

「アルマちゃん、もうちょっと言い方優しくしてあげて! コイツ、死んじゃう!」

「失恋程度で死ぬな! どこのお姫様やねん!」

 この毒舌に、ヘイデンだけがのんきにアハハ、と笑った。そんな彼に

「人の心はないのか!」

という野次も飛ぶ。


 ついには本格的に泣き出す者も現れたため、二人は再度うんざり顔となる。同時に互いの顔を見て

「まあ、分からんでもない、けども」

「そうだね。ファリエちゃん、今までこの手の話題と縁遠かったし」

 一応ながら、共感の意は示した。


 ファリエと同時期に入団したアルマは直接見たわけではないものの、吸血鬼が入るということで入団決定時は割と騒ぎになっていたらしい、とは聞き及んでいた。

 一般的に吸血鬼は、享楽的で破滅的な性質を持ちがち、と思われている。生憎アルマにはファリエ以外に吸血鬼の知り合いがいないため、それが事実かどうか分からないが。

 おまけに本部の窓には全て遮光用のセロファンが貼られ、窓を開けない限りは快晴を拝めない、ちょっぴり陰気な職場にも様変わりしていた。こういった事情により、ファリエの入団時には色眼鏡で彼女を見る者も多かったようだ。


 だがふたを開けてみれば、入団した吸血鬼は鈍くさくて内気で、しかし真面目で善良な女の子だった。おまけにかなり可愛い。

「ファリエちゃんが想像以上にいい子だったから、僕らも呆気に取られたのは、事実なんだよね」

 机で頬杖をつくヘイデンが、当時を思い出したのかほんのり苦笑いを浮かべる。

「そうなん?」

 アルマの素っ頓狂な声に、彼はこくりとうなずいた。


「うん。だって吸血鬼って基礎魔力が桁違いだから、人間よりすごい魔術師がいっぱいいるでしょ? だから僕の指示なんか絶対聞いてもらえないって、本当はちょっと怖かったんだ」

「へぇ……やのに実際会ったら、あんなふにゃふにゃの、ネコかウサギみたいな小娘やったと」

「小娘かは分かんないけど、いい子で安心したのも事実かな。どっちかと言うと、ウサギっぽいのもその通りだね」

 二人で顔を見合わせて、にやりと笑い合う。


 そう。純粋培養で善性の塊のような人柄だったため、ファリエはいつの間にか団内――特に第三部隊内の癒し枠にすっぽり収まるようになっていた。ちなみに癒し枠として、彼女の教育係であるヘイデンも入っているのだが、その事実を当人たちは未だ知らない。


 そんな同タイプのヘイデンと、若手にもかかわらずしっかり者枠に入っているアルマの母性あるいは父性を、ファリエは入団直後からくすぐりまくった。

 この結果、ファリエはこれまで鈍くささや純真無垢さといった、社会人としてはかなり危なっかしい側面を二人に支えられて来たのだ。

 同時にこの頼りなさに比例して、保護者代わりとなっている二人のガードもかなり固くなっていた。しかしそれ故に、ファリエへ庇護欲以上の重たい感情を抱く同僚たちも、かえって安心していたのだ。


――これなら、他の誰かに抜け駆けされる危険性もないな。

――だったらゆっくり、ファリエちゃんとお近づきになったら、勝機もあるな。

――いやいや、先に鉄壁二人を篭絡させて外堀埋めちゃった方が、勝算があるんじゃ?


 などなど、お互いに腹の探り合い、あるいは牽制をし合って来た。

 が、ここへ来てそんな膠着こうちゃく状態を全く無視して、ファリエに急接近する男が乱入したのだ。もちろんティーゲルのことである。


 これまで彼は、ファリエに対して年長者として気遣う素振りこそ見せたが、恋愛対象としては全く見ていなかった。一方でファリエも、ティーゲルを含めた全団員に色目を使うことはなかった。お互い、オンとオフは分けたい性質なのだろう。


 そんな具合だったので、ティーゲルがファリエの恋心争奪戦に突如乱入した挙句に圧勝してしまうなんて、完全なる想定外だった。

 しかし彼は人柄もよく人望もあり、基本的には真面目一徹な“いい奴”なのだ。そもそも現在は自分たちの上司なので、表立って排斥はいせきできる相手でもない。

 全く持って、とんだダークホースである。実際の競馬でもしも同じ展開があれば、競馬場は大荒れになるだろう――そこまで考えたファリエ好き好き大好き勢は、先ほどと同じようにため息の多重奏を奏でた。


「……あんな。自分らの気持ち、分からんでもないって言うたけどな。女目線やとめちゃくちゃウザイのも事実やからな?」

 腕組みするアルマが半眼でそう吐き捨てるまで、ため息は続いたのだった。

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