着替えを済ませたファリエは、アルマの運転する車にカーシュ議員ともども同乗することになった。当初はバスで帰宅するつもりだったが、
「死にかけた子、歩きで帰すワケないやろ。ってか日傘もベキベキやのに、それで外歩けんの?」
と呆れ顔のアルマに諭されたのだ。実際問題として、日傘は軸が右へ左へと蛇行しているし、生地にもいくつか血痕が残っている。
まるで現代アートのような様相なので、これを差して祭りに浮かれる市街地を歩くのは精神的に厳しいだろう。
よってファリエは素直にアルマの厚意に甘え、彼女がカーシュ議員と秘書を自警団本部まで送り届けた後、自宅まで送ってもらうことになった。
そして家で改めてシャワーを浴びて全身の汚れを落とし、念のため疑似血液も摂取して、さっさと寝た。それが昨日の、午後十五時頃のことだ。
次に意識が戻ったのは、翌朝の九時だった。ベッドサイドの目覚まし時計を最初に見た時は、夜の九時かと思ったけれど、外はかなり賑やかなのだ。遮光カーテンの間からサッと外を見ると、空も明るい。朝の九時で間違いない。
どうやら半日以上、ずっと寝ていたらしい。おかげで背中が凝り固まっており、なかなか痛い。腰をひねるのも一苦労である。
傷は塞がったとはいえ、肉体・精神両方への多大なるストレスのおかげで疲れ切っていたようだ。ファリエは労うように自分の心臓辺りにそっと手を置き、次いでパジャマを脱いだ。
寝室に置いてある姿見の前に立ち、傷の有無を確認する。
幸い、肩と腹部と太ももに深々と刺さった氷柱の痕は、きれいさっぱり消え去っていた。見慣れた真っ白な肌に戻ったお腹を撫でている時に、ふと思い出す。
(そういえば今日、一緒にお祭りに行こうって……)
ティーゲルと待ち合わせの約束も取り付けていたのだ。待ち合わせの時間は十一時なので、今から準備すれば余裕で間に合う。
(ヘイデンさんに、人気の屋台が出る場所も教えてもらって……ティーゲルさんと行きたい場所も決めてたのに。服だって、新しいの買ったのに)
そう、昨日の朝までは本当に楽しみだったのだ。ずっと浮かれていたのだ。
にもかかわらず今は、ちっとも行きたくなかった。ファリエは脱ぎ散らかしたパジャマを、のろのろともう一度被り直す。
そしてベッドに腰掛けた。自分の膝に視線を落として、一つため息を付く。
(あんなことがあった後で、どうやって顔を合わせて……どうやってお話したらいいんだろう)
これに対する答えが分からず、そのままベッドへ横倒しになる。
一晩爆睡したおかげで心は平静を取り戻し、今はティーゲルへの怒りもない。あの時の諸々も、仕方がなかったと納得できた。
が、気まずさだけは右肩上がりで増えている。現にファリエは今、居たたまれない気持ちで涙目だった。ぐすん、と鼻も鳴らす。
(……だって助けてもらったのに思い切り、『ばか』とか『嫌い』って言っちゃったし……ティーゲルさんだって、きっと傷ついたし、きっと絶対怒ってる)
ファリエの中で彼への罪悪感と自己嫌悪が頂点に達し、たまらずブランケットを被り直した。
カーシュ議員からのアドバイス通り、ここで身支度をして彼と会い、おねだりという儀式を経て喧嘩を手打ちとするのが正攻法なのだと、分かってはいる。どうせ明日になったら、職場で顔を合わせる羽目になるのだから。
にもかかわらずファリエは、先延ばしという悪手を選ぶことにした。
(だって一応、大怪我したから。寝込んでも……いいよね。うん、仕方ないの。だって今ティーゲルさんに会ったら、申し訳なくて、絶対泣いちゃうし)
などと胸中でみじめに言い訳を繰り返し、ギュッと目もつぶる。
しかし待てど暮らせど、眠気は一向に訪れない。かれこれ三十分ほどベッドの中で寝返りを打っているのに、頭はどんどん冴えていくのだ。
そしてつい、ティーゲルのことを考えていた。
――どうしてあの時、ああも感情的に怒ってしまったのか。
――どうして自分はいつも、彼に酷いことをしてしまうのだろう。
ぐるぐると、そんな後悔に苛まれる。
いつだったか、二人で夕食を食べていた時のことだ。ファリエの故郷が、雑談の話題になったのだ。
吸血鬼の治める街は日光にさらされないよう、地下に作られることが多い。風変わりな構造のため、人間の観光地になっている場所も多かったりする。
ティーゲルは吸血鬼のコミュニティを今まで訪れたことがないらしく、地下都市に興味津々だった。
「ぜひ一度、ファリエ嬢の故郷へ行きたいものだ」
彼のこの言葉を、ファリエは単なる社交辞令だと思っていた。ここニーマ市から彼女の故郷まで、かなりの距離がある。そのためファリエも愛想笑いで気安くうなずいた。
「ありがとうございます。安くてきれいなホテルも多いので、お友達との旅行にお勧めですよ。人間の方向けのレストランも、いくつかありますし」
押しつけがましくない程度に故郷の宣伝をすると、ティーゲルは数秒ほど妙な表情を浮かべ、しかしすぐに笑顔で礼を言ったのだ。
あの妙な表情の意味が、今なら分かる。彼は社交辞令ではなく、ファリエと共に故郷を訪れたい、という意図でああ言ってくれたのだと。
自分のあまりの鈍感ぶりに、思わずうすら寒さすら覚える始末だ。
居たたまれなくなったファリエは、頭まですっぽりブランケットに覆われたまま、ベッドの上で無様に寝返りを繰り返した。陸に打ち上げられた魚のようである。
「わたし、最低……ほんとに死んじゃった方がよかったじゃない……ばかばかばかばか」
懺悔と呪詛を呟きつつ、死にかけお魚ごっこを続けていたが、その奇行が途中で止まる。
隣室から、伝声器のコール音が聞こえたのだ。
コール音に気付いて身を起こした時、最初に思い浮かんだのはアルマだった。昨日の別れ際に、
「ひょっとすると事件のことで、なんか連絡するかもしれへん。そん時はごめんな?」
と伝えられていたのだ。彼女が言っていたとおり、確認事項が見つかったのかもしれない。
ファリエは小脇にブランケットを持ったまま、居間へ向かった。
カーテンが閉め切られた薄闇の室内でもよく目立つ、目にもうるさい明滅を繰り返す魔石にうんざりしつつ、受話器を持ち上げる。
「……はい」
思い切り沈んだ声で応対すると
「朝早くにすまない。ティーゲルだが……ファリエ嬢、具合はどうだ?」
予想外の声が聞こえ、思わず呼吸が止まった。ファリエの目も点になる。