職場からの業務連絡かと思ったら、伝声器をかけて来たのはティーゲルだった。本日の彼は、ファリエ同様に非番のはずである。間違いなく、私用――すなわち、ファリエが無断キャンセルをぶちかまそうと図っていたデートに関する通話だろう。
「えっ、あ、あの……」
不意打ちだったため、ファリエは途切れ途切れに意味のない声を発することしか出来なかった。
ただうめくだけのファリエに、痺れを切らしたのか。はたまた、元々彼女の反応を待つつもりもなかったのか。ティーゲルが先に切り出した。
「ファリエ嬢。コロッケとケーキなら、どちらを食べたい気分だ?」
「はい?」
不可解な質問で気まずさも吹き飛び、ファリエは怪訝そうに眉を寄せた。
「それ、どっちも極端過ぎませんか?」
「う、うむ、そうかもしれないが……ひとまず選んでくれないだろうか?」
ティーゲルも突拍子のなさに自覚はあるらしい。受話器の向こうで言い淀む気配があった。更に彼の背後からは、ガヤガヤと街の喧騒が聞こえてくる。どうやら外にいるらしい。
ひょっとすると既に、待ち合わせ場所に向かっているのかもしれない。だがそれなら、どうしてファリエにこんな質問を投げかけるのか。わざわざ伝声器まで使って。
(とりあえず、先にお約束破っちゃうこと、謝ろう)
ファリエは受話器から聞こえて来た雑音により、冷静さを取り戻した。すうっと一度息を吸う。
「あの、隊長……すみません、今日、わたし、お祭りには――」
きつく目を閉じ、行けない旨を伝えようとしたが、最後まで言い切る前にやんわりとした声に遮られる。
「ああ、それは分かっている。だが、ひとまず選んでくれないだろうか?」
ティーゲルの声は優しいが、有無を言わさぬ圧力もある。ファリエはこの場にいない彼にたじろぎ、諦めて答えることにする。
「ええっと……その二つなら、ケーキ……の気分です」
「ケーキだな。ならばブドウのタルトはどうだろうか?」
自警団本部の裏手にあるケーキ屋は、期間限定メニューであるブドウのタルトが人気だった。たしか一昨日から販売を開始したはずである。
ファリエも大好きなケーキなので、こくこくとうなずいた。
「はい、ブドウのタルト、好きです」
「よし、分かった! それでは今から買って伺おう」
わざわざファリエの自宅に通話を入れているのだ。彼の言う「伺おう」とはつまり、ファリエの自宅への訪問宣言であろう。
デートすら断ろうと考えていたファリエは、途端に慌てた。伝声器本体と受話器をつなぐケーブルを空いた手で握り、目を剥いた。
「えっ、あの、どうして……?」
「君の見舞いに行きたいんだ。駄目だろうか?」
優しい声だった。ファリエのことを心底案じてくれていると、それだけで分かった。
(ごめんなさい。わたしは、あなたとの約束を勝手に破ろうとしてたんです。そんな気遣いをしてもらう資格なんて、ないんです)
そう言いたかったのに、どんどん顔は熱くなる。鼓動も速くなる。
「ありがとう、ございます……だめ、じゃないです」
そう呟いた時、いつの間にか目尻に溜まっていた涙がほろりと落ちた。一度こぼれ落ちると、堰を切ったかのようにますます溢れ出た。
「すまない、泣かせたいわけじゃなかったんだっ。すぐに行くから、そのまま待っていてくれ!」
出来るだけ音を立てないよう静かにすすり泣いたはずだったが、ばっちり気付かれていた。ティーゲルは慌てた声を上げ、待つように再度早口でまくし立てると通話を終了した。
無音の受話器を手にしたまま、ファリエは熱い吐息をこぼした。
ファリエが身勝手に罵ったにもかかわらず、ティーゲルは純粋に心配してくれていた。そして会いに行くと言ってくれていた。ファリエの好きなケーキのことも覚えてくれていた。
彼への申し訳なさや、気まずさが全て払しょくされたわけではないが、ファリエだって彼に会いたかったのだ。
だから、ティーゲルの気持ちが嬉しかった。
静かに受話器を置き、ファリエは踊りだしたい気持ちになる。事実、万歳するように両手を上げた。
そして、そこではたと気付いた。
(ティーゲルさんが、今から家に……来る?)
「えっ、今から!?」
思わず声に出して悲鳴を上げた。
何故ならデートに行く気などなかった彼女はパジャマ姿のままで、顔すら洗っていないのだ。己の出で立ちを見下ろし、再度ギャアと叫んだ。
万歳体勢のままアワアワと寝室に戻りかけ、すぐに引き返して洗面所に向かった。
涙目で歯を磨き、顔を洗った。ちなみにこの涙は嬉し涙などではなく、純然たる焦りからの涙である。
「どうしてティーゲルさん、わたしの住所知って――何度も家に呼んでるもの! 覚えてるに決まってるよね! あーもう、わたしの無警戒! ティーゲルさんでなきゃ危ないでしょ!」
その間にもスピード解決な自問自答と自虐と自罰も行い、たった一人で賑やかだった。
どうにか洗顔も終え、顔を保湿。そしてパジャマを脱いでブラジャーを着けつつ、同時並行で全身に日焼け止めも塗りたくった。
と、ここでちょこまかと動き続けていた体が止まる。
服は、何を着るべきだろうか。部屋着で問題ないのだろうか。
いや、わざわざティーゲルがお見舞いに来てくれるのだ。今日のために買った新しいものを下ろしても……と考えたところで
「だめっ。これは外で会う時に着たいから」
と、妙なこだわりが顔を出したため、即座に首を振った。
結局、そこそこ気に入っているワンピースに袖を通すことにした。カメリアのような落ち着いたピンク色で、イミテーションパールの装飾ボタンが付いたワンピースだ。
どうにか人の目に触れても問題ない恰好となり、最後に化粧も――とドレッサーへ足を踏み出したところで、時間切れとなった。チャイムの音が鳴ったのだ。
全身を強張らせてベッドサイドに置いた時計を見ると、通話を追えてからまだ十分程しか経っていない。
自警団本部からここまで、車でも十分かかる。ファリエの足なら二十分を要する。
にもかかわらずティーゲルは、本部の裏にあるケーキ屋でタルトを買い、ここに到着するのを十分で成し遂げたのか。
「ティーゲルさん、足が速い!」
再度の涙目となり、ファリエは叫んだ。それが聞こえたわけでもないだろうが、チャイムがもう一度押された。ピンポーン、という間の抜けた呼び出し音が妙に腹立たしい。
「エビやモヤシ並みに速いんじゃないかな……」
ファリエはそんな馬鹿なことを呟きつつ、諦めて口紅だけ塗ることにした。最近ではすっかりお気に入りとなった、ザクロのように鮮やかな赤い口紅である。