「うわあああっ!! 血ぃ!!!」
「は?」
突然叫び出したカイリに、叫ばれた側の海の神は面食らってしまう。何の話だ、と目線で問えば、「何キョトンとしとんねん!」と再び叫ばれた。
瞬間、勢いよく立ち上がったカイリは、海の神の細い腕を勢いよく掴んだ。
「どてっ腹に穴空いとるやんか!! これっ、い、痛くないんか!? 止血……止血せんと!!」
「なんじゃ。お主、記憶ないんか?」
「は? え? 記憶??」
キョトンとするカイリ。完全に操られている間の記憶が無くなっているようだ。
(幽霊とはいえ、魔法耐性はなかったか)
人には誰しも存在する魔力。だが、その魔力を使って魔法を使えるのはたったの数パーセント。故に、こうして魔法で操られた者は何かしら被害を受けることが多いのだ。
(まあ、記憶が飛ぶくらい軽いもんじゃ)
相性が悪かったり、受け入れる側の魔力が暴走したりすると、最悪死に至るから。
「んー。宴会で人魚の姉ちゃんと飲んでたことまでしか……っつーか、そんなんはどうでもええねん! 神さんの腹は!? 大丈夫なんか!? 医務室連れてったるか!?」
「ええい! さわぐな! 鬱陶しい!」
「ギャンッ!」
ガツンっとカイリの頭にゲンコツを叩きつける。あれだこれだと捲し立てるなんて、神の前でなんと言う無礼か。
「そもそも神はこんなものじゃ死なんわッ!」
「えっ、えっ」
「この傷ももう塞がっとる!」
服を捲り上げ、刺された腹を見せる。カイリが「キャー!」なんて女児みたいな声を上げ、顔を覆っていたが、その視線は指の隙間からちゃんとこちらを覗いていた。
(これ、悲鳴を上げるのはむしろ妾の方じゃないか?)
「傷あるように見えるか?」
「アリマセン。綺麗な真っ白いお腹です」
「そこまで言わんでいい」
ぱっと服から手を離す。隣で見ていたマリンが「何をしているんですかぁ!」と叫んでいるが、話を進めるためには必要な事だったのだ。知ったことでは無い。
(とはいえ、記憶が無くなったというのはちぃと厄介じゃな……)
海の神はじっとカイリを見下げる。首を傾げるカイリに、海の神は静かに目に力を凝縮させた。
「お主、本当に何も覚えていないのか?」
「? 何の話や?」
「……そうか」
(嘘は付いていないようじゃな)
海の神は集中していた力を解くと、息を吐いた。
せっかくこの失礼な男を叩き起して、本物の神と邪神の違いを思い知らせてやろうと思っていたのに、拍子抜けだ。
(フン、まあいい)
記憶がないことが分かった今、こいつには期待も何も無い。あるのは、襲われる前の僅かな情報を引き出させることだ。
「のぅ。お主、気を失う前に最後に誰かに会わんかったか?」
「えっ?」
「そうじゃのぅ。こう、御伽話に出てきそうな、魔法使いみたいなやつとか、目がこーんなつり上がった悪そうな奴とか」
「うわー。神様、もしかして会話下手っぴ?」
「ええい! お主には話しかけとらんわっ!」
割り込んでくるマリンに声を上げる。
茶々を入れている暇があるなら、ゴミの一つや二つ片付けて来てくれ。
(まったく。どいつもこいつも)
神に対しての態度じゃない。
「ええ〜? いやぁ、綺麗な姉ちゃんたちに囲まれてたのは覚えとるんやけど、その先はなぁ……」
「そうか。それじゃあ――ここに来てから今の今まで、誰にも、何も、されなかったんじゃな?」
「えっ」
カイリが小さく声を上げる。そんな彼に海の神は目を細めた。彼の僅かな反応も見逃さないと言わんばかりの視線だ。
僅かに沈黙が流れ、カイリはふと「……そういえば」と声を上げる。
「面白いモンがあるって、人魚の姉ちゃんに別の部屋に連れて行かれたわ」
「! そうか。場所は? 覚えとるか?」
「う、うーん……」
海の神の問いに、申し訳なさそうに眉を下げるカイリ。どうやらそこまでは覚えていないようだ。
(なんじゃ、使えん)
「なんじゃ、使えんのう」
「神様~。ホンネ、声に出ちゃってますよぉ〜」
「おぉっと。いけないいけない。今のは忘れてくれ」
「いや、普通に聞いちゃったんやけど。これ忘れないとあかん?」
微妙な顔をするカイリに悩んだ末、「好きにしろ」と告げれば「適当やなぁ~」と返された。やかましい。長生きしとると、何もかもをきっちりかっちりなんて出来んのじゃ。
(まあ、それはよい。それより、カイリの話を聞く限りじゃと、妾の使用人の中に術者の仲間がいることになるんじゃが)
もしそれが本当だとしたら………炙り出した後、それ相応の処罰を下さなければいけない。
放置しておく理由はないし、何より身内を危ない目に遭わせるようなことする奴は、ここには必要ない。
「お主を連れて行った者の顔や名前は、覚えていないのか?」
「ああ。それならバッチし覚えとるで」
サムズアップをするカイリから聞いた容姿は、当然海の神にとっては心当たりのあるものだった。
(アイツか……)
海の神はため息を吐く。――カイリが連れられた相手は、以前からこの城でも問題を起こしている人魚だった。
水色の髪に金色の瞳。白い肌に美しい鱗。
美女揃いの中でも一番と言ってもいいほどの美貌を持つ彼女は、派手な外見と同じくらい行動も派手だと聞いている。
そんな彼女がやらかしたとなれば――想像がついてしまう。
海の神は宴会場の方へ歩み寄ると、襖を掴む。そのまま襖を強引に引き剥がすと、雑に床に落とした。
波に流され、必死に縋りついていた使用人たちが一斉に海の神を見た。瞬間、サァッと血の気が引いていく彼らの顔は、もはや芸術の域だった。
「か、かかか、神様!?」
「どうなさったのですか!? ああいや! それより先に手当てを……!」
「おい! 大変だ! 神様が血塗れでご帰還されたぞ!」
騒ぎ立てる使用人たち。……さっき似たような光景を見た気がするが、気のせいだろう。
「静かにせぇ」
静かな声が響く。刹那、静まり返る周囲に、見ていたアリアたちは少し驚いていた。まさに鶴の一声。人の上に立つ者が成し得る事だった。
海の神は周囲を見回す。じっと見上げて来る者たちは多種多様で、よくもまあこんな場所にこんなに集まったもんだと感心する。まあ、ほとんどが知らない間に居ついているだけだが。
騒ぎになるのは何となく想像していたし、今はどうでもいい。
そんなことより、目的はただ一人。いや、一尾と言った方がいいだろうか。カイリを連れ出した問題児を逃がさないことだ。
「これはただのかすり傷じゃ。心配する必要はない。それより、エレシュはおるか?」
「エレシュ、ですか……?」
一番近くにいたペンギン族の使用人が呟く。すっと後ろを振り返ったかと思えば、その場にいた全員が彼女のいる場所を見ていた。
視線を一身に受けたのは――水色の髪をした、非常に美しい人魚。
「わ、わたくしに何かご用ですか?」
「ああ。単刀直入に聞こう。お主、この男を誑かしたそうじゃな?」
どよっと周囲が揺れる。一瞬にして周囲の視線が疑心に変わり、ひそひそと囁く声が聞こえる。人を纏める側としては、こそこそと人の事を話すのはやめさせるべきなのだろうが、今はエレシュと話す方が優先だ。
エレシュは一瞬肩を張ったかと思えば、へらりと笑みを浮かべる。
「何のことでしょう? 確かにお酌はさせていただきましたが……」
「誤魔化さんでも良いぞ。そもそも美女だからってほいほい誑かされたこやつが悪いんじゃからな」
「誑かされたなんて、人聞きが悪いで~、神サマ~」
「大して変わらんじゃろうが」
「いいからお主は黙っとれ」と告げれば、カイリは口を尖らせつつも存外素直に引き下がった。
何が起きているのか。何が起きたのか。全てを知らないカイリとしては、変に口を出せないのだろう。ただの馬鹿というわけではなさそうだ。
「エレシュ。お主がこの男を別室に連れて行ったのじゃろう? 何故そんなことをした?」
「そんなの、そちらの殿方が酔ってしまったと言っていたので、酔いを醒まさせようとしただけですよ。深い意味はございません」
「そうか。――カイリ」
「何や?」
「お主、その体で酔うのか」
海の神がカイリを見上げる。浮遊しているその男は、どこからどう見ても〝普通の人間〟じゃない。
カイリの目がキランと光る。察しもいいようで何よりだ。
「残念やけど、俺どんだけ飲んでも酔えへんのよなぁ~。だってほら、幽霊やし?」
「っ……! お、お酒じゃなくて、雰囲気に酔ってしまわれたのかも。わたくしはただ『酔った』と聞いただけで」
「そらおかしな話しやなぁ。俺、元々海賊しとったし宴会なんて日常茶飯事やったわ」
カッとエレシュの顔が赤くなる。図星を突かれた顔だ。
「でもっ、! 久しぶりだったら酔うこともあるんじゃないかしら?」
「何でそう思うん?」
「は……?」
「何で俺が宴会が久々やって、そう思うん?」
(意外と詰め方が容赦ないな)
女性相手だと尻込みするタイプかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
寧ろ逃がさないように追い詰めていく様は、少々エレシュを気の毒だとすら思ってしまう。
「そ、それは、聞いたからで……」
「誰から? 俺は話してへんと思うけど」
「そんなの、お酒の席じゃわからないじゃないですかっ」
「ほな、他の子にも聞いてみよか」
カイリはそう告げると、顔を上げた。いくつかの顔を見た後、近くにいたペンギン族の女に目を向ける。その視線は冷ややかで、とても宴会時と同一人物には見えない。
「なあ。俺、そんな話、しとった?」
「い、いえ。私は聞いておりませんが……」
「さよか!」
「おおきに!」と告げ、にぱっと笑うカイリ。しかし、すぐに視線は先ほどのものへと変わる。
(この男、とんだ狐じゃな)
へらへらしているかと思えば、一緒に飲んだ奴の顔を覚えるほどの警戒心の強さ。話の内容を覚えているのも、高すぎる警戒心からくるのだろう。だが、全てを疑っているわけではない。だからこそ厄介だ。
カイリは他の者にも自分がどんな話をしたのか聞いて回った。しかし、誰に聞いてもエリシュの言っていたような類の話は出てこない。
(黒か)
海の神は静かに目を伏せる。疑っていなかったわけではないが、自分の身内に裏切り者がいたという事実は思った以上に刺さる。
(それもこれも、妾が引き籠っていたからか……)
静かに息を吐いて、肩を落とす。エリシュを見れば彼女の顔は、どんどん暴かれていく状況に顔は真っ青になっていた。
じりじりと後退していくのを見て、海の神は飛び、静かに彼女の背後に降り立つ。トン、と足元に彼女の背中が触れる。見上げた顔は可哀想なくらい。もはや青を通り越して白くなっていた。
「だ、そうじゃが。何か言い訳はあるか?」
「あ……あ……」
カタカタと震える肩。線の細さも相俟ってより可哀想に見えるが、生憎こちらも引くわけにはいかない。
彼女の肩に触れようと手を伸ばせば、何かがコロンと足元に転がる。彼女の羽織っていた派手な羽織の袖から転がり落ちたのは――――