「……これは、もしや魔法道具か?」
「っ、見ないで!」
エレシュの大きな声が響く。
奪い返そうとした彼女の腕が勢いよく振るわれるが、海の神はそれをあっさりと防いだ。細い腕を掴み、彼女の背に回す。痛い痛いと声を上げているが、聞いてやる気にはならなかった。
海の神はしゃがみ込み、転がり落ちた物を見る。
落ちたのは白い貝殻だった。手のひらサイズの小さな貝殻は、一見ただの装飾品に見えるが、注意して見れば中には微量の魔力が込められているのがわかる。
(認識阻害魔法がかけられておるのか)
魔力を目立たなくするような簡単なものだが、掛けられているのと居ないのとでは大きな差がある。海の神は器用に片手で貝殻を開けると、中を見た。そこには黄色の魔法石が埋め込まれている。
「ほう。弱い魔法石じゃが、二回か三回くらいは魔法が使える物みたいじゃのう」
「返して! それは私のよ!」
「まあまあ。ええじゃろ? 見るくらい。人間の作った魔法道具は珍しいんじゃ」
嘘は言っていない。神である自分には必要ないからと、今まで見てこなかったのだ。意外としっかりとしている作りに感心しつつ、魔力の痕跡を測る。人間の定めた階級の上位魔法すら、海の神にとっては小手先で扱える。
(使ったのは一回……映像を流す魔法か)
なるほど。確かにこれは、弱い魔法石で十分かもしれない。そして同時に、彼女が相手からは捨て駒扱いである可能性も浮上してくる。
(まさかとは思うが……)
「エリシュ。これはどこで手に入れた?」
「……」
「エリシュ」
威圧を込め、彼女の名を呼ぶ。
エリシュは唇を噛み、視線を逸らした。まるで言いたくないと言わんばかりだ。周囲で見ていた者たちが、同情の目をエリシュに向ける。神の威圧を真正面から受けるなんて、普通なら御免だ。
何も言わないエリシュ。しばらく待っていた海の神だったが、いつまで経っても口を開かない彼女に舌を打った。顎を鷲掴み、強引に顔を上げさせる。
「早くしろ。妾は気が長い方じゃないぞ」
「っ、も、申し訳ございません!」
「謝罪はよい。それより、これを、どこで、手に入れたのか。それを聞いている」
手に力を込める。ギチギチと嫌な音がし「痛い! 痛いです!」と涙ながらに訴えるエリシュだが、海の神は力を弱めることはしなかった。
エリシュは情けをもらうことはできないと悟ったのか涙目になりながら叫んだ。
「そ、外です! 神域の外で出会った男に手渡されました!」
「男? 人間に会いに行ったのか? ひとりで?」
「っ、は、はい」
「そうか」
素直に頷く彼女に、海の神は手を離す。
顔を離されたエリシュがどさりと床に落ちる。彼女は自分の口元を押さえると、自身の自慢の顔を撫でる。変形していないことにホッと息を吐いた彼女は、視線を上げ――「ヒッ」と悲鳴を零した。彼女の目には怒りを隠さない神の姿が映っている事だろう。
「外には出るなと、何度も申しているはずだが、お主には言葉が通じないのか?」
「も、申し訳ございません……! そのっ、で、ですがっ、これは仕方がないことで……っ」
「地上の男を弄ぶことがか?」
「――!」
エリシュの目が見開かれる。信じられない、と言わんばかりの視線に、海の神は息を吐いた。
――確かに。こんな事件が起きたのは、自分の監督不行き届きが原因でもある。
だが、引き籠っている間、何もしていなかったわけではない。
「マリンから幾度となく報告を受けておる。温情で放置していたが、もし妾が知らないと思っていたのなら……随分と緩い頭をしているようじゃな。改めた方が身のためじゃぞ」
「っ……で、でも」
「でももだってもありゃせん。妾は全て見ておる」
「誰の神域じゃと思うとるんじゃ」と鼻を鳴らす海の神。
エリシュは絶望に染まった顔で、マリンを見た。マリンは自分の名前を出されるとは思っていなかったのか、驚きと不安の混ざった表情をしている。いつも明るい彼女が、珍しい。
(まあ、あの報告を妾が聞いていたとは、思いもしなかったのだろうが)
引き籠っている最中、マリンはもちろん、この城の者たち全員と距離を取っていた。驚くのも無理はない。
恨みの籠った視線でマリンを睨みつけるエリシュ。残念だが、彼女に当たるのはお門違いだ。海の神は自分の体でエリシュの視線を遮ってやる。特別、そんなことをする必要はないのだが、何となくそうした。
悔しさを煮詰めたような顔で見上げて来るエリシュに、海の神は哀れむ視線を向ける事しかできない。そもそも、哀れみすら必要ないかもしれないが。
――この神域には基本的な大きなルールが三つ、存在している。
一、 外にいるヒト型の種族の前には姿を現さない
二、 外の世界から許可なく人を連れてきてはいけない
三、 外の世界の種族と許可なく関わりを持ってはいけない
これを破った者はこの神域の出入りを禁止され、広い海の中に独り放り出される。理由はただ一つ。仲間たちを守るため。
希少種が大半を占めているこの神域は、簡単に外の世界の者が足を踏み入れられる場所ではない。神としての自分を守る理由でもあるが、海の神としては何より彼等を守りたいのだ。
それを知っているから皆ルールを守ろうとするし、守らせようとする。誰しも好奇の目に晒されるのは避けたいはずだ。
だから以前サイモンたちを城に呼んだ時は、賛否が分かれて大変なことになったのを覚えている。寄りにも寄ってこの神域の長がやってしまったのだから、当然のことだが。
(懐かしいのう)
あの時は本当に申し訳ないことをした。でも結果外の世界の王と繋がりを作れたのだから、良しとして欲しいところではある。
(エリシュも神だったら、咎められることはなかったのかもしれんが……)
「身分の差はどうしようもないからのう」
「は?」
「いや」
海の神は首を横に振る。余計なことを言ってしまった。
ともかく、ルールを破った――しかも一回二回だけではないとなれば、多少の罰は逃れられない。何より、周囲の好意を都合のいいように受け取り、自ら罪を重ね、周りの気遣いを水泡に帰した彼女は、自分がどれだけの事をしたのか、わかっていない様子だった。
そんな彼女に恩恵を与える理由は、ないだろう。
(自業自得じゃな)
ここまで騒いでいて、誰も助けに入らないのがその証拠だ。
「エリシュ、お主はこの神域でのルールを破った。よって、この神域から追放とする」
「なっ……!?」
「だから、もし言いたいことがあるなら、今の内に聞くぞ」
「っ、なんなのよその言い草!」
バンッと床を叩くエリシュ。
荒々しい様子に(まあ、そうなるか)と海の神は思う。
「神様だからってエラソーにしないでよ!」
「実際偉いんじゃから仕方なかろう」
「うるっさいわね! そんなこと聞いてないわよ!」
バンバンと彼女の尾びれが床を叩く。相当頭にキているのだろう。さっきまでのか弱さは見えず、苛立ちに本性を現した彼女は真っ赤な顔をしている。
海の神を見てハッと鼻で嗤った。
「そっちが仕方ないなら、こっちだって仕方ないわ。だって毎日毎日同じ景色の繰り返し。退屈で退屈で仕方なかったわ! 外に刺激を求めるくらい、フツーでしょ? そんなに私にやめて欲しかったら暇にならないくらいのことしてから言って欲しいわ!」
「おお……なんや、いっそ清々しいくらいやな」
「ブスは黙ってて!」
「はああぁあ~~!? 俺はイケメンですけどぉぉおおぉお???」
緊迫した雰囲気に、誰かが吹き出した声が聞こえる。顔を上げて確認したが、犯人は分からなかった。かくいう自分も油断していたら吹き出していた。
(だから黙っておれと言ったじゃろう)
まさかこんなところで彼の策にハマりそうになるとは、思ってもいなかった。ちなみに、人間の中でのレベルはわからないが、彼の容姿はそこそこ整っていると思う。調子に乗るから絶対に言わないが。
エリシュは続ける。
「大体、なんで私が怒られなきゃいけないのよ! 人間は私たち人魚が好きじゃない! 見れるだけで幸運だっていう人だっているのよ!? そんな男たちを引っ掛けて遊んで、何が悪いの!?」
「……何かが起きてからじゃ意味がないんじゃ。それくらい分かるじゃろ」
「はあ!? そんなの知らないし! 実際、何も起きてないんだからいいじゃない!」
「偽善者ぶってんじゃないわよ!」と叫ぶ彼女に、海の神は口を噤んだ。決して彼女の言葉が正しいからではない。この数分でのやり取りで、彼女には何を言ってもダメだと悟ったからだった。
(頭が痛くなってくるな……)
あまりの傍若無人っぷりに、神ですら頭を抱えてしまう。
温情なんかかけず、もっと早くに追放していれば良かった。……そう思ってしまうくらいには、彼女の反応は手遅れだった。
「……もう良い。そんなに外の世界が好きなら、ここにいるより外に出た方がお主にとっては幸福なのかもしれんな」
「はっ! そうよ! 私はこんな小さなところで飼い殺しにされる気は無いわ! さっさと出してちょうだい!」
「そうか。それは……気づくのが遅くなってすまんかったのう」
呆れ混じりに告げる海の神に、エリシュは満足そうに頷く。まるで自分は間違っていないと言わんばかりの表情だ。五歳児を相手しているような気分だと思ったのは、言わないでおこう。
海の神は腕を上げ、宙でくるりと円を描く。人の頭一つ入りそうだった円は、徐々に大きくなり、エリシュの上半身が入るほどになった。神域の膜を切り取ったのだ。この先は外の世界のどこかに繋がっている。
そうエリシュに説明をすれば、彼女は嬉しそうに円の中を覗き見た。「早く行きたいわ!」と笑う彼女のキラキラした表情は、この城の中では一度も見たことがないものだった。それだけで、彼女がどれだけ窮屈な思いをしていたのかが伺える。
「……エリシュ。最後に一つだけ言っておくぞ」
「なによ?」
むっとした顔で振り返るエリシュ。もう既に自分を敬う気持ちはないらしい。元々なかったのかもしれないけど、好意がないのが真っすぐ伝わると、少しだけ悲しくなる。
「外は、お主が思っているよりもいいものじゃないぞ。妾たちよりも大きな生物が沢山いて、お主にとって恐ろしいことだってあちらこちらに潜んでおる。綺麗ごとだけじゃやっては行けん」
「ふん。そんなの、怖くもなんともないわ。それに、私だってもう何度も外に出ているのよ? 何も知らない役立たずな箱入り娘たちと一緒にしないで頂戴」
エリシュは他の人魚たちを見ると、まるで嘲笑うように笑みを浮かべる。エリシュの目には、彼女たちは自分よりも下位の存在として映っているらしい。
(傲慢もここまで来ると清々しいな)
……カイリの意見に同意するのは癪だが。
こうなったらいっそのこと、うんと怖がらせてから送り出してしまおう。その方が彼女も多少は自分のやったことに実感が沸くのではないだろうか。それでも無理なら、もう自分達の手には負えない。
「そうか。だがな、妾は心配なんじゃ。今まで追放してきたもの達もいるが、大半は一年以上生きながらえた者はごく僅かでな」
「え……」
「お主が強く賢いことは承知しているが……それでも心配なんじゃ。ある者は凶悪な魚に全身を噛み砕かれて一瞬じゃったし、ある者は巨大な哺乳類に丸呑み。到底、普通の者が生きられるような環境下ではないんじゃ」
「っ、!」
「最後は皆、見る影もなかったが……お主は賢く強いからのう。大丈夫じゃろう」
ニコリと笑みを浮かべる海の神。
しかし、笑顔を向けられたエリシュの顔は今までに見たことがないほど真っ白になっている。もはや幽霊であるカイリよりも、よっぽど幽霊らしい。
「ま、待って! 嘘でしょ? 私を怖がらせて、ここに留まらせたいだけなんでしょ? そ、それならそうと言ってくれれば、居てあげてもいいわよ? ね?」
「神域を出れば、妾の加護もなくなる。お主がせっかくひとりで生きていくと決意をしたのじゃ。妾は応援するぞ」
「え? ちょっと。本気? 本気なの?」
「幸い、海の生き物はでかい者が多いからのう。死ぬ時は一瞬じゃよ。安心せぇ」
多少怖い言い方にはなったが、嘘は言っていない。顔を真っ青にするエリシュに、海の神は目を伏せた。エリシュの身体が浮く。徐々に外へ通じる穴へと近づいていくと、彼女は慌ててこちらに手を伸ばしてきた。
「待って! 待ってよ!」
「達者でな」
「いやあああああ!!!」
だが海の神に情けはなかった。
無慈悲に外の世界へと投げられたエリシュの悲鳴が、外界へと飲み込まれていく。彼女の水色の大きな瞳に溜まった涙だけが取り残され――エリシュは、神域を完全に追放された。
穴が閉じ、シンと静まり返る空間。出口を閉じた海の神は「さて」と呟いた。
「あとはサイモンに託すとして、お主たちは城の掃除じゃ。ほれ! 呆けとらんではよ掃除せんか!」
「「「は、はいっ!!」」」
蜘蛛の子を散らすように使用人たちが駆け回る。バタバタと書けていく姿を見て、海の神は息を吐いた。
手元に残ったのは魔法道具と、追放したという事実だけ。後者はどうしようもないが、前者はサイモンに預けた方がよさそうだ。
(外の世界では何かとトラブルが起きているみたいじゃし、何かに使えるかもしれん)
「海の神様」
不意に呼ばれ、振り返る。声をかけて来たのは、サイモンの弟子――アリアだった。
濡れた赤毛は前髪を掻き上げられている。服は濡れ、アリアの細い身体に張り付いている。
(すっかり忘れとった)
「ああ、アリアか。どうかしたか?」
「大丈夫、なんですか?」
「何がじゃ?」
「いえ、その……」
ちらりと視線を向ける。さっきまでエリシュが居たところには、涙の雫一滴だけが残されていた。それもすぐに使用人によって、拭き取られてしまうだろう。
此処での彼女の存在は、徐々に薄れていく。寂しくないかと問われれば……神である自分にはよくわからない。誰かが離れていくのは、自分にとっては普通のことなのだ。
「なんじゃ。あの子を心配しておるのか?」
「……はい。その、最後にいろいろ言っていたので」
「はははっ、お主は優しいのう」
「安心せぇ。あれはちょっと怖がらせようと思って大袈裟に言っただけじゃ」と告げれば、アリアは目に見えて安心した。
(サイモンにはもったいないくらいじゃ)
アイツはまた来ると言って数百年放置する男だ。アリアの爪の垢を煎じて飲ませたとて、足りんじゃろう。
「お主が気にすることじゃないぞ。むしろ、濡らしてしまってすまんかったのぅ」
「あ、いえっ」
「すぐに乾かしてやる」
くるりと空中で指を回せば、風が吹く。
アリアとついでに後ろにいたグレアを中心に吹いた風は、すぐに二人の服や毛並みを乾かした。目を輝かせるアリアに「さすが神じゃろ?」と笑えば、キラキラした目で頷かれる。
――そうだ。自分はこの視線が欲しかったのだ。
ふっと笑って、海の神はアリアの頭を撫でた。撫でられているアリアは首を傾げている。その純粋さが、今はとても眩しい。
グレアを見上げれば、気まずそうな顔をして視線を逸らされた。うーん。どっちも若々しい。
「いいのう。もしサイモンが戻らんかったら、二人ともうちに住むか?」
「えっ」
「ちょっと、海ちゃん!」
「冗談じゃ」
焦った声を出すマリンに、海の神は上機嫌に笑う。冗談として濁したが、内心半分は本気だ。
(サイモンよ。早く帰って来ないと、本当にもらってしまうぞ)
そう呟き、海の神は目を閉じる。まあ、彼に心配はいらないと知っている。だからこれは、旧友としての、純粋な心配である。